ザーナ婆
(…ここは、どこかしら)
薄暗い、廊下のような一本道。
生温かい湿った空気の中、しんと静まり返ったそこを、ぺたぺたと裸足で歩く自分がいる。
ぼんやりとしか前は見えないけれど、不思議と恐怖感はない。
歩いていると、前方に、明るい窓のようなものが見えてきた。
近づいてみると、暗い空間の一部を切り取ったように、ぽかりと四角い穴が空いており、その向こう側から、元気な赤ん坊の泣き声がする。
その光の差す穴は、ちょうど私の頭から腰くらいの高さのところに空いていた。
立ち止まって覗き込むと、老婆が生まれたばかりの赤ん坊を抱き上げ、祝福を授けるところだった。
老婆は赤ん坊を見つめ、愛おしむようなそれは優しい表情をしている。
老婆を見つめて、はっと気づく。
(…この人は、ザーナお婆ちゃん…!)
幼い頃、父がよく家に招いていたザーナお婆ちゃんは、秀でた魔術の才能に加え、優れた先読み、いわゆる未来予知の能力があるとして、稀代の魔女と呼ばれていた人だ。
とはいえ、それを知ったのは私がそこそこに大きくなってからで、幼い頃は、家に来るといつも遊んでくれる優しいお婆ちゃん、としか認識していなかったけれど。小柄だけれど、太陽のような深い温かさを感じる彼女に、私はとても懐いていた。
ザーナお婆ちゃんと赤ん坊だけ、切り取ったように光が当たっていて、その周囲はぼやけてよく見えない。
興奮したような男性の声が聞こえてきた。
「ザーナ婆、見てくれ、この子の髪の色を!滅多に現れない、濃い赤紫色だ。そう、優れた一握りの魔術師しか持たないという…!」
まだ小さな頭に、ほんの少しだけ生えている髪の毛は、確かに紛れもない、鮮やかな赤紫色だった。
その髪色を見て、はっとする。
(この赤ん坊は、もしかして、私…?)
ザーナ婆は、抱いた赤ん坊に顔を近づける。
「ああ、ああ。この子は、ほんに大きな魔力を秘めとるて。何なら、国の運命を動かせるほどにな」
「おお、何と。それは素晴らしい…!」
高揚する、男性の声。
「じゃが…」
なぜか、赤ん坊を抱くザーナお婆ちゃんの顔が曇った。
喜ぶ男性に、諭すように、ザーナお婆ちゃんは語りかける。
「…目の前に見えるものだけが、真実ではないよ。
見えないものの中にも、真に大切なものがある。
それを、忘れちゃいかんよ」
そして、小さな声で、呟くように赤ん坊に話しかける。
「…ああ、お前さん。これは、…難儀するなぁ。こんなに、大きなものを、こんなに小さな身体に背負って。
じゃがな。お前さん、曇りのない目を持っとるよ。
…見かけだけでは、本当に大切なものは判断できないが、お前さんなら、人に見えないものまで、見えることもあるかもしれんな。
…その目で、しかと、見極めなさい」
ふっと、柔らかく包み込むような温かな笑顔を赤ん坊に向け、その手を赤ん坊にかざすと、赤ん坊は輝く光に包み込まれる。
祝福と、魔術の封印の儀だ。
儀式を終えて、赤ん坊を手渡したザーナお婆ちゃんは、なぜか、こちらを振り向いた。
…私と、目が合う。
ザーナお婆ちゃんは、曲がった腰のままゆっくりと立ち上がり、こちらに近づいてきた。
私を見て、懐かしい笑顔を浮かべる。
「おやおや、お前さん。大きくなって。
…こんな所に迷い込んじまったのかい?
ほら、こっちにおいで…」
私は頷くと、こちらに差し出されたザーナお婆ちゃんの手を取った。
触れたザーナお婆ちゃんの手から、温かなものが身体に流れ込んでくる。
「…」
ザーナお婆ちゃんが微笑んで、何かを私に語りかけている。
私は、柔らかい光に包まれると、不思議な眠気に襲われて、そのまま眠りへと落ちていった。
***
目を開けると、そこはふかふかとした大きなベッドの上だった。
…あれは、夢だったのかしら。
さっきザーナお婆ちゃんに差し出した、温かさを感じた右手には、窓の外から差し込む光が当たっている。
「…ん?」
左手も、温かい。
ベッドから上半身を起こした私は、私の左手に手を重ねたまま、ベッド傍の椅子に座り、ベッドに半身を預けた格好で眠る、リュカード様の姿を見つけたのだった。




