『あれ』
ーーー私は今でも覚えてる。
両手を切り刻まれようとも。両足をもがれようとも。お腹を切り裂かれようとも。眼球をえぐられようとも。
心がすり潰され、消えて無くなってしまいそうになっても。
優しかった頃のあの人を、決して忘れない。
寂しい時は優しく語りかけてくれた。眠れない夜は手を繋いでくれた。
……あの人はよく、私に絵本を読んでくれた。
キラキラした物語。ワクワクした物語。
どんな悲しい物語も、最後は幸せで終わる。みんな笑っている。
泣いている女の子がいれば、カッコイイ勇者が救ってくれる。
でも……もうわかってるんよ。本当はそんなんじゃ無いって事くらい。ーーーわかってるんよ。
悲しい物語は悲しいまま終わる。泣いてる女の子を助けてくれる勇者様なんて、何処にも居ないってことくらい。
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気持ちのいい朝。清々しい朝。……その筈だった。現に、少し前までは確かにそうだった。
朝。目が覚めると、昨日の熱は引いていて、身体も軽かった。きっとアイルがくれた薬が効いているのだ。
だというのに、今の気分は最悪だ。
喉も唇もカラカラに乾いて、息をするのさえ億劫に思える。それに、全身を嫌な汗が包んでいた。
それもこれも、全て『あれ』のせいだ。
今俺の右手に握られている『あれ』の。
朝の微睡みを犯す毒。美しい湖に落ちた血の一滴。それが『あれ』なのだ。
……奥歯を噛み締めながら『なぜ俺は、あれを拾い上げてしまったのだろうか』という後悔にかられる。
気が付かなければ良かった。仮に気が付いたとしても、拾い上げさえしなければよかったのだ。
知らないふりをして、何食わぬ顔で部屋の扉をくぐる。ただそれだけで、昨日と同じ今日を送る事ができたのに。
だが、もう全て後の祭りだ。どれだけ後悔しても、"もしも"を書き連ねても、現実は変わらない。『あれ』は依然として、俺の右手の中にあるのだから。
逸る鼓動を、震える足を、カチカチと音を立てる奥歯を必死で押さえつける。覚悟を決めるんだ。もう退けない所まで来ているんだ。
見て見ぬふりをしなかった過ちを認めろ。拾い上げてしまった罪を認めろ。……されど前に進め。
「ふぅ……」
深呼吸を1つ。もう、身体の震えは止まっていた。
「……よし」
覚悟を決める。右手で握りしめている『あれ』を眼前に持っていき、慎重に広げていく。
俺の穏やかな日常を壊した……いや、これから壊すであろうモノの姿を再確認する。
俺が握りしめていた『あれ』とは……
ーーー女性物の下着だった。