散歩と青空教室
前提が受け入れてもらえているならば読み飛ばしていただいて構いません。改稿の都合でこの部分はこの前に書いてしまいました。ただ例示というものは非常に高度な理解を必要とします。これを読んでいただいた上で、前回までの前提で出てきた例示との共通項を探していただければだいぶま本質に近づけると思います。
理氏は散歩の途中にベンチに腰掛けた。彼の上にはいっぱいの青。青。青。白一つない。
イメージしやすいのは空であろう。厳密性は今は犠牲にする。理解すればわかるが次の説明は誤っている。それを理解すればそれが誤っていることに気付く、不思議な構造。
前に述べたように「観測」とは現象として現れるもの、「状態」はその反対、現象として出てこないものを指す。
従って空が青いというのは「観測」される現象と言うことだ。ここに個人の価値観が介入する余地がないことは明らかである。
しかし太陽光は青しか含んでいないわけではない。様々な波長、すなわち色を含んでいる。これが「状態」である。これらは今私たちが観測できないとしている(実際はできてしまっている)。ここにも個人は介入できない。
上記のように読み手にとって普段使わない定義での「観測」「状態」という言葉が度々登場する。
注意せねばならないのは「状態」は絶対に認識できないと言うことだ。それを認識するには「観測」する必要があるが、この段階で状態は異なるものに変化してしまう。詳しい話はまたどこかですることになる。
理氏はこの世界に存在しない。これはどちらか。
正解はもちろん「観測」である。
改稿によりこの部分は必要がなくなってしまいました。仕方ありません。
僕は例示が好きではありません。人にものを教える際に例を使うときはかなり注意を払っています。
君は花のようだねと言われたとします。これは非常に難解。花の数ある性質の中から“綺麗“を正確に選び出さねばなりません。綺麗をこの場でピックアップするには花が綺麗だということを知っているのは当然のこと、自分が綺麗と言われる立場にいることを自覚せねばなりません。
ここで、問題が生じるわけです。例示必要ないじゃんって。例示は理解より高い次元にあることが多いのです。
経済や法律の話をする時も同様、ここでいう林檎とは、男の子とはなにを指すのかを正確に把握しなければただの林檎と男の子の話になってしまいます。その時点である程度理解ができてしまっているわけです。
そのため、例示とは本来、理解後の確認に使うべきなわけです。規模感を変えることによる理解度の変化はあるっでしょうからね。
ほら、例示いらないでしょ?