なという媒体意義
理氏はひとつの作品を作った。この段階では作品としては完全に完成していたもののどの媒体にも落とし込んではいなかった。
この作品は素晴らしいものだった。トリッキーながらも懐かしさを覚える舞台設定、魅了的な登場人物、強弱のあるプロット。どの媒体に落としても歴史に残る傑作になるとその作品に携わった者は確信していた。
まずは何百億もの金の移動によりA出版が権利を獲得した。理氏には文才がなかったため、原作を理氏とし、執筆は1人の男によってなされた。その作品は飛ぶように売れ、賞という賞を総なめにした。
また他の業界、すなわち映画や舞台、漫画化アニメ化も同様の流れで行われた。理氏にはそれらを作る才はなかったため、他の人の手によって世間へと発表された。結果は目に見えていた。
全ての国の人が読めるように翻訳もされた。その翻訳によっても全く理氏の作品の魅力は削られなかった。どんなに才能がなく、仕事として義務的に適当に媒体化されたとしてもそれは大傑作となった。
時間が経つ。長い月日が経ったが未だに理氏の作品は多くの人に愛された。その時代時代で流行ったあらゆる媒体に理氏の作品は用いられた。4D、実体験、VR、アトラクション。理氏の作品にあったのは分野や宗教、価値観、形式に囚われない本質的な面白さだった。
さらに時を進める。ここは日本。今や薬一個飲むだけで理氏の作品の素晴らしさを感じられるようになった。一瞬にしてその恩恵を最大限受けることができるのである。なにも削られていない。
8月のある日、少年は誕生日に理氏の作品薬を親から貰った。彼は喜びのあまり飛び跳ね回った。口にするといっぱいの幸福感、溢れる冒険心、心くすぐられる恋模様、涙、笑い、全てがそこにあった。
全てを堪能した少年は重い足取りで机に向かい、夏休みの課題に取り掛かることにした。
本棚から夏目漱石の「こころ」を取り出す。
「どうせならこれも薬にしてくれればいいのに。どうして薬にできないんだろう。」
読んでいただきありがとうございました。
これはサークル内の会話で盛り上がったものを文章化したものです。
最近の作品は素晴らしいですがこのような傾向がある気がしてなりません。また、それを否定するつもりも全くありません。
是非感想をお願いします。