たくさんたくさん
明日は何をしようかな?どうやっておにぃを笑わせようかな?
わざと転んで頭から水をかぶったら笑ってくれるかな?それとも、もう一度セリアに落書きをしようかな?
「……ふふっ」
プンスカと怒るセリアを想像して思わず笑ってしまう。
おにぃもこれくらい簡単に笑ってくれればいいのに。
まだまだ夜は長い。朝になるまで、こうしてベッドの中で考えよう。たくさんたくさん考えよう。
どうすればおにぃが笑ってくれるのか。どうすれば家族みんなが幸せになれるのか。
その『目的』の為ならなんだって頑張れる。どんな事だって我慢できる。
・・・強くならなくてはいけないんだ。
失ってしまったお母さんのかわりに、わたしが。
ーーー強く、そして優しく。
『ガチャリ』。
不意に、扉の開く音が聞こえてきた。
わたしは咄嗟に布団を頭まで被って寝たふりをした。
部屋に入ってきたのは誰だろう、セリアだろうか。
そうだとすれば、まだ寝ていない事を怒られるかも知れない。
部屋に入ってきた『誰か』は電気をつけ、ゆっくりゆっくりと、わたしが寝ているベッドまで近付いて来る。
……足音とは別に、なにか音が聞こえる。
でも、足音に紛れているし、わたしが布団を被っているから良くは聞こえない。
足音が近付いてくる。『音』もだんだん大きくなっていく。
足音がベッドのすぐ隣でピタリと止んだ。
足音が止んだおかけで、いままで聞こえていたものが『音』ではなく『声』だったんだと気が付く。
「……………に」
わたしの身を守る布団がゆっくりと、だけど力強く引き剥がされた。抵抗なんて無意味だ。
「……みんなで、母さんのところに」
今度こそはっきりと聞こえてきた声は、呪いの言葉だった。鼓膜に張り付いて、剥がれない。
恐る恐る目を開けると、一人の男の人が立っていた。
男の人……というか、わたしたちのお父さんだ。
だけど、わたしは『男の人』だと思った。
たくましい顔付きだった父の頬は痩せこけ、希望に満ち満ちていた瞳は、僅かな光すらない。
……そんな、深淵を思わせるお父さんの瞳とは対象的に、その右手は光輝いていた。
正確には、右手に持っていた銀色のナイフが。
「……っ!?」
声にならない声を漏らす。
大好きだったお父さんの顔から、なんの思考も読み取れない。
「……みんなで、母さんのところに。……みんなで、母さんのところに」
父はぶつぶつと、呪いの言葉を履き続ける。
「みんなでーーー幸せになろう」
父は、なんの躊躇いもなくわたしにナイフを振り下ろしてきた。
時間がゆっくり流れるような、そんな感覚があった。
『なんでだろう』とか、『どうしてだろう』なんて、不思議と思わない。
わたしの頭の中を……いや、全身を埋め尽くしたのは最も単純な本能。
『逃げなくちゃ』と、全身が叫んでいた。
ほとんど反射的にベッドから転がり落ちる。
そしてそのまま、無我夢中でお父さんから距離をとった。
いろんな場所に足を引っかけてしまう。倒れた本が、花瓶が、盛大な音を立てた。
「どうしてにげるんだ、プリュネ。父さんはただみんなで母さんの所に行って幸せに暮らしたいだけなんだ」
思い通りにさせてもらえなかった子供のような、そんな不機嫌そうな表情でお父さんは言った。
「どうしてわからないんだ…どうしてわかってくれないんだっ!!!」
不機嫌を通過し、怒り始める。わたしはお父さんが何で怒っているのかわからず、ただ恐怖していた。
わからない。何もわからないんだ。お父さんが何で怒っているかも、お父さんが何を言っているかも。
血のつながった実の娘だというのに。
「今度は逃げるんじゃあないぞ・・・」
お父さんは冷たく言いなった。そしてじりじりとこちらににじり寄ってくる。
わたしは壁に背中をつけ、ただ震えていることしかできなかった。
逃げだそうにも、この部屋の扉はひとつだけ。そしてその扉は、お父さんの背中側にある。
しまった、と思うがもう遅い。ナイフをよけるのに必死だったわたしは、扉の位置なんて確認せずにお父さんから距離をとってしまったのだ。
「そう、そのままおとなしくしているんだ。…いい子だなぁプリュネは。とてもとても、素晴らしくいい子だ。さすがは父さんと母さんの娘だ。」
そうすればいい、どうしたらいいんだろう。…いや、きっとどうすることもできないんだ。
いっそ、お父さんの手元で光るナイフに貫かれてしまおうか。本当にそれで大好きなお母さんのもとに行けるんなら。もう一度お母さんに抱きしめてもらえるなら。あの優しい香りに包み込んでもらえるのなら。
それでもいいのかもしれない。
「安心するんだプリュネ、向こうには母さんがいるから寂しくなんてないさ。それに・・・」
いっそ、それでも・・・
「ーーー大好きなお兄ちゃんも直ぐに連れて行ってやる」
『お兄ちゃん』。その言葉で現実に引き戻される。
「…殺すんよ?わたしを殺した後で、おにぃのことも」
お父さんを睨め付ける。
・・・お行儀が悪いのはわかっている。子供が親に向けていい視線じゃないのはわかっている。
だけど、そうせずにはいられなかった。
「わからないな、プリュネ。『殺す』のではなく『導く』のだよ」
一瞬前の、死を受け入れていたわたしなんて、どこにも存在しない。
大好きなお母さんのもとに行けるんなら?
もう一度お母さんに抱きしめてもらえるなら?
あの優しい香りに包み込んでもらえるのならそれでもいいって?
ーーーそんなはずがないんよ。だってまだ、ルキウスおにぃの笑顔を見れてないんよっ!!!
「・・・死ねないんよ、わたしはまだ。おにぃの笑顔を見るまでは」
そして。
「また優しかったお父さんに戻ってくれるまでは死ねないんよ。失ったものが大きくても、大切でも、もう帰ってくることがなくても、生きていかなくちゃダメなんよ」
時は戻らない。失ったものも帰ってこない。それはわたしたちが生まれるよりもずっと前から決まっていることだ。
だからこそ、今のお父さんみたいに現実から逃げてはいけない。割れたガラスの破片を集めて、元通りに並べてみたって自分がみじめになるだけなのだから。
「あぁ、あぁ嘆かわしい。どうしたらわかってくれるんだ。プリュネはもう一度お母さんに逢いたくないのかい?」
「もう逢えないんよ」
きっぱり言い放つと、お父さんは不愉快そうに頭を掻きむしった。
そしてワンワンと嘆きの声をしばらく上げ、やがて不意に大人しくなる。
わたしも見つめた瞳には、やはり光がなかった。
「いや、理解なんてされなくていいんだ。向こうで母さんに逢えれば、正しかったとわかってもらえるんだ。そうだ、そうだろう?愛しのユスティアよ。一人で寂しかっただろう、今夜みんなを連れて行ってあげるからね」
お父さんは、死んでしまったお母さんの名前を呼ぶ。
きっと、お父さんにはわたしが見えていない。いや、この世界さえも。見えているのはきっとただ一人だ。
なら、どんな言葉も届かない。
わたしは受け入れるしかないのだ。お母さんの死を受け入れた時のように、今度は自分自身の死を。大好きだったお父さんに殺される悲しき運命を。
「ーーーなにをなさっているのですか!!!」
わたしでも、お父さんでもない声に弾かれて、部屋の入り口を見る。
そこには、わたしが笑顔にしたい人…ルキウスおにぃが立っていた。




