01 五月
There is always light behind the clouds.――Louisa May Alcott
「俺の名は、ドラゴン・ヒーローだ!」
とか、馬鹿がいっている。だけども、やはり、こういうときはヒーローの出番なのだ。あいつが、たぶん別の小学校の男子を追い払っているあいだに、俺はひとまず囲まれていた女の子に駆け寄る。
ちっちゃな子だ。髪が白くて、瞳も赤い。なんだか、うさぎみたいな見た目である。
「大丈夫? ケガしてない?」
女の子は泣きじゃくっていたけれど、見たところ、ケガはなさそうだった。
「はっはっはー。俺に恐れをなして、悪者は逃げていったぞ」
ドラゴン・ヒーローが帰ってくる。仮面ライダーのお面をつけた、馬鹿なやつである。
「なにも心配するな、きみ。わたしが守ってやったんだからな! そう、このドラゴン・ヒーローが!」
「はあ……ま、こいつのことは気にしないで。立てる?」
「うん……」
俺はその子の手を引いて、道を教えてもらいながら女の子の家に連れていった。俺たちが帰るときに、お母さんと一緒に、女の子は玄関で手を振って、
「ありがとう、ドラゴン・ヒーロー!」
と、いった。
1
五月の空は虚構だった。特筆すべき点はなにもない。単一な青で構成された空に、ちょっとしたアクセントで雲が散らばっていて、光線を自在に放つ太陽は眩しすぎるくらいに眩しい。それだけである。
それだけの空から現れた白い光が、教室の窓をすり抜ける。開いただけのノートへ、それに寝そべるペンの影を落とす。
――退屈だ。いいようもなく。
飛屋学園、二年目の五月である。それなりの進学校で知られている高校に入学したはいいが、だからといって、どうということもない。
結局、『進学校=よい選択先』となるわけではなく、そういったものは単純に、偏差値やらなにやらでカテゴライズされただけの話。入ってみて、ああここでよかった、なんて思えるかどうかは、どこまで尽きても本人の努力次第としかならない。
……はあ。
ゴールデンウィーク明けの倦怠感がクラスを包んでいたのは、たしかにそうだ。さらに定期考査を控えてもいた。
でも――それだけじゃないか。
この憂鬱も。
だるさも。
もっとほかの――なにかが。
そうさせているんじゃあないか……と。
思わないでも、ない。
「寝てんな、久島」
「寝てない」
「いや寝てる。ぜってー寝てる。だってお前はそういうやつだ。よって寝てる」
「暴論だ……」
悩んでいたのに、いや大して悩んでは実のところいなかったが、とにかく悩んでいたのに、隣の席から声が聞こえた。
聞こえてしまった。
顔を上げれば、まず前席の茶髪が見えた。次に黒板、そのうえの時計に目が移る。十二時十七分――授業はあと二十分くらいある。
そして、右隣。
髪を短く切った小柄な女子がいる。茶色い瞳が俺を見据えていた。秋山秋乃である。
秋乃は顔を上げた俺にシャープペンシルの先端を向け、
「おはようございます、久島君」と淡白にいった。「んん? ご主人様、のほうがよかったって顔してんな」
「してない。断じてしてない」
「おはようございます、ご主人様。るんっ」
「るんって言葉で付け足すな」
「くるんっ」
「回転したっ!?」
「くるんっ、ボキィ」
「なにを折ったんだっ!? 首かっ!? 俺の首かっ!?」
「うるせーぞ、久島」
「俺じゃねえ!」といったはいいものの、注意してきたのは教師だった。「……です。はい、すみません」
粛々と謝罪した。
横目で秋乃を見やると、さも愉快といったふうに笑っている。
「ちなみにだよ、久島。カタツムリは日本だけでも八百種類いる」
「どうでもいい雑学をどうもありがとう」
秋乃は満足したようで、俺から目を離すと板書を写しはじめた。そして時折俺を見ると、「ご主人様~」と小声で囁いてきた。
はあ……なんだこいつ。
◇
秋山秋乃、十六歳。来月で十七になる。一般の評価は、真面目、優等生、いい子、かわいい。だいたいがプラスの印象だ。秋乃に対して嫌なことをいうやつを、いまのところ、俺は俺以外に知らない。
クラスの学級委員、というのは優等生キャラにぴったりな役柄である。常々クラスの先導者となり、まあ、行事云々あったらば、それ相応の仕事に従事。部活は放送部に所属、毎週水曜日の『おひる☆らじお』とやらではパーソナリティを務め、校内ではそれなりに有名人である。
が、しかし。
俺にいわせると、そんなのはまやかしである。幻想だ。秋山秋乃の数パーセントも見ていない。夫れ品行方正、礼節気品なんていう秋乃の評価は間違いに間違い過ぎている。じゃんけんでグーに対してチョキを出し、「勝った勝った」といってさらに、相手を煽り倒すくらいに間違っている。
やつは悪魔である。たぶんハデスの現世の姿。
たしかに、真面目であるのは真面目だし、成績的にも言動的にも優等生ではある。かわいい、というのは、どうだろう。まあわからんでもない。
けれども、だ。秋山秋乃をそれだけで片付けていいものか。あいつはすぐ人を殴る。すぐ蹴る。割と八つ当たりがひどい。俺が廊下を歩いていたら、後ろから殴りかかってくるような女だぞ。気分で。悪魔だよ、あいつは。
幼馴染の俺がいうのだから、間違いない。
「……寝てる?」
「いや、無理のあるアンチテーゼを考えてた」
昼休み、俺はさっきの文章が秋乃への風評被害でしかなかったことを恥ずかしげもなく認めた。が、秋乃は意味が分からないといった顔をして、「あっそ」と片付ける。
「じゃ、いま暇?」
「あぁ」
「ちょっと頼まれて」
珍しいこともあるもんだな、と思った。秋乃が俺に頼みごとをすることは、そうそうない。というか、昼休みにこいつが俺に話しかけてくることすら、なかなか観測できない事象である。
授業中には秋乃も暇を持て余しているので(授業聞けよといいたいが、俺も聞いていないのでなにもいえない)、ちょくちょく横から話しかけてくることはある。が、休憩時間となると、こいつもそれなりに忙しい身だし、忙しくなくても、俺以外に友達はぎょうさんいるわけだ。わざわざ俺のところにくるなんて、基本、ない。
だというのに、こいつが話しかけてきて、しかも頼みごとを持ってくるとは。なにかしらの天変地異が起きるか、それなりに面倒な依頼があるに違いない。
とはいえ。
「いいぜ」と俺は答えた。「なんでも頼んで来い」とまでいった。
なぜか。
なんとなくである。
「珍しいね」と秋乃は驚いたようだった。珍しいのはお互い様である。「ま、いいや。じゃあちょっと、うまいようにこき使われて」
やっぱ断ろうか。
なんていえずに、承った。
正直ただのパシリだった。図書室で、本を借りてきてほしいというのである。生徒認証に使うカードも渡された。
で、借りてくる本は宮沢賢治の「セロ弾きのゴーシュ」である。なんでも、今度の放送で読書本の紹介をするらしい。高校で「セロ弾きのゴーシュ」はどうかと思いはしたが、俺がいうようなことでもない。
そんなわけで、俺は食堂に寄るついでに図書室へと赴いた。図書室の中はかなり静かで、ほとんど人はいない。なんなら、いつもだれかはいるはずの、司書当番ですらいなかった。大丈夫なのだろうか。
とはいえ、本の貸し借りは全自動になったし、特に困ることもないのだろう。司書当番のことはさておいて、「セロ弾きのゴーシュ」を探しに行く。
お目当ての本はすぐ見つかった。けっこう目立つ棚に、他の賢治の名作群とともに並べられていたのである。
そうして貸出機の前に行くと、生徒が慌てたようすで入ってきた。ボブショートの線が細い女子生徒である。胸のリボンが緑色であるあたり、同じ二年生だ。名札を見るに、朝凪というらしい。
朝凪は駆け足でカウンターに入っていった。どうやら司書当番らしい。忘れていたのを思い出して、すぐさま走ってきたというところだろう。
で、その司書当番は貸出機の前に立った俺を見ると、
「あ、貸出ですか?」と訊いた。「使い方、わかりますか?」
俺が頷くと、朝凪はにっこり笑って、俺の手元の本を見た。で、
「へぇ……」
と、いう。「へぇ」ってなんだ、「へぇ」って。
とりあえず、本の裏表紙に貼ってあるバーコードを読み取って、画面に出てきた承認のボタンを押す。かなり便利になったものである。去年は貸出簿に手書きで本のタイトルと出版社、貸出日と返却日、そして名前を書かなければならなかったのが、いまではコンビニのレジみたいにバーコードを読み取るだけだ。生徒認証は、ひとりひとりに配られたカードを挿入して、自動で行う。
認証カードを挿入して、またも承認を押す。そのときに、
「ん?」と、朝凪がいった。「秋山秋乃?」
カウンターの中にあるタブレットを見ていた。たしか、あれはここの貸出機と同期していて、本も、また借りる生徒の名前も、表示される仕組みらしい。
「あぁ、頼まれたんだよ。そいつに」
「あ、なるほど。ねえ、秋山秋乃ってさ、放送部の?」
「そうだけど」
「かわいいよね、あの子」
「……そうかあ?」
貸出証が出てきた。レシートみたいな紙切れである。これに返却期限が書いてあって、返却のときには必要になる。
「またどうぞー」
と、朝凪に見送られて、俺は図書室を出ようとした。が、扉を開けると、目の前に、長い金髪の女子生徒がいた。肌も日本人にしては白い。外国人なのだろうか。リボンは赤で、一年生である。
若干驚いて、突っ立っていると、その女子生徒がいった。
「邪魔です。どいてください」
「お、おぉ……」
かなり棘のあるものいいだった。まったくかわいらしくない後輩である。
とはいえ、ここは落ち着いてすっと避けて、図書室を出ていく。右手には「セロ弾きのゴーシュ」。そういえば、いつ渡せばいいのだろう。昼のあいだは放送部のごたごたがあって忙しいらしいから、まあ、てきとうな頃合いで。
教室に戻る前に、食堂へ向かう。もうパン取り合戦は終わって、残っているのは不人気なやつらばかりだろうが、こればっかりは仕方がない。
食堂に入るなり、チャラそうな男子に話しかけられた。髪を紫に染めたやつである。竜ヶ峰謙哉だ。この飛屋学園、実はかなり校則が緩いので、髪を染めたとしてもまったく叱られない。さすがに虹色とかは駄目だろうが。
で、竜ヶ峰、なんと俺のためにカツサンドを二個買ってくれていたという。持つものはやはり友である。
カツサンドを有難く頂戴して、てきとうな席に着く。
「で、お前はなにしてたの?」
「パシリ」
「また秋山かよ。ずるいぜ、お前。あんなかわいい子と幼馴染なんて」
「お前、あいつに嫌われてばっかだよな」
「なんにもしてねーのにな。ひでー話だよ」
もともとの印象が、おそらく最悪だったのであろう。こいつ、見た目もチャラくて中身もやはりチャラい。隙あらば女子を引っ掻けてばっかのくそ野郎で、そんな悪評は知り合いの多い秋乃にはわんさか入ってきたはずだ。
だったら嫌われて当然である。――いや、でも、小学生のころから嫌われていたような。
竜ヶ峰とは小学校のとき、たった一年だけクラスが一緒になったことがある。そのときからの友人なのだが、一年後、竜ヶ峰は転校してしまった。
小学生では、なかなか転校した友人と連絡を取るのは難しい。それ以来、互いに会うこともなかった。
しかし、去年、飛屋に入学したとき、俺たちは奇跡の再会を果たしたのである。
中身はガラッと変わっていたが。
とはいえ、馬が合うことには変わりなく、いまもこうやって無意味に駄弁る仲である。
「あ、そうだ」と、竜ヶ峰。
「なんだ?」
「今年の一年、かわいい子多いんだよ」
「へぇ」
「あ、でも、変なのもいるんだ」
「へぇ」
「そう。なんか、髪が白くてちっこくて、それでいて言動がおかしなやつ」
「へぇ」
「トリビアか、お前は」
言動がおかしなやつ、ねぇ。お前も人のこといえないんじゃないかと思ったが、口には出さない。
「顔はいいんだけどな。子どもっぽいんだよな」
「あっそ……」
死ぬほどどうでもいい。
「まあ、いい子いたら、お前にも紹介してやるよ」
「ありがとよ……」
こんなんだが、根はいいやつなのだ。根は。