名付け
ゴトリと音を立てて、馬車が止まった。
「さあ、着きましたよ」
従者の青年に声を掛けられて、微笑んで頷く。
馬車を降り立つと、目の前に広がる光景に、私は一瞬言葉を失った。
そこには、聳え立つような見事な豪邸が、視界いっぱいに建っていたのだ。
立派な建物だけれど、華美に過ぎることはない。外壁に施された美しい彫刻も、窓に嵌め込まれたステンドグラスも、長い年月を経て大切にされてきたことがわかる、重厚感のある佇まいだった。
きっと歴史ある名家なのだろう。
…確かに、リュカードと名乗る彼がまとう気品のある雰囲気から、貴族だとは思っていたけれど、こんなに高位の貴族だったなんて。
…リュカード様、と呼ぶべき方だった。
道中で何か無礼でも働いていないかと、少し不安になる。
私の実家も、伯爵家であり、位が低いほうではなかった。…まあ、もう私は除籍されているけれど。
けれど、外門から屋敷までの、このよく手入れのされた樹々の植えられたスペースに、旧実家ごとすっぽりと入ってしまいそうだ。
…くるりと周囲を見渡したそのとき、なぜか背筋がぞくりとする感覚があった。
気のせいかと思ったそのとき、腕からするりと仔犬が抜け出した。
「あっ!どこに行くの…」
目にも止まらぬ速さで駆け出したと思うと、屋敷の横に植えられた背の高い木に向かって一目散に走って行く。
呆気に取られて見つめていると、仔犬が駆け上った木の、豊かに茂った葉の影から、
「ギャーッ」
と鳥の叫び声らしきものが聞こえた。
事切れる前の悲鳴のような叫びに、思わず身を竦めると、仔犬が口に何かを咥えて木を下りてきた。
興味がなさそうに、口にしていたものをぽいと横に投げる。
放り投げられた、その既に絶命したものの姿を確認して、私は鳥肌が立った。
「…これは、第二級魔物の火喰い鳥…!」
これも図鑑でしか見たことのなかった、上位の魔物だ。
鉤針のように曲がった嘴の先が真っ赤なので、このような名前がついているけれど、れっきとした氷の属性の魔物である。
一見、白い羽の可憐な鳥に見えるけれど、この鳥と目が合うと脚が凍りつきはじめて動けなくなり、嘴の真っ赤な部分には猛毒を備えているので、嘴の先で突かれたら命を落としかねない。小柄ですばしこいので、なかなか戦いづらく厄介な相手だ。
何気なくこの光景を見れば、仔犬が戯れに可愛らしい鳥を捕らえたくらいにしか見えないだろう。
でも、多分、この子はこの鳥が何かを、わかっている。
ふとリュカード様を見ると、
「まさか、こんな所にまで…」
と唇を噛んでいた。
やはり、この鳥が魔物であることは気付いている。
従者も、その青ざめた顔から、事の重大さを理解しているようだった。
仔犬は、口の端を少し魔物の血で汚した姿で、私の足元に擦り寄ってきた。
と、その時。
「あら、まあ、まあまあまあ!
リュカード様が女性のお客様をお連れになるなんて、今日は青空から雹でも降るかもしれませんね!」
とても明るい声をした、感じの良い中年のふくよかな女性が、にこにことしながら屋敷の玄関から現れた。
思わずほっと心が和らぐような、温かな笑顔だ。
「はじめまして、アリシアと申します」
ぺこりと頭を下げると、人好きのする満面の笑みで返された。
「まあ、可愛らしいお嬢さんだこと!ふふ、リュカード様も、なかなか隅に置けませんねぇ。
私はこの家の侍女で、ローナと申します。
さ、お疲れでしょう、どうぞお入りください。
男手は今出払っているもので、すみませんが、私がお荷物をお持ちしましょう」
私は慌てて首を振った。
「いえ!大した荷物でもありませんので、自分で運べます。お気になさらないでください」
はははとローナは大声で笑った。
「私の家事で鍛えたこの太い腕、見てくださいよ!
こんなに白くて華奢なお嬢さんの腕で、お荷物を運ばせる訳には…。
…ん?」
彼女が視線を私の足元に落とす。
仔犬の存在に気付いたようだ。
…改めて見ると、白い毛は薄汚れており、口元には先ほどの火喰い鳥の血がこびりついている。
「ああ、お嬢さんの飼い犬ですね。可愛い仔犬ちゃん!
…では、お嬢さんがお部屋で落ち着くまで、後で湯浴み場で身体でも洗いましょうか?」
仔犬の前にしゃがみこんで微笑む親切そうな彼女に、仔犬は小さな身体に似つかわしくない、物騒な唸り声を上げた。
「あの、後で、洗い場をお借りしてもよろしいでしょうか?私がこの子を洗いますので」
慌ててローナと仔犬の間に割って入る。
「もちろん、構いませんよ!どうやら、私は警戒されているみたいですねぇ。
後でご案内しますね」
***
居心地のよい客間に案内され、荷物を下ろすと、その足でそのまま風呂のある洗い場に通してもらった。
抱き上げた仔犬を下ろすと、石鹸とお湯で丁寧に身体を洗っていく。
仔犬は、嫌がらずになされるがままになってくれていた。
「はい、おしまい!」
私の声を理解したように、ぶるぶるっと身体を震わせて水を落とした仔犬は、見違えるほどに、艶のある白銀の毛並みが美しい。
まだ仔犬とはいえ、凛とした品のある、気高さを感じる犬だった。
私は仔犬の金色の瞳を覗き込んだ。
「ねえ、あなたに、名前をつけたいのだけれど、いい?できれば名前で呼びたいから。
…ヴェントゥス、はどうかしら?」
その白く輝く毛並みに、雪も連想したけれど。
火喰い鳥を仕留めに走るその姿は、まるで一陣の風が吹き抜けていったような鋭さで、風を意味する名前がいいなと思ったのだ。
クゥンと鳴いて尻尾を振った仔犬に、私は了承の意と受け取り、
「改めて、よろしくね。ヴェントゥス」
と笑いかけたのだった。
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今回が初小説投稿なのですが、よろしければお付き合いくださいませ。