突然の誘拐
辺りは生い茂る草に覆われていた。
春先の心地よい風が自らの身を包んでいると
いう感覚を認識させ、少し肌寒い気温が
頭を冴えさしてくれる。
そうだ。こんなゆったりとした、
落ち着きのある空間。これを俺は望んでいた
んだ。
日々の気怠い殺伐とした環境下に置かれた
体を、このだだっ広い草原が少しずつ
癒していく。
「ーずっと、こんな日々が続けばいいのに」
そう呟くと、そんな夢のようなことが
想像できて気分が高揚する。
その高揚感が草原の安心感と相俟って
自身の体を眠りへと誘った。
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「ーんで、どこだここは…」
目覚めてから数秒。
まだ寝起きの脳は、この奇天烈な状況を
把握するには少し心許なかった。
「確か俺は…草原で寝ていたはずじゃ…?」
そうだ。日々の長時間労働に疲れ果てた体を
癒すため、趣味のドライブも兼ねて自然の
大草原へ向かって…そこでつい寝てしまった
んだ。
周りを見渡す。あるのは布地で出来ている
壁のようなものに、木組みの床。
そして自分以外の「誰か」が自分に背を向けて横たわっていた。
寝ているようで、全身をポンチョのようなもので覆っている。声をかけても良かったのだが、なんか悪い気がしたし、寝ている人に話しかける勇気もない。
そしておよそ数分後。自分を取り巻く状況は一切の変化を見せない。
とにかくこのままではまずい。ここから
脱出するため、状況把握をしなければ…
まずは出入り口付近。
鍵がかかっていて、開きそうにはない。
壁や天井は布で覆われているので、
破れば出られるかと思ったが意外と
頑丈に出来ていて破れない。
これで脱出はできないと理解できた。
次は何故こうなったのかを考える。
考えられるのは誘拐なんかが妥当だろう。
しかし財布なんかは盗まれていないし、
身体になんの拘束も目立った外傷もない。
何か特別な目的があるのだろうか…
そうこうしているうちに腕時計の針は
既に午後四時二十五分を指していた。
草原に横たわったのが午後二時頃だった筈
なので、すでに二時間半程度たったことに
なる。しかし、この状況は全くもって理解できない。
もしや自分のほうがおかしいのでは?
と思い始めたその時。
「…何してるんです?」
ぎょっ、と後ろを振り向きそうになる。
ひょっとしたら誘拐犯かもしれない。
冷や汗が頰を伝う。
そしてそっと、恐怖をこらえてゆっくりと
振り返る。
その先には…先程まで床で寝ていたはずの
ポンチョを羽織った怪しい人物がいた。
もしや、こいつが俺の監視役だったのか?
そうだとすれば寝ている時点で監視役失格だが、もし相手が武器を持っていたら確実に死ぬ。俺はどうするべきか…?
その俺の困惑を、奴は見逃さない。
奴は深く被っていたポンチョを脱ぎ捨てた。
その姿、顔立ちが露わになる。
その人物の第一印象を一言で表すと…
美少女だった。
華奢な細い手足は彼女の着ている紺の奇抜な
ワンピースで目立たないが、その整った顔立ちは明らかに常人の比ではない。
静寂と慈愛にみちた純黒の目に、女の子特有の丸みを残した艶やかな黒髪は肩の少し上で
カットされていた。また透き通るような
色白の肌が黒髪の美しさを際立たせている。
意外な姿形に呆気にとられていると、
睨まれたと勘違いしたのか申し訳なさそうに
彼女は口を開いた。
「ああごめんなさい!その…邪魔でした?」
「いやいやいや!そんなことないって!
むしろいてくれて良かったって!こんなとこ
に閉じ込められて不安だったし…」
彼女は少し慌てた様子だったが俺は
その3倍ぐらいのテンパり度で答える。
ともかく会話できるようだ。
彼女から何か情報を…
「……え?閉じ込められてるって?」
お前も何も知らないんかい。
仕方ないので俺は、さっきまで調べていた
情報を事細かに説明した。
上手く伝わるか不安だったが、
彼女は頭がいいようだ。俺の説明を
一回で理解した。
「ーということは要するに…ここで待つしか
ないということです?」
そう。全くもってそうとしか言いようがない。この空間にいる以上、本当にすることがないのだ。
携帯は圏外、大声を出せばいるかもしれない
誘拐犯に何をされるかわからない。
というか、携帯が圏外の近くに人がいるとは
考えにくかった。
「どうすっかなマジ…。」
ここまで色々と考えてきたが、結論はまあ
詰んだというやつだ。完全に詰んだ。
時刻はすでに5時を回っている。
昼食をぬかしたせいか、かなり腹も減ってきた。
なんというか…もっとイベントがあっても
いいんじゃないだろうか?
すると彼女に表情を読まれたのか、
「あの、ひょっとしてお腹すいてる感じですか?」と聞かれてしまう。
しょうがない、正直に答えることにした。
「あー、うんちょっとすいたかも」
「そうですかそうですか。ならこれを
あげましょう!」
そういうと彼女は懐から包みを取り出し、
それを俺の手にのせた。俺は包みを開ける。
すると中には何とも言い難い果物(?)の干したものが入っていた。
最近流行りのドライフルーツというやつだろうか、しかしこの赤い細長い食べ物、
原型が全く想像できない。
だからといって返すわけにもいかないので、
一口口に入れる。
食感はグミに似ていた。
しかし舌の上で転がる不可思議な果物の味は
…
…………!
これは…なんだ…?
舌が痺れるような辛さと、ほのかな酸味、
そしてとろけそうな甘味が一気に襲ってくる。
その衝撃を受けた俺の顔を彼女は感激したととったのか、「どう?美味しい?」といった目つきでこちらを眺める。
いや不味い。マジ不味い。
混ぜたら危険なやつだこれ。
しかし隣を見るとこれを美味しそうに
食べる少女がいるわけで。
「…君病院行った方がいいと思うよ。」
「出会ったばかりで食べ物もあげたのに
辛辣ですね!?」
しまった。つい言ってしまった。
「もう、人が親切に貴重な食料あげたのにー」
確かに彼女は親切なのだ。このいつまで
閉じ込められるかわからない状況下で何の
ためらいもなく食べ物をくれたし、
この無礼な発言ももう気にしていないようだ。そう考えると申し訳なくなり、
「あー悪かったよ。ごめんな」と謝る。
彼女はその言葉を待っていたようで、
「んー、じゃあここから出してくれたら許します。」なんて軽口をたたいていた。
出来てたらとっくにやってるっつーの…
しかし俺はあまり人と話すのは得意ではないのに、会って数分で軽口をたたけた事に
今更ながら驚く。
彼女の性格がそうさせるのだろうか?
なんて考えながら彼女の方を見ると、
彼女は少し険しい顔をしていた。
「どうした?大丈夫か?」
と問いかけると間を置いて彼女は答えた。
「何か…来ますね、これ。」
え、という暇もなく身体に衝撃が走る。
突然のことに全く思考が追いつかず、
そのまま床に叩きつけられる。
「何が…起こった…?」
「きっとこの部屋が…いや馬車が動きだした
んですよ。」
馬車?俺たちは馬車に閉じ込められていたのか?しかし先程の地震のような衝撃を
馬車の発車と考えれば納得はいく。
とにかく発車したということは、
俺たちをここに閉じ込めた誘拐犯が健在で
目的地に向かっているということだ。
どうにかしないと…と周りを見渡す。
すると視界に飛び込んできたのは
黒い帽子を被った大男の顔だった。
ぎょっとしてその場から飛び退く。
いつの間にか出入り口が開いている。
そこから入り込んできたのか…
注意不足を後悔する自分をよそに、
大男は笑いながらこう言った。
「おぅ、やっと起きたか。
…大事な大事な商品さん?」
予想外の言葉に相手の発言の理解が出来なかった。
奴隷だと?俺たちを奴隷にするのか?
何を言っているんだこの男は。
だいたいなんで誘拐に馬車なんて使う?
脳内に様々な疑問が浮かぶ。
今すぐにでも問いたいが、そんな状況ではない。
ごくり、と生唾を飲み脱出計画を練る。
この大男を倒し出入り口から出るか?
しかし俺にこの大男が倒せるとは思えないし
万が一出られても走る馬車の上では
降りられないだろう。
何度もシミュレーションを繰り返すが、
良い結果は出てこない。
焦りを感じ始めていたその時。
「ー下がってください。」
少女が俺の襟を引っ張り俺を後退させる。
彼女の意外な行動に驚きを隠せない。
しかし彼女は真っ直ぐと相手を見つめ、
どこにあったのかハープのようなものを
抱えている。
しばらく呆気にとられていたが、はっとして彼女に呼び掛ける。
「よせ!危険だ!俺が囮になるからお前は
逃げろ!」
だが俺の勢い余った囮発言は二人に届かず、
男は少女に
「ほう…その小っこい楽器、確かルーリュっつったか?そいつで俺を倒そうってのかい?」
と笑いかける。
どうやら戦う意思があるようだ。その証拠に
男はナイフを取り出し構えている。
その様子を見ながら冷静に彼女は言った。
「いえ。このルーリュであなたを殴ったり
なんてしません。ー唄うんです。」
は、と口を開く前に彼女は演奏を始める。
その音色は先程までの緊迫した空気を
一変させ、安らぎのある悠々とした雰囲気が
あたりを包んだ。
全身をほぐすような優しい音色や
彼女の美しく聴くものを魅了する歌声。
魔法にかけられたような感情を揺さぶる
歌詞が脳内に響く。
「天才だ…」
そう思わず口に出してしまうほど、彼女の
唄は素晴らしかった。
すると彼女も言葉を返す。
「褒めてくれるのは嬉しいですけど、
もっと後ろに下がった方が良いですよ?」
瞬間大男は持っていたナイフを捨て頭を掻き毟り始めた。何が起こったと驚くのもつかの間、
「ああああああああああ!」
男は叫び始めた。それこそ狂ったように。
男のおかしい行動に俺は彼女に問うた。
「君こいつに何したんだ…?」
「詳しくは後。とりあえず脱出です。」
質問は上手く躱されてしまった。
だが彼女の脱出する、と言う発言には
確信があるようだった。
大男は顔を歪め、ふらふらと出入り口へ向かって歩く。俺たちもそれについていく。
出入り口を出ると、そこには
立ち並ぶ木々や射し込む日光、そして
大男の仲間であろう小柄なおっさんが
馬車を運転していた。
大男はそのおっさんを見るなり、
「ゔぁぁぁああああ!」
と叫びながら襲い掛かり、それを想像も
していなかったのか小柄なおっさんは
容易に体勢を崩され、大男はその上に
馬乗りになる。
「いつもいつもいつもいつも!
俺を小馬鹿にしてこき使いやがって!
おいしいとこ持ってってんのはいつも
てめえじゃねえかあ!」
大男はそう言いながらおっさんを殴る。
体格差のせいかおっさんは全く反撃できず
なす術なく気絶した。
当然ながら馬車は止まる。
その間に俺たちは馬車から飛び降りて
無事脱出した。
「ーいやあ、マジ助かった。ありがとな。」
「じゃあなんか奢ってくださいね。」
「ええ…」
俺たちはとりあえず馬車から離れ
近くにあった草原に寝転がった。
そこで休憩していたのだが、彼女との
談笑を楽しみ過ぎてもうすっかり夜更けに
なってしまった。
「よし、そろそろ帰るか。ここもう
どこだかわかんねえな。近くに交番ある?」
「?交番って何です?街のことですか?」
「え…じゃあコンビニとかは?
ホテルは?駅とかは?」
「さっきから何言ってるんですか、
とりあえず街に入りません?そこでちょっと
寝れば疲れもとれますし。」
そう言うと彼女は右下の方を指さす。
その方向には巨大な壁に囲まれた多くの
中世風の建造物、そして城があった。
その幻想的な風景に、早計ながらも確信する
。
「…ここ異世界だわ」
その自分が幾度となく想像した世界を前に
青年は今後の困難をまだ知る由もない。