地理のじかん
あ、聞こえる。
微かに隣の教室からどこか高くて低くて不思議とよく響く声が聞こえる。同時に、笑い声も。
ああ、隣のクラスは今地理の時程らしい。
私はとたんに嬉しくなった。つまらない数学の授業が一転する。今、私にとっての数学の時間は終わった。
そっと目を瞑り、聞き逃すまいと耳を澄ます。どうやら地理の話をしているらしい。世界の暖かい地方、寒い地方。一年生の範囲だろう。
寒帯、イヌイット。狩り。生肉を食べるらしい。そりをつかっていて___
頬に手を当て、聞き入る。手元にある数学のノートには文字列が刻まれていく。寒帯、イヌイット、狩り。
数学は犠牲にしよう。私は目の前の黒板を見さえもせずに微かな声に耳を澄ます。
気づくと目の前にいる数学の教師は苦笑いしている。そういや私の席は一番前だっけ。いいや、今は地理なの。この声が聞こえる限り、地理の時間なの。
えっくす?わい?そんなことより、遠い乾燥地帯のサバナ気候の話や、寒帯地域の日本に住んでる私たちには想像が難しいクレイジーな生活の方がずっと私は好きだ。
社会の授業で語られる限りのない外や、時空を鑑みない永遠に広がる過去の世界はXとYと数字で完結してしまう世界よりずっと広い。
「ねえ、隣の教室____佐藤先生だね。」
この感動を共有したく、私は隣の席に座っている友人の綾に話しかけた。
「瑠奈、まだそんなこといってるの?」
苦笑された。おかしい。
再度響き出した声に聞き惚れる。
「やば、ほんっと澄んでる。美声…。」
「ぜんっぜんそんなことないと思うけど。」
「この魅力がわからないとか人生の半分近く損してるな」
「はいはいそれより授業授業。」
つれない。友人はふいと黒板を向き、数学の先生は構わずに授業を続ける。私だけ時間が変わる。地理を語る声にうつろいながら、もう一度私は耳を澄ます。
暖かい国_例えば南西諸島では高床の倉庫を使い__なぜなら、風通しを良くするとともに_________。
寒い_____、またそれによって_______なんで、______。
聞こえた声をノートに書き留める。先生の声から生み出された言葉が次々と私の手によって刻まれていく。
あなたは私がここにいることを知らない。ここで、あなたの声を聞いていることを知らない。
ここで、あなたの声を想っていることをしらない。
ただ私が一方的に、繋がりを感じているだけだ。壁一枚隔てた近くてなお遠いあなたに。