聖剣の勇者
僕たちの生きる世界は、僕たちだけのものではない。鳥がいて、獣がいて、木々がそこにある。水があって、空気があって、太陽と月と星々とが広大な空にある。そして。山一つ向こうには、僕たちを脅かす魔物が息を潜めている。魔物を束ねる魔王の住む城は、人間界のどこからでも見える。それは裏を返せば、魔王からはすべての人間の営みが見えるのだということだ。彼、あるいは彼女は何が憎いのだろう? どうして僕たち人間を襲ってくるのだろう? 決して聖剣を擁する人間には勝てないときっと理解していながら。魔王は倒しても倒しても何時かの時を経て、復活する。それはそういう魔物だ、ということ以外何も分かってはない。魔王が復活すれば、聖剣も人間界に現れる。聖剣の現れた村の少年、あるいは少女がその剣に選ばれる。そして勇者となったその者を助けるために、各国から一人ずつ選りすぐりの使い手たちが派遣される。だから歴代の勇者一行は、勇者以外魔法使いだったり、全員戦士だったりすることもある。勇者一行の旅は、いつだって悲劇だ。彼らは旅に出、魔王を討ち亡ぼす。だがただの一度だって、勇者が帰ってきたことはない。ボロボロに傷ついた、勇者一行の生き残りは口を閉ざし多くを語らない。残るのは、人々の口伝により構成された嘘か誠かもわからないような救世の物語ばかりだ。
聖剣の加護は勇者に様々な奇跡を与える。それは肉体の強化だったり、魔法の才能だったり、とかく色々な加護だ。聖剣に選ばれれば誰だって理解する。それが世界を滅ぼす者を、滅ぼすに足る力を与える物だということを。だが、そんな聖剣を持ってしても魔王とは相討つが限界らしい。
だから、今日聖剣に選ばれた僕は、魔王と戦い名誉の戦死を遂げるのだ。
そこに悔いはない。僕を育てた両親や、村の友人や、道行く人々の生活を救えるのなら、きっとそこには僕が命をかけるだけの価値があるからだ。僕は己を鼓舞する、火をつける、死ぬ気でやれば魔王だって倒せるさ、と。
扉を開く。ここに至るまでに無数の魔物を倒してきた。それでも魔王はこの扉の向こう、玉座の間から動く気配を見せなかった。魔王にとっては、配下の魔物の命など、きっとどうでもいいのだろう。開かれた隙間から溢れ出る濃密な死と怒りが、静かに僕たちの間に満ちる。そして決戦の幕が開かれた。
そう、それはまさしく死闘だった。空気を焦がす爆熱、音を引き裂く雷霆、過たず放たれる弓矢、地を割らんばかりの剣戟。僕も仲間も必死で応戦した。僕はただの一撃も許すわけにはいかなかった。魔王の一撃は、必殺の一撃。ここまで旅をしてきた仲間を殺させるわけにはいかなかった。蘇生の魔法だって、唱えている余裕はなかった。魔物を倒すことは、パーティの皆でもできる。だが魔王だけは僕にしか倒すことができないのだと、聖剣が告げていた。十を受け、十を返し、一を叩き込む。決して途切らせることのなかった集中力が、魔王への最後の一撃を叩き込む時に覗いた魔王の素顔を見てふっと緩んでしまった。だから。気づけなかった。背後からの一撃に。魔王ではなく、僕を狙った明確な殺意に僕は反応できなかった。それを今、走馬灯のように思い返していた。巡る走馬灯は、現在に追いつき、そして時間が緩やかに爆ぜ、また進み出す。
その一撃が僕に突き刺さる。聖剣の加護も、魔物以外には効きようがなくて。僕はことここに至ってようやく、魔王討伐の凱旋に勇者がいない理由を、一行が口を閉ざす理由を知った。世界を滅ぼす者を滅ぼす者は、世界を滅ぼすに足る力を持つのだから。魔王を倒した聖剣が静かに溶けて行く。役目を果たしたそれは、また幾許かの眠りにつくのだろう。少しずつ視界がぼやけて行く。思考が途切れて行く。魔王の城からなら、人間として迎える最後に両親を見れるだろうかと思ったものの、もう体は動かない。魔王の体と最後を共にする感覚は奇妙なものだった。少しばかり彼には同情する。そしてこれからの僕の未来に彼も同情しているのだろう。魔王は静かに蘇生魔法を唱えた。死に行く僕の体に活力が少しずつ戻ってくる。魔王に誰よりも近づくことのできる勇者だからこそ気づけるこの真実。歴代の勇者は、とどめの瞬間に、あるいは死の瞬間にこの残酷な真実に気がついたのだろう。世界を呪い、選ばれた不運を嘆く。世界を滅ぼす者を滅ぼす者は、世界を滅ぼすに足る者だ。僕がこれから新しい魔王となろう。