祈り
「シャノン、お帰りなさい。…あら、あなた、どうしたの。顔色が真っ青よ?まるで、幽霊でも見たみたいに」
母は、帰宅した私を玄関口で見て訝し気な声を上げた。
私は慌てて口を開く。
「そうかしら、大丈夫よ。…でも、少し疲れが出たのかもしれないわね。しばらく、部屋で休むわ。1人にしておいて貰える?」
母は私の言葉に労るような視線を向けると、微笑んで頷いてくれた。
…むしろ、幽霊を見たほうがよかったくらいだわ。
私は先ほど起こったことを思い返して思わずぶるりと震えると、急いで自室へと入った。
この前のアストリア王国との戦の後、この王国に広まった噂がある。…ディーク王国に現れた新しい若い精獣さまは、風を司る精霊の化身。危機的な状況にあったディーク王国を、風の精獣さまが救ってくださった。
その噂に、ぼんやりと思ったのを覚えている。
…風魔法は、一定以下の力しかない者が扱うならば、ほかの種類の魔法よりも威力が弱く、容易に蹴散らされてしまう。けれど、もし風を自由に操れるほどの力があれば、風で煽ることのできる対象ーー炎や水流や氷といった魔法であれば、攻撃の威力にもよるけれど、それを躱すことも、その攻撃を使い手に返すことも可能になる。
ディーク王国を守るうえでとてもありがたい精獣さまだ。もしアストリア王国が攻撃を仕掛けてくるなら、適性の合う者がそもそも少ない光魔法か闇魔法の使い手でないと難しいだろう、と。
光魔法に適性がある者は神官になることが多いとはいえ…まさか、それを私の役目として、敵国から声を掛けられることになろうとは。乾いた笑いが口から溢れる。
けれど。
あの炎の将軍が私に声を掛けたということは、彼はきっと、大事なことを知らない。だから、私はあのとき、彼の言葉に頷いたのだ。
自室のドアに念のため内側から鍵を掛けると、震えが完全には収まらないままの手で、ある魔法の陣形を描く。それは、この国で神官になる儀式を受けてから、一生に一度しか使えない魔法だった。
私が描いた陣形が一瞬眩い光を帯びたあと、ゆっくりと光が消えていく。最後に陣形の中央に残った、親指の先ほどの大きさの淡く光る石を手にすると、私は肩で息をしながら、必死の思いで祈りの姿勢に入った。
…時間はあまりない。この祈りが届くかは賭けだった。
この王国の副神官長まで務めた、祖父の優しい微笑みが、彼の言葉とともに心に浮かぶ。
(精霊様に祈るときは、どの精霊様に対して何を望むのか、具体的に祈りなさい。…ただ、精霊様に対する祈りは基本的に一方通行だよ。応えて欲しいとまで望むのは強欲というもの。ただ、耳に届けばいい、そう考えて祈りなさい)
床に跪き、窓から空を臨む位置で両手を組み、首を垂れる。
もし私の祈りが聞き入れてもらえなければ、危険は増すけれど、自分で対処するほかない。
きっと、私にはアストリア王国の監視がつくだろう。手紙などの連絡手段はもとより、必要な人に直接会うことができるのかどうかも懐疑的だった。けれど、それでもやるしかない。覚悟は出来ていた。
どのくらい、時間が経っただろうか。
かたり、と窓のところから音がした。窓に差した影からは、2つの美しい金色の瞳がこちらを見つめている。
私はじわりと視界が熱く滲むのを感じた。…ああ、彼は応えてくれた。
まだ本番はこれからだ。気を抜く訳にはいかないけれど、まずはこれが第一段階。
私は窓を開けると、彼に深くお辞儀をして感謝の意を伝えてから、手にした淡い光を発する石を手渡し、彼の耳に囁いた。
「これを、シリウス様に届けていただけますでしょうか」
彼は私から受け取ったものを口に咥えると、その聡明そうな瞳で私を見つめてから、姿を消した。
…シリウス様なら、これで気付いてくださるに違いない。
私は窓からもう一度空を眺めると、私の思いが無事にシリウス様に届くようにと祈った。
***
騎士団の建物の客間には、ルーク様を訪ねてきた幼い少女が通されていた。
テーブルを挟む椅子に、ルーク様と少女が向かい合って腰掛けている。
「アリシアは、こっちに来て」
エリザが、同じ部屋の少し離れたところへ私を手招きする。アルスとグレンも、私を庇うように立っていた。
「…それで、君はどうしてここに来たんだい。訳を聞かせてくれる?」
ルーク様が穏やかな口調で少女に話し掛けた。
「私はクレアと申します。…騎士様は、きっと私について多くのことをご存知ですよね。それを承知の上での不躾なお願いなのですが、私の家族を助けてはいただけませんでしょうか」
少女は目に強い光を湛え、祈るように、膝の上でぎゅっと両手を結んでいる。
「家族、というと?」
ルーク様が目を細める。
「はい。…このディーク王国で私を拾ってくれた家族と、アストリア王国にいる母と弟のことです」
「ディーク王国の君の家族については、調べはついているよ。君は、この前の市場でも姉と慕っていた彼女に、以前に拾われたそうだね。
…こちらについては、君に監視をつけたとき、君の家の人がまた事故に巻き込まれたりしないように、見張りを付けている。だから、身の安全には問題はないだろう」
「…!ありがとうございます」
表情にほっと安堵を滲ませて、少女はぺこりとルーク様に頭を下げた。
「それから、アストリア王国にいる家族…母と弟とは?こちらは俺たちも知らない。説明してくれる?」
「はい。…話すと少し長くなりますが…」
クレアは、自分が攫われてから今までのことを簡潔に説明すると、母と弟がアストリア王国の王宮に保護されていることを話した。
私は、思わず横から彼女に話し掛けた。
「あの。…あなたの弟さんの名前は?」
「弟の名前はノアです」
「ああ、やっぱり…」
オレンジ色に輝く瞳の、銀色の髪の男の子の人懐こい微笑みが頭に浮かぶ。
彼女はそんな私の様子を眺めると、思い切ったように、私の命を狙う特命を炎の将軍から受けていたことも口にして、椅子から立ち上がり、私に大きく頭を下げた。
「…私は、以前貴女の命を狙いました。謝って済むものではありませんが、すみませんでした。
そして、この前は姉のことを助けてくださり、ありがとうございました。もう、すっかり姉は元気です」
私を見つめる少女の視線は真っ直ぐだった。
私の命を狙ったと少女が口にしたとき、アルスとグレンの周りの温度が急に下がったような気がしたけれど、慌てて諫めた。
ルーク様は少女の話に思案顔になってから、腕を組んで首を傾げ、少女を見つめた。
「今の君の話を信じるとして、疑問があるんだが。…君の話だと、ディーク王国にはまだ密偵が潜んでいるようだ。そうすると、君の行動…ここに来たことさえ、恐らくアストリア王国に報告されることになる。
君の守りたい母君と弟君は、君の行動によってむしろ危険に晒されることにならないかい?それを知った上だと思うけれど、なぜ君はここに来た?」
少女は少し俯いてから、また顔を上げ、ルーク様を真正面から見つめた。
「では、まず、私の母と弟の身の安全からですが。2人の立場が私のせいで悪くなる可能性はありますが、…とりわけ母は危害を加えられることはないと思います。そして、母は何があっても弟を守るでしょう。
炎の将軍は、王宮に保護されたという母たちのことを案じて私が尋ねると、こう答えたのです。
『魔族の長の妹君なのだから、もちろん王宮で丁重にもてなしているよ。魔族の長の怒りに触れるようなことはしないつもりだ。まあ、王宮には結界が張ってあるがな』と」
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