クレアの回想3
私に声を掛けてきた、白い肌にそばかすの散った人懐こい雰囲気の少女は、話し掛けられても黙って俯く私の隣にすとんと腰を下ろした。
驚く私をよそに、彼女は荷物から水筒を取り出すと、小さなカップにこぽこぽとその中身を注いだ。
ふわり、と、どこか懐かしいような、優しい香ばしい香りが漂う。
(…いい香り)
少女の持つカップに向けた私の視線に微笑んだ彼女は、その液体の注がれたカップを私に差し出して来た。
「これ、薬草茶なの。すぐに傷に効くものではないけど、美味しいわよ。よかったらどうぞ」
特に喉が渇いていた訳ではなかったけれど、彼女の好意を無駄にしたくはなくて、こくりと頷いてカップを受け取る。
そっとカップに口を付けて一口飲んだら、どこかほっとするような、温かな味わいだった。
「美味しい…」
思わずお茶を見つめて呟いた私に、彼女は嬉しそうににこりと笑った。
「よかった!…少しでも飲むと、気持ちが落ち着くでしょう。
うち、ここから近いのよ。よかったら寄って行って。膝の治療をしてあげるわ」
彼女は、私をおぶろうと背中を私に向けてしゃがんだ。私は、少し躊躇ったけれど、彼女の背におぶさった。…彼女の背中は、細かったけれど、とても温かかった。
彼女は、家まで歩く道すがら、私を気遣うように尋ねた。
「あんなところで、1人でどうしたの?…何だか、暗い顔をしていたわよ」
私は、黙って固まったままだった。疲れていたこともあったけれど、この人のよさそうな少女に嘘を吐きたくなかったのかもしれない。頑なに口を閉ざしたままの私に、彼女はそれ以上話し掛けはしなかった。
しばらく歩いてから、彼女は一軒の家の前で私を下ろしてくれた。
「ここが私の住んでいる家よ。どうぞ、入って」
彼女は家と言ったけれど、一階はお店になっているようだ。お茶を炒っているのか、よい香りが漂ってきて鼻をくすぐる。店内の端にある階段を上ると、住居と思しき空間になっていた。
彼女に勧められるままに椅子に座ると、彼女は薬箱を出してきて、私の膝の汚れを落としてから、優しい手付きで消毒をし、包帯をしてくれた。
その手付きに、どこか母を思い出す。
…王宮で保護されているとは聞いているけれど、私は犯した罪に恩赦を受けたという特殊な立場だったので、王宮に入ることは許されなかった。母にも弟にも、攫われて以来会えてはいない。
急に寂しさが込み上げてきて、目からぽろぽろと涙が溢れた。
少女は急に泣き出した私に、驚いたように目を瞠ったけれど、ゆっくりと私の背中をさすってくれた。
「…私、1人ぼっちなの」
それは嘘ではなかった。ほかにもこの国には、自分と同じアストリア王国の密偵がいるとはいえ、利害で結ばれただけの関係に過ぎなかったからだ。
ようやくそれだけを呟くと、彼女は柔らかく私の身体を抱き締めると、穏やかに微笑んで口を開いた。
「それなら、あなたさえよかったらうちで暮らす?
…きっと、父さんや母さんも歓迎してくれるわ。私はステラよ、よろしくね。
あなたの名前は?」
「クレア、です」
ぽつりと言った私に、彼女は私の顔を覗き込んで温かく笑いかけた。
「いい名前ね、クレア。これから、よろしくね。後で、私の家族を紹介するわ」
ステラと話していて知ったところによれば、ステラは昔、孤児だったところを、この店を営む夫婦に拾われたらしい。そして、今はこの店を手伝っているという。
また、このところの魔物の襲撃で家族を失った子も出ているようで、どうやら、私もその1人だと思われたようだ。自分が元々孤児だったこともあってか、気の良い彼女は私のことを放ってはおけないと思ったようだった。
私は躊躇ったけれど、結局、彼女の言葉に甘えることにした。
***
彼女は私のことを妹ができたようだと喜んでくれ、次第に私は彼女を姉と慕うようになった。あどけない顔立ちのステラお姉ちゃんは、意外にも思った以上に歳が離れていたけれど、面倒見がよくて、とても優しかった。ステラお姉ちゃんの後をついて歩くようになった私は、万一顔を知っている人に見られないようにと大きなフードの付いた服を着ながら、次第に店の手伝いもするようになっていた。
「ねえ、お姉ちゃん。このお茶の葉っぱはどうすればいい?」
「ああ、それはね…」
「おお、ステラに、クレアもか。今日も精が出るねえ」
私たちが茶葉の仕分け作業をしていると、深い皺の刻まれた顔を綻ばせ、店で働く古株の職人が入って来た。
「あ、スミスさん!おはようございます」
ぺこりと頭を下げた私たちに、彼は微笑みを浮かべて頷いた。
「朝早くから、働き者だな。…君たちのお陰で、店にも活気がある。客足も増えているようだよ」
ステラお姉ちゃんは私を見て、嬉しそうに目を細めた。
「クレアはとっても物覚えがいいのよ。それに、クレアがうちに来てくれてから、本当に売上も増えているの。…クレアが手伝ってくれるお陰ね」
私は頬に血が昇るのを感じ、首を横に振ったけれど、2人はにこにこと私を見つめていた。
想像していた以上に、ステラお姉ちゃんのいるその家、そしてその店は温かく、居心地がよかった。
…思えば。私の本当の家族も仲はよかったけれど、私の母は、その人間離れした美しさからか、魔族という噂がすぐに立ってしまったらしい。
私は、物心つく頃には魔物の子として、近所の人々や同じ年頃の子供たちからは爪弾きにされていた。
…魔物の子で、魔族の血を引いていて、何が悪い。
母を誇りに思っているから、いつも私や家族に対する嘲りや揶揄いの言葉は気にしないようにしていたけれど、それは幼い子供にはやはり辛いことだったのだと、今になれば思う。
人間は、自分と少し似ていて、けれどどこか違う、そんな存在を、その違う部分を標的にして攻撃することが多いのではないだろうか。
けれどこの場所は、初めて、自分をそのまま、温かく受け入れてくれた場所だった。
その気持ちばかりのお礼に、薬草茶の茶葉には少し細工をした。…ほんの少し、回復魔法を込めたのだ。
常連客が、よく効いたと薬草茶を喜んでくれる度、自分のことのように嬉しかった。
…けれど、それと同時に恐怖もあった。背負った任務から、私は今、目を背けている。このままこの生活を続けられるとは思えない。この幸せな生活に突然終止符が打たれる時が怖かった。
そんなことを思いながら過ごしていたある日。その日は、ステラお姉ちゃんは市場の露店に茶葉を売りに出ていた。私はいつものように店で仕事をしていると、私が標的にするべき赤紫色の髪の女性が、店に現れたのだ。
彼女がガラス越しにこちらを見た気がして、慌てて物陰に隠れる。…心臓が飛び出そうなくらいに早鐘を打っていた。
…私は、どうすればいい。
店で彼女を狙う訳にはいかない。恩のあるこの店に、迷惑は掛けられない。
ならどうする、店を出たところで命を狙うのか…。
彼女は、連れの男性とテラス席でお茶を飲んでいるようだった。
逡巡しながらどうすべきかと考えていると、しばらくして、店の外から声が聞こえて来た。
「…市場に、近くを通っていた荷馬車の車輪が外れて突っ込んだとの知らせが…」
頭の中で警告音が鳴る。…まさか。
思わず店の外に飛び出していた。
「待ってください!私も、一緒に連れて行って!!」
驚いた顔をしていた騎士服姿の男性は、私の剣幕に、私を一緒に馬に乗せてくれた。
市場までは馬だとあっという間だった。
人だかりの中に青い顔をしたステラお姉ちゃんを見たとき、私はお姉ちゃんの元に走りつつ、唇を噛んでいた。
(…ああ、やっぱり)
外れた荷馬車の車輪が、狙ったようにステラお姉ちゃんに突っ込むなんて、そんな偶然があるだろうか。
これは、きっと警告だ。…任務を果たさない私への。
近付くと、お姉ちゃんの顔は青白く、口元には血が滲んでいた。危ない状況だと見て取れた。
ディーク王国に来てからこの方、自分の身の安全が第一だった。私の歳で魔法を使ったら、まず怪しまれる。そして、私は顔も見られているから、人前で魔法を使う姿を見られたら捕まる可能性が高かった。
でも。お姉ちゃんの命が掛かっている今、私の身がどうなろうとも、彼女の命が優先だった。お姉ちゃんに駆け寄った赤紫色の髪の女性の命も狙える状況だったけれど、それどころではない。
覚悟を決め、回復魔法を発動し始めたそのとき、彼女は回復薬をお姉ちゃんに使った。
私は、彼女の使った回復薬を思わず凝視してしまった。…あの薬には、魔族の血を引く者の魔力が混ざっている。そう感じたからだ。
お姉ちゃんの顔色がみるみる良くなって、私は安堵のあまり彼女に縋り付いて泣いてしまったけれど、私を見る1人の騎士の視線も感じていた。さっき私を馬に乗せてくれた、あの騎士だ。
どうやら、彼は裏表なく、感情が顔に出る人のようだった。彼の顔には困惑が見て取れた。この子は魔法が使えるようだ。でも、今それを言ったら、姉を回復させようとしただけのこの子は捕まってしまう。…きっと身分の高い人なのに、善い人だ、そう感じた。
***
ステラお姉ちゃんとの生活は、その後も変わらず続いていた。…私の様子を探る気配はあったけれど、それがアストリア王国の密偵なのか、それともこの国の者…私に気付いたあの騎士の手の者かは、まだ判別がつかなかった。
お姉ちゃんも、この家や店の人たちも、私のせいで危険に晒したくはない。
私が任務を果たせば済むのかもしれない。でも、お姉ちゃんの命を救ってくれた、あの赤紫色の髪の女性の命を狙う気には、もうなれなかった。
…私が選ぶべき道は。
1つの選択肢が心に浮かぶ。…むしろその1つの単純な選択肢しか、思い浮かばなかった。
自分の身を危うくする方法かもしれないけれど。
私は覚悟を決めると、お姉ちゃんへの感謝の気持ちを綴った置き手紙をしたため、この家を後にした。