警告
「…アリシア、では、今日はこれで。
また様子を見に来るよ」
私アリシアは、今日もわざわざ私の部屋を訪れてくださったフレデリック様を見送った後、自室のバルコニーに出て中庭の景色をぼんやりと眺めていた。
足元には白銀の犬がぴったりと寄り添っている。
次のディーク王国との戦で私が結界の破壊を手助けするよう、そして失敗すればフレデリック様との婚約を破棄すると国王陛下に告げられてから、フレデリック様は毎日のように私の元を訪ねて来る。
私のことを気遣ってか、その話題には一切触れず、私の体調を尋ね、当たり障りのない話をしては私に微笑みを向けて去っていくフレデリック様は、やはり優しい方だと思う。
バルコニーから見える中庭の花壇に植えられた花々は、今日も美しく咲き誇っており、頬を撫でる爽やかな風は花の甘い香りを運んできてくれた。
けれど、ここ最近は、目に映る美しい景色も、芳しい花の香りや涼やかな風でさえ、心に暗いフィルターがかかったかのように、私の気持ちを明るくしてはくれなかった。
頭の中には、あれからずっと1つの考えがぐるぐると逡巡している。
(私は、ディーク王国の結界の破壊を手助けすべきなのだろうか)
…結界の破壊への参戦を断ることで、フレデリック様の悲しむ顔を見たくない、その気持ちは確かにあるのだけれど。
心は、否、と既に答えを出している。
いくら、アストリア王国が力関係の均衡を保ちたい、それどころか属国にしようと狙っている隣国が、こちらに不利となるような結界を張ったからといって、それをアストリア王国が破壊する理由にはならないと思う。
しかも、結界は魔物を防ぐために張られたものだというのだから、尚更だ。
我が国の理屈でディーク王国の結界を破壊すれば、その民に被害が出るのは目に見えている。そんなことをしたくはなかった。
…そもそも、そんな魔力が使えるかさえ、今の私にはわからないけれど。
それに、グレンの話によれば、アルスもディーク王国にいるといい、私の記憶が戻れば、私の立場も真逆になるという。
アルスやグレンと敵対するなんて、言語道断だ。
それに。
(私はいったい、ディーク王国で何をしていたのかしら…)
グレンは、リュカード様という名を口にした。
その名前には、心が揺さぶられるような響きがあるのに、どうしてもそれ以上思い出すことができない。
しばらく考えに耽っていたけれど、花壇からこちらにひらひらと手を振る姿が目に入り、はっと我に返った。
…この前に会った、銀色の髪の男の子だ。
男の子はゆっくりと歩いてくるように見えたのに、あっという間にこちらに近付いてくると、驚くような身のこなしでひらりと私のいるバルコニーに飛び乗った。
咄嗟に彼から距離を取って身を引いた私に、彼は構わずにこりと笑いかけた。
「…そんなに警戒しないで、お姉ちゃん。
僕は、お姉ちゃんに近付く人を追い返すように言われているだけで、お姉ちゃんに危害を加えるつもりはないから。
…お姉ちゃんの足元にいる犬も、僕を怖い目で睨んでるしね。
あ、僕の名前はノアだよ。よろしくね」
「…私は、アリシアよ」
バルコニーの内側を向いて腰掛ける男の子は、その姿だけ見ればまだ幼くて、とても可愛らしい。
けれど、この前グレンを襲った時の魔術の力は、一人前の大人の魔術師でも到底叶わないような、強いものだったと思う。
私は用心深く口を開いた。
「ノア、あなたは誰なの?
いったい、何を知っているの。…もしかして、記憶を失くす前の私のことも知っている?」
ノアは少し首を傾げ、くすりと笑った。
「さあ、どうだろうね。アリシアお姉ちゃんのことも、ちょっとだけ知っているかもね?
…ところで、ねえ、お姉ちゃん」
彼は肝心なところを煙に巻いたまま、私に尋ねた。
「お姉ちゃんは、ディーク王国の結界を壊しに行くこと、断るつもりでしょう?」
彼の言葉に、一瞬固まる。
「どうして、それを…」
この子は、ただの子供じゃない。アストリア王国がディーク王国に戦を仕掛ける予定のことも、知っているのか。
彼は、私の目を覗き込むと、すっとその瞳を細めた。
「お姉ちゃんらしい考えだけど、お姉ちゃん、もしそうすると、死んじゃうかもよ?
…お姉ちゃんがどこまで知ってるか、僕も詳しくはわからないけれど、お姉ちゃんが参戦を断って、皇太子様の婚約者でなくなったとして、どうするの。家に戻るの?…今、家にお姉ちゃんを守れるような味方はいないよ。
むしろ、戦に行けば、お姉ちゃんの懐かしい人たち…あ、今は覚えていないかな…に、絶対に会える筈だけどね。
参戦を今断るよりも、せめて戦の場まで出向いてから判断した方が、まだ、お姉ちゃんの生き残る可能性が高くなると思うよ?」
私は、彼の言葉にすぐに返すことができず、ただ驚いて彼のことを見つめていた。