結界
「気分や具合が悪く、ですか…」
リュカード様の言葉に、少し考えてから首を振る。
「昨日は、1日のうちにあまりにいろいろなことがありましたので、多少疲れを感じて、早めに休ませていただきましたが。
ゆっくり休んだお陰か、今日はとても元気で気分もいいですし、どこも具合の悪いところはございません」
リュカード様はどこか安心したように、薄く笑んだ。
「それならばよかった。
…明日に結界を張るというのも性急な感はあるが、魔物を追い返しながら、怪我人を回復させ、さらに襲い来る魔物に対峙する今の状況は、こちらに分が悪いいたちごっこのようなものだ。
どこかで状況を変えないと、こちらが消耗するばかりなのだよ」
…だから、早く今の状況を変えようと、昨日リュカード様たちは、国境沿いに結界を張りに行ったのだわ。それが無謀とわかっていても。
「リュカード様こそ、昨日はお身体の具合が悪そうでしたが、もう大丈夫なのですか?」
リュカード様は、少し驚いたように目を瞠ってから答えた。
「ああ。俺は何も問題はない」
その言葉を聞いて、安心した。
昨日、あれほど具合が悪そうに見えたのに、さすがこの国の筆頭魔術師さまだ。
リュカード様は、少し身体を屈め、私だけでなく、私の膝の上のヴェントゥスにも目を合わせた。
「ヴェントゥス、君は明日、アリシアのことを見守っていてほしい。
結界を張る間は、アリシアに触れることなく、側で見ていてもらうことになるが、いいだろうか」
ヴェントゥスは、わかったとでも言いたげに鼻を鳴らした。
…この子は、やっぱり、人の話を理解しているように見える。賢い子だ。
また、シリウス様も、救護所では消耗していたように見えたけれど、そんな様子はおくびにも出していない。
明日の確認ができたところで、シリウス様は場の全員を見回して、にこりと笑った。
「では明日、神殿でお待ちしています。
今日は早めに休んでくださいね」
***
リュカード様、ザイオンと一緒に、ヴェントゥスと私も早朝から馬車に揺られて、王都の中心にある神殿に到着した。
既に私たちを神殿前で待っていてくれたシリウス様が、にこやかに神殿に迎え入れてくれた。
細かな彫刻の施された太い支柱で支えられた神殿は、朝陽に白く輝いている。
足を踏み入れると、内部には神話をモチーフにした美しい壁画や天井画があり、所々に神話の神々を模った彫像が飾られていた。
神殿の中央部には大きな中庭があり、ここが結界を張るため魔法を使う舞台となる。
今日は人払いがしてあり、私たち関係者と一握りの者しか神殿に入れない。
そのことに、少しほっとしていた。
…リュカード様とシリウス様のような美形2人と、いくら結界を張るお手伝いとはいえ、結界を張る間中、手を繋いでいるなんて。きっと、見られたら、国中の女性に睨まれてしまうわ。
そう思ったことは、そっと心にしまう。
神殿の中庭には、祭壇が用意されている。
その手前、右側にリュカード様、左側にシリウス様が立ち、私が間に挟まる格好だ。
ザイオンは、その傍で控えている。
私たちと少し離れて向かい合うように、祭壇の奥に高めの台があり、そこにヴェントゥスが丸く座っている。
リュカード様が、私に声を掛けた。
「これから、シリウスと俺と手を繋いでもらうが、アリシアは、自分の身体にだけ、注意を向けていてくれ。
…昨日も話したとおり、もし何か異変を感じたら、すぐに手を離すんだ。
アリシアが手を離して抜けるとき、シリウスと俺の手を重ねてくれれば、それで後は問題ない」
私は神妙な面持ちで頷いた。
…はじめから、リュカード様と、シリウス様が手を重ねて、波長を合わせても、私がいなくても、何も変わらないような気もするけれど。
私の身の上話に同情してくださって、得難い経験をさせてくれようとしたのだろうか。それとも、一昨日のことを受けて、多少でも験担ぎをするためだろうか。
…理由が何であったとしても、魔術も使えない私を、必要と言ってくれているのだから、少しでも力になれたらいいなと思う。
リュカード様と、シリウス様が並び、シリウス様が私を振り向いた。
「さあ、始めます。…準備はいいですか?」
「はい」
2人の手に、自分の両手を伸ばし、2人と手を繋ぐ。
(2人の波長が合いますように、結界が無事に張れますように)
せめて、と、心の中で祈る。
結界を張る間、魔物が攻めて来なかったとしても、国全体を覆うほどの結界だ。
どれほどの魔力を必要とするのか。
…目の前の頭抜けた才能の2人を前にしても、成功するのかは一種の賭けだと言えた。
リュカード様が右手を、シリウス様が左手を、それぞれ前にかざし、対になるような動作で印を組む。
その2人の手から、眩い光が放たれる。
私は、自分の身体の中を何かが巡るのを感じた。まるで、回路の一部になったみたいに。
リュカード様、シリウス様の手から放たれる光に照らされ、神殿の中庭中が輝いている。それは、神秘的な光景だった。
そして、しばらくした時、空にきらりと光るものが見えた。
(あれは…!)
地平線から始まっているのであろう、空の上に向かう、淡い光を放つ透明の膜のようなものが見える。時折り、太陽の光を受けて輝いている。
上へ、上へと、その膜は伸びていく。
これが私たちの頭上でつながったとき、結界が完成する。
手を繋いだ先の、2人を見た。
これだけの広範囲への、高度な魔術。…どれほどの、魔術のコントロールと、強い魔力なのだろう。信じられないくらいに、神経も使うはずだ。
…2人とも、まだ表情に余裕が感じられる。
天才と一言では表し切れない、そんな才能だと思う。
***
じわじわと、結界が伸びていく。
(あと、少し)
きらきらとした膜がせり上がっていき、残すところが、この神殿の中庭と同じくらいの広さになったと思った、その時。
(…?)
少し、くらりとするような感覚があった。
でも、たいしたものではない。
(リュカード様は、違和感があればすぐに手を離せと言ったけれど、これくらい、大丈夫よね…?)
改めて、結界を張る2人の顔を見る。
…さすがにもう余裕はないようで、2人とも、汗をしたたらせ、苦しそうな表情だった。
2人と手を繋いでいる今なら、わかる。
リュカード様は、2人の手を重ねれば、私が抜けても大丈夫、と言っていたけれど。
私を、流れの一部に組み込んでいる中で、力が私を経由する感覚があるのに、もし今私が手を離して、その流れを変えるようなことをすれば、かなりの魔力のロスになってしまう。
今度は、少し足がふらつき、背中に震えが走った。
見上げれば、あとは両手を水平に伸ばしたくらいの、ほんの小さい穴が見える。
(あと、ほんの少しだけ)
ぎゅっと奥歯を噛む。
視界がだんだん霞んできた。
目を上げると、ヴェントゥスが心配そうにこちらを見ている。
大丈夫、とつぶやこうとしても、言葉にならない。
…ヴェントゥスがこちらに飛び出したのが見えたと思った瞬間、私は意識を手放した。




