記憶
僕アルスは、長い長い夢を見ていた。
それは、アリシア姉さんの夢だった。
アリシア姉さんの記憶が、思いが、僕の中に流れ込んできた。
それは、まるで姉さんの経験を追体験しているかのような、鮮明な夢だった。
カドリナ王国ではなく、ディーク王国との国境沿いの崖に棄てられたこと。
白い仔犬と出会い、隣国の筆頭魔術師を助けたこと。
そして、結界を張るのを手伝い自分の能力を知ったこと、グレンの自爆を止めたこと、魔物に命を狙われたこと。
まるで自分が目の前で起きたことを見ているようだ。
そして、最後に込められた思いは、どれほどディーク王国で出会った人々を大切に思っているか。隣国の筆頭魔術師への心からの感謝。そしてディーク王国を守りたいというのは自分自身の願いであることと、僕への短い別れの挨拶だった。
(アルスが弟でよかった。きっと回復して、元気でね)
懐かしい温かな魔力の感覚が身体中を巡り、アリシア姉さんの記憶を一通り見た後で、目が覚めた。
僕は、カーグ家の自室のベッドの上にいた。
少し前までは見慣れた自分の部屋だったけれど、今ではすべてがまがいもののように見える。
あの姉さんの夢は、単なる夢じゃない。実際に姉さんが経験したことだ。
それは、夢から覚めた時にはっきりと自覚した。
そして、父上の言っていたことは嘘だった。
そもそも、隣国のカドリナ王国にアリシア姉さんの生活の用意などされていなかった。
それどころか、これから戦いを仕掛けようとしている隣国の、険しい崖に置き去りにした。死ねと言っているようなものだ。
キャロライン姉上も、アリシア姉さんを助けるなどと言って、その実は命を狙っていた。
目を覚ましてしばらく思いを巡らせていたその時、近くの部屋から父上の声が漏れ聞こえてきた。
アリシア姉さんが、フレデリック皇太子様の婚約者になった、そう聞こえた。
(アリシア姉さんは生きている…!)
僕は、もうここにはいられない。
向かうべき所はわかっていた。
…僕1人では信じてもらえるかわからないけれど、アリシア姉さんの記憶によればグレンがいるはずだ。
僕はそっとベッドを抜け出し、カーグ家を後にした。
***
「アリシア、体調はどうだい?」
今日もフレデリック様が部屋を訪ねてきてくださった。
私に向けてくださる微笑みは、いつもとても優しい。あの整った美しい顔が側から私の目を覗き込むのを見ると、どきりと心臓が跳ねる。
(けれど…)
何か大切なことが記憶から抜け落ちているような気がする。
時折、ふっと何かを思い出しそうな気がするのだけれど、掴もうとするとするりと消えてしまう。それが歯痒かった。
「はい、お陰様でもう随分とよくなりました。
あの、フレデリック様。これほど長く私を王宮に置いてくださって、ありがとうございました。それに、いつも私のことを気遣ってくださって…。
これ以上ご迷惑をお掛けする訳にもいきませんし、そろそろお暇して、家に帰ろうと思います」
フレデリック様は少し顔を顰めると、ゆっくりと首を振った。
「いや、アリシア。君はここにいてくれ。
…婚約者の心配をするのは当たり前だよ。何も気にする必要なんてない。
それに…」
フレデリック様は少し言葉を切って迷ったようにしてから、口を開いた。
「君は、命を狙われたんだよ。君の記憶がしばらく抜けているのも、きっとそのショックがあるのだろうと思う。
今はこの場所の方が安全だし、そう遠くないうちにここに一緒に住むのだから、ね?」
フレデリック様の言葉が甘い響きを帯びて、私は恥ずかしくなり、俯いた。
かあっと顔に血が上り、火照るのがわかる。
「はい、ありがとうございます…。
もう一つ、伺っても?」
「ああ、もちろん。何だい、アリシア?」
私はここで目覚めたときの光景を思い浮かべていた。
どこかで似たような光景を見た既視感が、確かにあったように思う。
「フレデリック様、私が目を覚ましたとき、側についていてくださいましたよね。
…以前にも同じようなことが、私がなかなか目覚めずにいたときに、私の側でフレデリック様がついていてくださったことが、あったのでしょうか」
フレデリック様は困ったように笑うと、しばらくしてから口を開いた。
「さあ、どうだろうね?
アリシアが落ち着いてきたら、自然に思い出すかもしれないね。
まだ、自覚しない疲れが残っているかもしれない、ゆっくり休むといい」
穏やかな笑みを浮かべたフレデリック様は、軽く私を抱き締めて、髪にキスを落とすと部屋を後にした。
…ドアが閉まったと思ったその時、部屋の窓から閃光が走った。
窓のガラスが割れて私に降りかかり、強い魔法が襲ってくるのがわかる。
「アリシアっ!?」
異変に気付いたフレデリック様がすぐさま魔法を弾き、間一髪のところで私を抱きかかえ、庇ってくださった。
窓の向こう側で誰かが立ち去る気配がある。
フレデリック様は鋭くその方向を睨み、私を庇う手に力を込めて、呟いた。
「怖い思いをさせてしまって、すまない。こんなところにまで、手を出してくるとは。警備をさらに強化しておこう」
私ははっとフレデリック様を見た。
私を庇った腕にガラスの破片が刺さり、血が滲んでいる。
「フレデリック様!腕にお怪我を…!
私を庇ってくださったせいで、申し訳ありません」
私が震えながら呟くと、フレデリック様が首を振って微笑んだ。
「これくらい、たいしたことはない。君が無事ならいいんだ」
優しい声でそう答えるフレデリック様に、私はまた何かを思い出しかける。
大切な人が私を庇って、傷ついてしまった、そんなことがあったような気がするのだけれど。
それも、フレデリック様だったのだろうか。
記憶の片鱗が、浮かんだかと思うとまた消えてしまった。
やはり私は、思い出すことができなかった。
そして、私の胸に掛かっている、見る度に胸が締め付けられるような思いのする、美しいアイオライトのペンダント。
記憶を失くしている間に手にしたものであろうそれは、私がとても大切にしていたのだろうと感じる。
これがフレデリック様にいただいたものなのかどうかは、私はまだ彼に尋ねられずにいた。




