宿<店主>
空が厚い雲に覆われたのに気づいたのは食事を終え店を出た時のことだった。
いつの間にか明るかった世界は日が隠れ、闇の支配下になっている。その上、黒い雲は雷鳴を鳴らし、稲光を血管のように光らせる。
いつ雨が降ってもおかしくない状態だ。
エンリは足早に歩き始めた。
時刻は12時50分、目的の宿はここからほど近いので一時前には着くことができるだろう。
大通りを歩き、路地に逸れ、迷路のような入り組んだ道の先に目的の宿はあった。
古びた看板には「路地裏宿」と掠れた文字で書かれている。
大通りに並ぶ宿とは違い随分と寂れた宿だ。
メッキのはげたドアノブに手をかけ少し重く立て付けの悪い扉を押し開ける。
からんからんという喫茶のような音が店内に響き渡る。
それと同時に感じる殺気。吐き気を催すような尋常ではない空気にエンリは咄嗟に結界を張る。
振り下ろされた大斧が見えたのは結界をぶつかり合い火花が散った頃だった。
あと少しでも結界を張るのが遅れていたのならエンリの体にその大斧で体を骨ごと叩き斬っていただろう。
エンリの視線は自然と大斧の主へ向かう。
黒と白が混ざった独特の髪色に顔に大きな傷を負った四十代ほどの男。彼がきているエプロンにつけられた名札には裏路地宿店主との記載があるのでこの宿の店主なのだろう。
だとしても宿の店主には似合わぬ筋骨隆々ぶりだ。
結界にヒビが入る。
その光景にエンリは困惑と衝撃により複雑な表情を取る。
それもそのはずこの結界は空間と空間を切り離し虚無を生み出すことで自分の身を守る特殊な結界だ。
その結界にヒビを入れるということは虚無にヒビを入れるのと同じ。少なからず人間ができる技ではない。
実際のこの暴れようにを見るに人というよりも鬼神と言われたほうが納得できる。
そしてそんな鬼神の後ろから女性の声が聞こえてくる。
優しく穏やかな声だ。
「お父さんやめて!」
叫び声に近い声が店内に響き渡る。
声の主は二十歳前後の女性だ。黒く艶やかな黒髪が腰まであり、優しく慈愛に満ちた垂れ目と右目の目尻にある泣きぼくろが特徴的な可愛いというよりも綺麗という言葉が似合う女性だ。
女性の声に大斧を持った店主の力が一瞬弱まる。
その瞬間に地面を蹴り間合いを取る。
「ダメだ、リリア。お父さんは彼氏なんて認めないぞ!!!」
そう言って再び切りかかってくる店主。
体温が上がっているのか口から蒸気を吹き出す。どうやら娘から恋人の話をされたせいで理性が融解したらしい。
左目が赤く光り出す。その瞬間店主から溢れる魔力が一気に増幅され、宿内に満たされる。
瞬きの合間、店主は赤い軌跡をその場に残し姿を消す。
そして目の前に現れる。
エンリは咄嗟に身を翻し、後ろへ跳躍。次の瞬間、エンリのいた場所は床が粉砕され、その風圧が店内を荒らして回る。
その瞳に理性はなく狂戦士と化している。
「お父さん!その人、私の彼氏じゃない!単なるお客さんだよ!」
しかし娘さんの必死の訴えも聞こえていないのか、エンリを追いかけ回す。どう考えても異常な光景だ。
娘さんがエンリに話しかけてくる。
「大丈夫ですか、お客さん!今、近くの人、呼んでくるので待っててください」
「あー、別に大丈夫だよ」
「え?」
予想外の言葉に混乱する娘さん。
エンリはそんな娘さんに笑顔を向け、語る。
「このまま気絶させてもらってもいいかな?」
「え、あ、はい。大丈夫ですけど……問題ないんですか?」
「大丈夫、大丈夫。荒事に離れてるから」
そういうとエンリは振り下ろされる大斧を掴み取り、地面を蹴り、跳躍。体を捻りその回転の勢いを利用して、柄を破壊する。
一瞬の衝撃的な出来事に娘さんは目をパチクリとさせる。
そしてエンリは手元に残った大斧の刃の部分を適当に投げ捨て、店主の方に視線を戻す。
獲物を失った店主はエンリに向けて突っ込んでくる。
どうやら殴り合いを所望らしい。
店主の拳がエンリの寸前に迫った時、その拳が消える。
正確には消えたわけではなく、空間に飲み込まれた。
まるで水面に手を突っ込んだ時のように空間に波紋が伝わる。
力が目一杯込められた自分の拳が店主の顔面を捉える。
命中だ。
鈍い音とともに鼻血を吹き出す店主。
一瞬、体勢を崩すも左足で地面を踏み込み無理やり戻す。
そして再び拳を振るう。
まだ頭に登った血が戻らないらしい。
しかし振るった拳はことごとく自分の元へ戻り、ついに膝をつく。
エンリは小さく息を吐き、自分の周りに張っていた結界を解く。
何発自分の顔に拳をふるったのだろう。
顔は腫れ上がり、殴打跡が非常に痛ましい。
思わず目を背けたくなるほどだ。
エンリが振り返ると、そこには口元を押さえ青ざめている娘さんの姿がある。
やりすぎたと咄嗟に悟り、言い訳がましいフォローを入れる。
「気絶してるだけです。良い薬を持ってるんですぐに治りますよ」
「そう、ですか……」
エンリはすぐにトランクケースから瓶詰めにされた緑色の液体を取り出す。
白目を剥き気絶している店主を仰向けにし、瓶のコルクを抜く。そしてぶっかける。豪快に全て店主の顔に。
じゅ〜っという音とともに煙が上がって来る。
なんとも言えない異臭が宿内に広がる。
「あ、あの、これ溶けてませんか?」
「溶けてません。溶けてるように見えるだけです」
そうあくまで溶けているように見えるだけだ。
顔の表面が沸騰したお湯のように泡立って見えるのもあくまで泡立っているように見えるだけなのだ。
三十秒ほどしてそれらの現象は収まり、元の顔に戻った店主を見て自信げにエンリは娘さんの方に向き直る。
そしてその僅かな間に問題は起きる。
「がぁあ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ぁぁぁ!!!!!!!」
獣に近い咆哮とともに店主が起き上がる。
いつの間にか左目の赤い光が戻っており、先ほどより赤く激しくなっている。
本能的と経験が同時に警告を発する。
異常なことが起きていると。
「娘さん、下がって!」
エンリの言葉とともにまるで覆いかぶさるように店主が襲いかかる。
それは人というよりも獣に近い戦い方。もっと言えば魔獣に近い戦い方だ。
腹部に膝蹴りをするも一切の効果が見れない。
異様な状態変化にエンリの脳内は混乱していた。
一体どういうことだ!?
宿屋の店主ってのは急に凶暴化したり、ここまでタフじゃないとできないものなのか!?
筋肉の異常な膨張、理性の欠如、異常なまでの凶暴性。もはや人間とは違う別の生き物だろう。
「娘さん!悪いけどお父さんには少し痛い目にあってもらうよ」
エンリは娘さんの返事を持たず、身を翻した。
左手で店主の上腕部を掴み、右手で前腕部を掴む。そして捻りとる。
店主の巨体はエンリを軸に一回転し地面に叩きつけられる。
床がベキッと言って凹む。
しかし店主は痛みを感じていないのかすぐに立ち上がり、再びエンリを襲う。
突進して来る店主をエンリは片手で止め、そのまま頭を掴み取り、跳躍。鳩尾に大気を揺らすほどの蹴りを入れる。
空気を無理やり吐き出させられる店主。
そして間髪入れず、エンリは追撃する。右手を心臓の上に添え、魔力による波動を打ち込む。
店主はその反動に耐えきれず、宙を浮きそうになるがエンリが頭をつかんでいるので叶わず、完全で完璧な攻撃が決まる。
流石の店主も参ったのかだらんと地面に倒れこむ。
次は起き上がってこなかった。
からんからんという音ともに古びた重い扉が開かれる。
一瞬逆光で視界がくらむがすぐに元に戻る。
そして見知った姿を目の当たりにする。
パンパンに詰まった色褪せた皮のバックに白衣を着た二十歳前後の男。
つい三十分ほど前まで共に話をしていた男の姿がそこにはあった。
それは奇妙な縁。必然めいた運命を感じる。
キリヤだ。キリヤ・ベルベロラその人だった。
その瞬間、全てを理解する。
キリヤがやけに時間を気にしながら喫茶店で時間を潰していた理由。この宿で店主と戦う羽目になった原因。
この男はこの宿の店主の娘である黒髪の彼女の彼氏だ。
おそらく彼女の実家であるこの宿で会う約束でもしていたのだろう。
時刻は一時ちょうど、振り子時計が時間を知らせる。
困惑するキリヤ。
目の前には倒れこむ巨漢の男。その前にはつい先ほどまで近くの喫茶で会話をしていた男。その先には自分の彼女。
混乱するのも仕方がない。
静寂が宿を包む。
誰も言葉を発さない。発せない。発せるわけもない。
この場にいる全ての人間がこの状況に混乱し、理解できていない。
そんな状態で話すことは何もないのだ。
数秒後、エンリが口を開く。
「また会ったな、キリヤ」
「あ、ああ、また会ったね、エンリ」
苦笑いまじりのその表情は何とも言えない感情を表していた。
ここまで読んでくれてありがとうございます。
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あと遅筆なくせに他シリーズを書き始めたらこのシリーズの執筆が間に合わなくなったので一ヶ月ほど投稿をお休みします。気が向き次第投稿します。
失踪じゃないので気長に待ってくれると嬉しいです。