殺したいほどに
『最低』。よく聞く言葉だ。
最も低い。……とは言うけれど、一体地の底はどれほどに遠いのだろう。わたしはいつまで落ち続けるのだろう。
ーーー本当はもう、地の底に着いているのかもしれない。あの日、『わたし』が死んだあの日から。
だけどきっと、関係ないんよ。
今も落ち続けている最中だろうが。すでに地の底だろうが。
落ち続けるわたしを受け止めてくれる人はいないんよ。地の底に居るわたしに糸を垂らしてくれる人もいないんよ。
ここはきっと地獄だ。だけど抜け出す事なんてできない。外の世界に天国があるのか分からないし、そして何より……。わたしがここからいなくなれば、全部が壊れちゃうから。
だから、耐える。
降り注ぐ理不尽に。抗えぬ暴力に。
耐える耐える耐える。
たとえもう二度とあの人が……。
『おにぃ』が微笑みかけてくれなくても。
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私に『人殺し』を依頼した男の名前は、ルキウス・フォン・アストレア。
ーーーアストレア。有名な貴族の家だ。そのお屋敷は、メルクリアさんの実家とどちらが大きいのだろうか。
そのお屋敷に入るのは簡単だった。使用人の人たちに、ルキウスさんが私の事を『娼婦』だと説明したのは気に食わなかったが。
「………」
ふと、窓の外を見る。景色はあまりよく分からなかった。すでに日が落ち、月明かりだけが夜を照らしていたから。……今は、王都に住む殆どの人間が寝ている時間だろう。
きっと、サクラくんたちも。
私の隣を歩くルキウスさんの足取りは終始重く、私たちの間に会話はない。
……それはそうだ。軽快なステップでは進め無いだろう。楽しい会話に花を咲かせられないだろう。だって今から私達は、ルキウスさんが殺したいほど憎い相手に会いに行くのだから。
無論、私に人殺しをするつもりはない。だけど、この先にいる人物を見ておかなくてはと、そう思ったのだ。
殺される程の罪を犯したのなら騎士団に渡さなければいけないし、ルキウスさんか些細ないさかいで『突発的な殺意』を抱いてしまったのなら、なだめなければ。
……と言っても、後者の可能性は低いだろう。彼との少ない会話の中で、私はそう感じていた。彼の目に、使命感のようなものを見たから。
許せないほどの悪党を、裁けないほどの罪人を、屋敷の地下牢にでも閉じ込めているのでは無いかと、勝手に予想を立てる。
だが、地下牢へと向かうという私の予想とは裏腹に、いくつかの階段を登った。
ーーーそもそも、前提が間違っていたのだ。捉えている罪人を殺すのであれば、わざわざ私に頼む必要はない。触れただけで命を奪う『必殺の加護』を使う必要がないのだ。
ルキウスさんが見ず知らずの私に『人殺し』を頼んだということは……。この穢れた力を使わ無ければ殺せ無いと、彼がそう判断したと言う事だ。
「ついた。……この中にいる」
「ここにいるんですか?ここに貴方の……」
「あぁ、そうだ。ここに私の……『殺してあげたい人』がいる」
「………?」
ルキウスさんの言葉に多少の違和感を覚えつつ、促されるままに扉を開けた。
ゴクリとツバを飲みこんだ後、薄っすらと月明かりに照らされた部屋を見回す。
……罪人が寝ている部屋とは思えない。扉を見た時から思ったが、装飾品が豪華すぎる。罪人はおろか、使用人の部屋にしても豪勢だ。
……部屋の奥から、一人分の気配を感じ、規則正しい寝息が聞こえてくる。
あそこに、ルキウスさんが『殺したいほど憎い人物』が居るのだ。
恐る恐る、息を殺して近付いて行く。これまた豪華なベットで眠っている人物に向かって。
……どんな男がいるのだろう。どんな罪を重ねた男がいるのだろう。
誰かに死を望ませる程の醜悪な顔が……
「な……」
眠る人物の顔を覗き混んだ瞬間、私は息を呑んでいた。
理由は単純。何一つ、私の予想が当たっていなかったから。
そこで眠る人物は、醜悪な顔をしていなければ、男でもなかった。
「女の……子?」
私と同じくらいの女の子だった。無邪気で可愛らしい寝顔をした女の子。
……こんな悲しい世界だ。寝顔だけで人を『善人』だと決めつけていれば、何処かできっと痛い目をみる。そんな事は幼い子どもでも知っている。
だけど、それでも。私は……。
こんな顔で眠る女の子が、誰かに死を願われるような人物だとは思え無かった。