密偵
そもそも伝説の存在で、本当に存在しているのかさえわからない、精獣。
さらに、今どのような獣の姿を取っているのかさえ、確認されていないという。
にもかかわらず、状況から推測し、精獣の代替わりで不安定になっていると思われる隣国、ディーク王国を手に入れようだとは。
あまりに考えが安易に過ぎるように思われた。
けれど、父王は私の考えを見透かしたように言った。
「今は、お前にはこれ以上話せぬ。
…隣国を手にする機会だと考えている、お前はそのことだけ、心に留めておけばよい。フレデリックよ」
父王は、ほかにも情報を掴んでいるようだが、それを与り知ることはできなかった。
それよりも、私はアリシアの身が心配でならなかった。
(アリシア…。今、どこに)
この、たった2日後に、隣国のディーク王国全体に結界が張られたことが判明し、アストリア王国国王である父王の嘆きと焦りを招くことになる。
まさかアリシアがそのディーク王国におり、そして結界の形成に貢献することになろうとは、この時は露ほども予想することはできなかった。
***
ディーク王国全体に結界が張られ、街に魔物の姿が見えなくなってから、ディーク王国には平和な日常が戻りつつあった。
破壊された建物の修復にも目処が立ち、リュカード様やルーク様も一息ついていた、ある日のこと。
私アリシアは、リュカード様、シリウス様とザイオンと、残り少なくなった救護所の怪我人を見舞いに来ていた。
まだ救護所に残っている者も、深刻な状態の者はもういない。この臨時の救護所として使用していた別棟を閉めるのにも、それほど時間はかからないだろう。
とそこへ、1人の騎士が、ばたばたと慌てた様子でリュカード様を呼びに来る。
「リュカード様、先程、結界の破壊を試みたと見られる密偵の身柄を確保しました。
現在、騎士団で拘束しているので、お越しいただけますでしょうか。シリウス様、ザイオン様もお願いします」
「ああ、すぐに向かう。…アリシアは、先に屋敷に戻っていてくれ」
私に振り向いたリュカード様に、頷く。
けれど、私はこの時、何やら胸騒ぎがしていた。
リュカード様たちと別れ、屋敷に向かう途中の道で、やはり嫌な予感に方向を変える。
「ねえ、ヴェントゥス。やっぱり私たちも、騎士団に向かいましょうか?」
足下のヴェントゥスに声をかける。
この子を拾ったのはつい最近のことのように思うのに、もう随分と体格がよくなったように感じる。胸に抱き上げるのが難しくなってきたほどだ。
艶のある白銀の毛並みは美しく、金色の瞳は理知的に輝いて、風格が出てきている。
特にヴェントゥスも異存はなさそうだったので、リュカード様たちの後を追って騎士団に向かった。
騎士団の建物が見えて来た時、背筋がすっと冷えて、思わず胸元のアイオライトのペンダントを握った。
建物の中に、眩い白い光で包まれた人物が見える。
…建物の壁の向こう側に、なぜ見えるのか。
自分でもそれはわからなかったけれど、もう一つ、見えたものに戦慄が走った。
(この人は、自爆魔法を使おうとしている…!)
先程の騎士の報告と照らし合わせると、密偵が捕まり、自爆しようとしているのだろうか。
自爆魔法は、命と引き換えに大規模な爆発を引き起こす。巻き込まれたら命を落とす可能性が高いその場所に、リュカード様達が揃っているはずだ。
しかも、その光の強さからは、かなりの魔術の使い手のようだ。
(リュカード様なら、ある程度抑えられるかもしれないけれど…)
さすがに、無傷では済まない。
建物に向かって走る足は止めないまま、震える手で、エドガーさんにもらった銃型の魔具に魔力を込める。
何度か使う練習はしたものの、的中の感覚はあまりなく、しかも実戦で使うのは初めてだ。
ぐっと魔具を持つ手に力を入れ、できるだけの魔力を込める。
(かなり大きな魔力でなければ、これは無効化できないわ。
お願い、無事に届いて…!)
パン、と弾がはじけた感覚があったのと、白い光が見えなくなったのが同時だった。
(成功したのかしら)
胸を撫で下ろしたのも束の間、自爆しようとしていた人の、ぐったりとした顔が見えた。
信じられず、愕然とする。
(嘘でしょう…!!)
もう、目指す部屋は目の前だ。バタンと扉を開けると、虫の息の男性が私の顔を見て呟いた。
「…アリシアお嬢様…」
「グレン!…グレンなのね?」
弱々しい微笑みを浮かべた黒髪赤眼の青年は、長年世話になっていた、カーグ家執事のグレンだった。




