磨き鰊工場
もちろん、これは夢なんだから、そう言うことぐらいあるだろう。
辺りに漂う空気には、生臭い磯の香りがする。
坂の多い敷石の道。
細くてクネクネ曲がる路地を、チビの後を着いて走って行く。
小路を抜けるところで、チビが足を止め、辺りの様子を窺った。僕も同じ真似をする。
道を渡った先に、枯れた蔓の絡む錆びたフェンスに囲まれた、蒲鉾屋根の大きな建物。
擦り硝子の窓は外側から、材木でバツ印を打たれて塞がれている。幾枚かは、端っこが割れて欠けていた。
ボルト留めが取れて地面に落ちて斜めに傾げた看板には、魚の缶詰の絵とオイルサァディンの文字。
「缶詰の廃工場だ。ここで磨き鰊は作られる。磨き鰊を作るには、年寄りの猫が必要だって噂だ。年取った猫に頼み込んで、要員を集めているんだって」
チビが周囲を気にして、抑えた声で囁いた。
不思議な噂話に、僕は胸がワクワクする。
「中に潜り込めるところはあるの?」
「割れた硝子の隙間だよ。内に物を置いて塞がれてしまうんだが、一つだけ新しく割れたのに気付かれていないのを見つけたんだ。お前が来るのが遅いから先に確かめてきたけど、まだ気付かれずに開いていたよ」
僕らは人目を避けて、一人ずつ小走りに道を渡る。
フェンスに開いた大穴を潜って、廃工場の敷地には簡単に入り込んだ。
手で合図するチビに従い、工場の建物沿いを移動する。
チカラシバ。ノボロギク。コバンソウ。
ゆらんゆらん揺れる茫々の草の合間に、空き缶や硝子の破片が煌めく。
パンクしたタイヤの自転車、塗料の剥げたダイニングの椅子。錆びた絞り器付きの洗濯機。
木製の箱が幾つか積み上がったところで、チビは足を止めた。
箱の一番上は、高いところにある窓に届いている。
チビは不安も何もなく、スルスルと箱を登って行った。箱が頑丈そうだったので、僕も続く。
窓の端が欠けて、子供の握りこぶし大の穴が開いていた。
「年寄り猫が多いから、きっとこんな高いところには気付きにくいんだよ」
「こんな小さな穴じゃ、人間には潜り込めないよ」
それとも割れたところから手を入れて、硝子を少しずつ割り取ろうと言うのだろうか。枠だけにしてしまえば、子供なら入るのは訳もない。
「人間ならそうだろうさ。大人の猫だって苦しいだろうけど、俺達子猫なら楽勝だよ」
「猫って」
僕は言い掛けるが、チビは無言のまま 興奮と緊張にヒュイヒュイと鞭のように横に振れている二人のしっぽをジッと見つめた。
僕は、グゥの音も出ない。
「うん。猫だね」