第六章
洋介と菜々美が付き合うようになってから最初の休日、洋介は朝も早い午前八時に駅前に立っていた。休日の、それもまだ多くの店も開いていない午前八時の駅前は閑散としていた。通学する学生も疎らでスーツを着た社会人もあまり見当たらない。そこで立ち尽くす洋介の姿は目立っていた。
(まだかあいつは……)
菜々美が一向に現れないことに徐々にイラつき始めていた洋介はその場をうろついて見たり、辺りを窺うような行動を取ってしまう。じっとしていられないのだった。その落ち着かない行動が周りの目を引く原因になっているのだが、洋介自身はそんなことは全く意に介さず、ひたすら周りを見渡す。
「もう三十分の遅刻だぞ……」
洋介は小さく呟く。待ち合わせは七時三十分だったが、意外に真面目な洋介は十分前に到着していた。待ち時間延べ四十分。洋介でなくとも退屈に耐え切れず、辺りをうろうろ歩いてもおかしくない。
ため息をつきながら洋介はケータイを取り出す。既に二通メールを送っていたが、返事は返ってきていない。業を煮やした洋介は今度はアドレスから菜々美の番号を呼び出し、通話を始める。
「これで今起きたなんて言いやがったら……」
そのまま家に帰ってやる。そんな風に思いながら洋介は菜々美が出るのを待つ。
すると洋介の背後から着信音が聞こえてきた。この場所でこのタイミングで着信音が鳴る。洋介は後ろに誰がいるのかを確信しながらゆっくりと背後を振り返る。
「……おはよう」
「あははっ……おはよう」
洋介の不機嫌そうな表情に背後から現れた菜々美は苦し紛れに笑いながら挨拶をする。少しでも場を和ませようと試みた作戦だったが、その効果は一向に表れていない。洋介の不機嫌そうな表情は何も改まることはなく厳しい目線を浴びせかける。
これは小手先の誤魔化しでは駄目だと悟った菜々美は潔く頭を下げる。
「ごめんなさい! 今日は何を着ていこうとか、体を綺麗にしていかなくちゃとか、勝負下着を着けていこうかなとか考えてたらいつの間にか時間が過ぎてて……」
頭を下げながら菜々美は訳を話していく。それにしても三十分のオーバーはないだろうと洋介が文句を言おうとしたその瞬間、菜々美は頭を上げた。そこから見えた菜々美の表情は涙ぐんでいた。
(うっ、不本意だが許せそうな程可愛い……)
微笑ましい言い訳に涙ぐんだ顔の合わせ技で洋介はあっさり陥落してしまった。喉まで出掛かった文句を飲み込んで、洋介は菜々美の頭を撫でる。
「もういいよ。とりあえず何か事故に遭ったとかじゃなくてよかった」
「あっ、ごめんなさい。メールの返事返さないといけなかったよね」
「ああ、遅刻は別にいいけどそっちはちゃんとして欲しいな。心配だから」
洋介の言葉に菜々美は再び涙ぐむ。洋介は何かまずいことを言ってしまっただろうかと自身の言動を振り返るが、心当たりがない。
困ってしまった洋介は菜々美の様子をよく観察すると涙ぐみながらも微笑んでいることが分かった。
「ど、どうしたんだ? いきなりまた泣き出して」
「だって……だって洋介が私のこと心配してくれるなんて嬉しくて……」
(こ、こいつは……)
何て可愛いんだと洋介は叫んで走り回りたいぐらいだった。しかしそれをやると完全な変人の上に肝心の菜々美に嫌われそうだから自重する。その代わりとばかりに洋介は菜々美を軽く抱きしめる。
「あっ……洋介……」
菜々美は少し驚いた様子だったが、そのまま洋介の胸で大人しく抱きしめられる。その表情は至福そのものといった様子である。
(ああ、俺のキャラが段々変わっていくなあ……)
ちょっと前の自分だったら外でこんな恥ずかしいことやらないだろうし、そもそも外でなくてもやらないだろう。憧れていた瞳の想像でもこんな場面など考えていなかった。前に菜々美に言った通り振り向かせることしか考えていなかったのだから無理もない。全く想定していない無意識の行動に洋介は自分が恐ろしくなった。
(俺、これから何しちゃうんだろう)
これからもこんな無意識な行動が次々起こってしまうのだろうかと思うと洋介は顔が真っ赤に火照ってしまうのだった。
閑散としているとはいえ駅前で堂々と抱擁していた二人は顔を赤らめながらそそくさと退散していた。今、現在はファーストフードに入り、朝食の最中である。とは言ってもこれは予定外の行動で、時間がなくなり朝食を抜いていた菜々美のための寄り道であった。
「うー、いきなりこんな恥ずかしいところを晒すなんて……」
「別にいいんじゃね? 腹が減るのは普通だろ?」
「そういう問題じゃない!」
菜々美は顔を赤らめながら気持ちを分かってくれない洋介に不満を口にする。洋介の前にはフライドポテトにコーヒー。そして菜々美の前にはハンバーガーにポテト、コーヒー。朝から男よりも多いメニューが机の上に並んでいるのが恥ずかしいのだろう。
「うぅ、恥ずかしい」
「でも美味いだろ?」
「うん、美味しい……」
顔を赤らめ、恥ずかしがりながらも菜々美の口は食べることを止めない。やはり空腹には勝てないのだろう。あっという間にハンバーガーとポテトを食べ終え、コーヒーを啜る。
「ご馳走様……」
「おおっ、早いなあ」
「言わないでよぉ」
菜々美いじりに楽しみを見出した洋介だったが、あまりやると機嫌を損ねるか泣かれるかしそうなのでこれぐらいで留めた。そしてその代わりとばかりに洋介は違う話題を菜々美に振る。
「それでこれからどうすんの? まだ八時半だぞ」
「まずは中央公園に行っていちゃつく」
「はあっ!?」
菜々美の発言に洋介は驚き、思わず立ち上がってしまう。周りにいる客が何かとばかりに視線を集中させると洋介はその視線に気付き、恥ずかしそうに席に座る。
「お前が変なこと言うからっ!」
「ふ、普通でしょ! 噴水の近くに座って愛を語るとか」
「お前意外に純情なのな」
洋介は見た目とは異なり、一昔どころか相当前純愛文学のようなデート観を持っている菜々美に驚きの念を隠せない。確かに時間が早すぎるため行ける場所は限られるのだが、洋介にはその選択肢はなかった。せいぜいこの前の下校のようにファミレスにでも入って喋るか、今しているようにファーストフードで喋るかである。
それでも洋介は初デートでもあるし、菜々美の望みは出来る限り叶えてあげたかった。かなり恥ずかしい光景が想像出来るが、仕方ないと洋介は腹をくくった。
「いいよ。それじゃ公園行こうか?」
「ええっ!? いいの?」
「お前が行くって言ったんじゃないか」
「でもまさかいいって言うとは思ってなかったから」
「まあ、恥ずかしいけど初デートだから出来るだけお前の望みどおりにしてやりたいし……」
「洋介……だから洋介のことが大好きなんだよおぉぉぉおっ!」
「うわっ! ちょっ、こんなところで抱きつくなあぁぁぁああっ!」
喜びのあまり公衆の面前で熱い抱擁を交わす洋介と菜々美。店員と客の視線を独占してしまっている状態に耐えられないのか洋介は抱きつく菜々美をひとまず引き離し、菜々美を連れて外に出る。
「お前はしゃぎ過ぎ。無茶苦茶恥ずかしいだろうが」
顔を羞恥に赤らめた洋介は外に出るなり菜々美に苦情を申し出る。確かに柔らかくいい匂いのする菜々美の抱擁は男として至福であるに違いないが、女の子と初めて付き合った洋介には刺激が強すぎたようである。まして公衆の面前である。自分から抱きしめた先程とは違い全く覚悟が出来ていなかったことも余計に洋介を恥ずかしくさせていた。
一方、愛の抱擁を引き剥がされた菜々美は見るからに不満そうな表情をしている。こちらは顔を赤らめることもなく至って普通である。むしろ公衆にもっと見せ付けてやればいいと言わんばかりの態度で洋介を見つめる。
「さっき自分もしたくせに……。それと洋介は周りを気にしすぎ。これぐらいよく街中で見かけるよ」
「あれは無意識だったんだよ。それに人もそんなにいなかったし……。まあ、ともかくせめてもっと慣れてからにしてくれ。初デートでこれはレベル高いよ」
「そんなことないのになあ……。じゃあこれならいい?」
「あっ……」
洋介が抱き合うことに難色を示していることを知った菜々美は代替案とばかりに洋介の手を握る。突然絡んできた菜々美の手の感触に洋介は驚くものの、それを離したり、抵抗したりすることはなかった。
「これぐらいなら初デートでも十分やるよね?」
「まあ、これぐらいなら……」
「それじゃ手を繋いだまま公園まで行こうか」
「……ああ」
これで歩くのも十分恥ずかしいと思った洋介だが、譲歩出来ないレベルでもないので受け入れることにした。出来る限り菜々美の望みを叶えたい。そう決めたのに早速菜々美の行動に難色を示してしまった以上、これも断るわけにはいかなかった。
どうやら菜々美はとかく二人だけの世界を築きたいらしく周りを一切気にしない。堂々と手を繋いだまま道を練り歩く。
だが、その相手の洋介といえば周りから見られていると、こちらは過度に周りを気にしていた。まだまだ菜々美のように二人だけの世界に浸れるほどには至っていないようである。
洋介にとって茹で上がる程恥ずかしい時間がようやく終わり、二人は中央公園に到着した。まだ朝早いためか人影はまばらで洋介にとっては望ましいことであった。
公園に入ると二人は誰もいない噴水の近くにまでやって来る。そして噴水周りのベンチに腰掛ける。
「さあ、洋介。ここなら人の目も気にならないよ」
「まあ、しばらくしたら人来るだろうけどな」
「だからそれまではここでいちゃつきながら愛を語ろう」
「いちゃつくのはともかく愛は語りたくないな……」
菜々美のハイテンションについていけない洋介はともかく話の内容を考える。菜々美に先んじて話題を振らないと菜々美の意味の分からない愛を語るというテーマに巻き込まれてしまう。それだけはなんとしても避けたかった。
「それじゃまずは……」
「ああっ! そういえば俺まだ菜々美のこと何も知らないよなあ。趣味とか聞きたいなあ」
いきなり語り始めようとする菜々美を遮るように洋介は話を繰り出す。だが慌てて持ち出した話題のわりには選択は間違っていなかったらしく、菜々美は洋介の話題に食いついてきた。
「えっ? 私の趣味聞きたいの? 嬉しい! 私に興味を持ってくれてるんだ」
「あっ、ああ、まあ俺の彼女だしな」
「いいよ、いくらでも答えちゃう。私の趣味は洋介です! きゃあ〜、言っちゃった!」
「……」
恥ずかしそうに体をくねらせる菜々美を見て洋介はむしろ冷めていく。それどころか引いているような様子さえ見える。しかし頭の中が幸せで一杯の菜々美はそれに気付かない。それどころか更にその弾けぶりは加速していく。
「もう朝起きたらまず洋介のことを考えて、授業中にも考えて、夜にも妄想しちゃいます!」
「あ、あの……もういいから。わかったから」
このまま放っておくと危ないことまで口走りそうな菜々美に洋介はここまでとストップをかける。ストップをかけられた菜々美はまだ言い足りないとばかりに不満そうな顔を洋介に向ける。
「ここからが本番なのに……」
「ああ、そういうものは胸の中にしまっとけ。大事なことは滅多に表には出さずに秘めておくもんだ」
「洋介……なんかかっこいいこと言ってる……」
(こいつの中で俺はいったいどれだけ美化されてるんだろう……)
洋介の行動にいちいち感激する菜々美を見て洋介はその頭の中を見てみたいと思った。恐らく自分とは似ても似つかない自分が住んでいることだろう。もしそうでないなら菜々美の目は節穴に違いない。少なくともかっこいい部類の人間ではないと自覚している
洋介は菜々美の反応にためらうところがあった。
(こいつは本当の俺をちゃんと見つめてるのか?)
洋介は少し不安になった。そもそも瞳の例を見てわかるように女の子に好かれる方でもないし、何かとりえがあるわけでもない。菜々美がここまで好いてくれること自体が稀有なことである。
(それにそもそもこいつはどうして俺を好きになったんだろう)
そんなことを考え出すとどうしてもこういう考えに行き着いてしまう。しかし自分になかなか自信を持てない洋介にとっては大事なことであった。
(愛を語るとか言ってるんだから聞いてもいいだろ)
洋介は菜々美が提案したテーマにありがたく便乗し、聞きにくい質問を自然にするという作戦を取った。
「なあ、そういえばどうしてお前は俺に告白しようと思ったんだ?」
「えっ?」
洋介の質問に菜々美はうっとりした顔から我に返る。それでも質問はちゃんと聞いていたらしく、難しい顔をして考え込む。
(そんなに考え込まないと答えられないのか……)
菜々美の沈黙に洋介は少し悲しくなってしまう。早く何か言葉を発してくれ。洋介は切にそう願った。
すると願いが通じたのか菜々美は顔を上げて、洋介を見つめる。その真剣な顔をした菜々美に洋介は思わず見とれてしまう。
「……私が洋介を好きになったのはね、実は河野さんが絡んでるんだ」
「……瞳が?」
「うん。洋介ってすごい一途に河野さんに好意を表してたよね。結構目立つ光景だったから私も見てたんだけど、最初はみっともないって思ってたんだ」
「そうだよな。今思えばストーカーみたいだったな……」
「だけど洋介の真剣な顔を見てたらいつの間にか応援するようになってた。想いが伝わるといいねって」
「……」
「でもそのうちその真剣で一途な洋介に私惚れちゃってたんだよね。気が付けば反対に想いが伝わるなって思うようになってたんだもん」
「そうだったのか……」
「今思えば応援し始めた頃にもう好きになっちゃってたんだと思う。やっぱり何かに一生懸命になってる人ってカッコいいもん」
菜々美は時には笑みを浮かべ、時には切ない表情で当時の心境を語っていく。洋介にとっては当然知らなかった事柄ばかりで菜々美の思いだけでなく瞳を追いかけていた時の周りの様子も知ることが出来た。当時の洋介にとっては周りの意見や胸中などどうでもいいことだった。ただ瞳だけを見つめていた洋介にとってその行動の意見をしっかりと受け止めたのは今回が初めてだった。
(そうだ、瞳といえば……)
洋介は菜々美の話から瞳という言葉が出てきて、菜々美に伝えなければならないことを思い出した。恐らく菜々美を未だに不安にさせるであろう存在である瞳について最近起こった変化を洋介は菜々美に伝えようと洋介も改めて表情を引き締める。
「そういえば菜々美、お前に朗報があるぞ」
「えっ、朗報?」
「ああ、瞳が俺と絶交したいみたいなことを言ってきた。軽々しく近寄るなってさ」
「それ私にとっては朗報だけど洋介にとってはそうでもないよね?」
「いや、それを聞いてもう瞳に対する気持ちは消え去ったよ。これで菜々美にも不安を感じさせなくて済むと思うと俺もほっとしたよ」
「洋介……」
菜々美は感激に瞳を潤ませる。洋介の口からこうもはっきり瞳に対する気持ちは消え去ったと聞けるとは夢にも思わなかったのだろう。ゆっくりゆっくり洋介の瞳に対する想いを自分に対する想いへと移らせていけばいいと長期戦を考えていた菜々美はその願いがあっという間に成就したことに驚きを隠せない。告白成功に続き、洋介の心から瞳の影を取り去ることまであまりにもあっさり進み、これは夢ではないかと菜々美は自分の頬を抓ってみる。
「いっ、いたたたたたっ! 夢じゃない……」
「お前……何やってるんだ……」
「だってこんなに私が願ったとおりになるなんて……」
「やっぱりけじめつけないと駄目だからな。口でいくらもう瞳なんて関係ない、菜々美と付き合ってるんだからみたいに言っても不安は消えないだろうからな。実際に行動で示さないと……まあ正確には瞳に示されたんだけどな」
そう言って洋介は苦笑いする。だが、奈々美は真剣にその話を聞き、涙を次から次へと流している。完全に感極まってしまったようである。
洋介は嬉しさのあまり泣きじゃくる奈々美を抱きしめる。それはまさに愛を示す行動だった。奈々美が愛を語ると言っていたのよりも一層恥ずかしい行動だったが、こちらも感極まってしまっている洋介には恥ずかしいという気持ちはなかった。
朝の無人の公園で抱きしめ会う二人。それはまさに映画のワンシーンのように美しい光景であった。
朝から濃密なデートとなった二人はそれ以後は打って変わって穏やかなデートをしていた。ウインドウショッピングをしたり昼食を食べたり、映画を見たりとデートを楽しむ。
だが楽しい時間が過ぎるのはあっという間である。辺りは徐々に薄暗くなってきていた。
「もうだいぶ暗くなってきたな。そろそろ帰るか」
「うん……もっと遊んでたいけど次に楽しみをとっておくのもいいよね」
奈々美は残念そうな顔をするが、食い下がるのを堪えて自分を納得させている。ここで我が儘を言って洋介を困らせたくないという思いが奈々美を強く抑制していた。
「それじゃまた今度だね……」
「ああ、また今度」
奈々美はまるで今生の別れのように暗くなっている。先程まで明るく楽しさに満ち溢れていた表情をしていたというのに今の表情は泣きそうですらある。
そんな表情を見てしまっては洋介もここでそのまま宣言通り帰ることは出来ない。洋介は照れ隠しに頭を掻きながら奈々美に提案をする。
「なあ……何だったらちょっと俺の部屋に上がってく?」
「えっ?」
洋介の突然の誘いに奈々美は驚きの顔を洋介に向ける。我が儘は言わない、そう心に決めて必死に自分を押さえ込んでいた奈々美にとっては思いもよらない言葉だったのであろう。
「……」
「奈々美?」
目を驚きに丸くしたまま奈々美は黙り込んでしまっている。その様子を見て洋介は何か間違ったかなと不安に駆られてしまう。
(いきなり部屋に誘うなんて軽すぎたかな。それとも別れが惜しいように見えたのは俺の勘違いだったか?)
反応を返さない奈々美に洋介は段々不安が増してきていた。表情を窺っても呆然としているだけで判断がつきにくい。洋介はそのままでいるべきかすぐに提案を引っ込めるべきか悩んでしまう。
(どうしよう……でもやっぱり初デートで部屋に誘うなんてまずいよな……)
洋介は悩んだ結果提案を引っ込めるべきだと決断を下した。
そうなるといち早くこの重苦しい空気を一掃させたい。洋介は改めて顔を奈々美に向ける。
「やっぱり今のなし。悪い、俺なんか頭がおかしくなってたみたいだ」
「えっ!?」
洋介の言葉に奈々美はまた驚く。しかし今度の驚き方は先程の比ではなかった。奈々美は今度は呆然とするのではなく慌てて洋介に詰め寄り始める。
「ち、ちょっと待って! 私行きたい、洋介の部屋に行きたい!」
「ええっ!? ちょっ、奈々美落ち着いて……」
激しい奈々美の反応に洋介は困ってしまう。あまりに激しい反応の差に洋介は驚きと困惑に包まれていた。それでも今の様子を見ていると奈々美は行きたいようだととりあえず洋介はその点では安心した。
「それじゃ行くってことでいいんだな?」
「うん、私洋介の部屋に上がってみたい!」
「よし、それじゃ行きますか」
洋介は奈々美の意思を確かめてから自宅へと向かう。奈々美は道々洋介にどんな部屋かとか家族は何人かなど引っ切りなしに質問を浴びせ掛けていた。それに洋介も面倒臭がることなく答えていく。結局移動の間、奈々美は最初から最後まで質問をしていた。
だが、いざ洋介の自宅を正面に見る段になった今、奈々美はすっかり借りてきた猫のように大人しくなっていた。
「うん? どうしたんだ?」
それまで質問攻めで賑やかだった奈々美が突然大人しくなったことに洋介は訝しがる。洋介が家の門を開けようと手を伸ばしただけで体をピクっと反応させてしまう始末であるのだから訝しむのも無理はない。これではまるで嫌と言わんばかりの様子である。
「あ、あの緊張しちゃって……あははっ」
洋介が不審に思っていることは何とか感じとれたのか奈々美は理由を正直に話す。しかしその緊張の度合いは凄まじいようで場を和ませようとした笑いもかえって洋介に苦笑いを強いる結果になってしまう。
「ま、まあこうしてても仕方ないし、入ろうか」
「う、うん。それじゃお邪魔します」
どこか動きがぎこちない二人は門を開けて玄関へと進む。特に奈々美のぎこちなさはここに極まれりといった様子で足と手が共に同じ方が動いていた。
「俺の部屋こっちだから」
「あ、うん……」
洋介の案内に従って菜々美は高梨家の中を歩いていく。玄関から廊下を歩き、階段を昇る。そして二階にある一部屋で洋介が立ち止まった時、菜々美の緊張は頂点に達した。
「ここが俺の部屋。さ、入ってよ」
洋介は扉を開いて菜々美を招く。洋介の背後に広がる空間はまさしく自分の知らない洋介の日常が詰まった空間なのだと思うと菜々美はすぐにでも飛び込みたい気分になったが、体が動いてくれようとしない。菜々美は心とは裏腹に立ち止まったままでいた。
だが、そんな態度をしていれば洋介としても不審さを感じずにはいられない。中に入るよう促しても動こうとしない菜々美に訝しげな表情を向けてこちらもそのまま立ち尽くしている。
「うん? どうしたんだ?」
洋介は当然のように菜々美にそう尋ねる。洋介が不審に思っていると感じると菜々美としてはすぐにでも行動を開始するなり、言い訳を言うなりしたいところだったが、体どころか緊張のあまり口さえまともに動いてくれない。結局菜々美に出来ることは目をパチクリさせながら慌てふためくだけだった。
「ああ、やっぱりリビングのがよかったか。それじゃリビング行こうか」
洋介は菜々美の態度から何かを悟ったのか突如部屋の扉を閉めて、再び下へ降りようと菜々美を先導する。洋介の部屋の扉が部屋が閉まると不思議に菜々美の体の緊張は緩和されていた。菜々美はようやく動かせるようになった体を叱咤し、洋介の後に続く。
(あーっ! もう、何で私はこんな大事な時にあんなことになっちゃってるのよ……)
階段を降りながら菜々美はいざ洋介の部屋に入る段になって緊張のあまり動けなくなった自分を呪った。夢にまで見たシチュエーションだったというのに自らそのシチュエーションを崩壊させたことに自己嫌悪に陥っていた。
それでもまだ汚名返上の機会は残されている。菜々美はこれからリビングでその失態を巻き返そうと息巻く。
「こっちがリビングな。それじゃ適当に座ってて。俺は何か飲み物でも持ってくるから」
「うん、わかった」
洋介は菜々美をリビングに通すと自らは飲み物を持ってくるべくリビングを出て行く。菜々美は洋介に言われたとおりにソファに座って洋介を待つ。
「さあ、これからどうしようかな……」
菜々美はソファに座ると辺りを見渡して作戦を練る。飲み物などすぐに持ってこれるだろうから猶予時間は少ない。
(ここはリビングだから洋介に直接繋がる要素は少ない。そうなると部屋を褒めるとかよりも今日の感想の方がいいかな)
菜々美はどうやって会話を盛り上げるかを考えていた。先程の失態のせいで微妙に二人の間の空気がぎこちなくなっている。やはり洋介の部屋に上がってみたいと思いはしても、覚悟がしっかり決まっていないと緊張に押し潰されてしまうようだ。菜々美は洋介の部屋に上がれるというイレギュラーの事態に簡単に飛びついた近い過去の自分を呪った。
(まあ、とりあえず部屋に入らなかったのは緊張しちゃったからって伝えないと。間違いなく洋介は誤解してるだろうし)
菜々美は冷静にまず自分が取るべき行動を計算する。恐らく誤解しているであろう洋介の考えを正しておかないと菜々美は洋介の部屋に上がれなくなってしまう。菜々美はそれだけは絶対に嫌であった。
(絶対に洋介、私が警戒して入らなかったって思ってるよ……)
もし洋介がそう思い込んだままであったら菜々美が洋介の部屋に入れるのは何時になることやらである。ただでさえ上がれるチャンスを逸してしまったのだから、せめてものフォローが必要であった。
菜々美がそう今後の方針を定めていると洋介がお盆を持ってリビングに入ってくる。お盆の上にはコップが二つ。中身はコーヒーであろう。横に置かれたミルクとガムシロップで分かる。
「お待たせ。これ菜々美の分ね」
洋介はお盆をソファの前にあるテーブルに置くと菜々美の前にコップとミルク、ガムシロップを置く。そして自らの前にもコップを置く。どうやら洋介はブラックで飲むらしくミルクもガムシロップも用意されていない。
「洋介はブラック派なんだ?」
「いや、特にそういうこだわりはないよ。今日は単にブラックで飲みたかったってだけ。そういや聞いてなかったけどコーヒーでよかったか?」
「うん。コーヒーでいいよ。ありがとう」
菜々美はそう言いながらミルクもガムシロップも入れる。とりあえず無難に会話を始められた菜々美は一先ず安堵しながらコーヒーを飲む。
だが問題はここからである。如何に自然に先程の状態の説明をして理解をしてもらうか。あまり深刻に話すと望ましくない方向に話が進みそうだし、軽すぎるとそれはそれで不満を感じさせるかもしれない。匙加減が重要であった。
「……ちょっとは落ち着いたか?」
「えっ?」
「さっき凄いガチガチになってたから」
まさか洋介の方からわざわざその話題を振ってくれるとはと菜々美は洋介の手を取ってお礼を言いたいぐらいだった。実際にそんなことはしないが、菜々美は有難くその話題を活用させて頂きますと心の中でお礼を述べる。
「うん……ごめんね、私凄い緊張しちゃって。それで固まっちゃった」
「俺もいきなりすぎたよな。ごめん」
「ううん、私だって洋介の部屋に上がりたいよ。だからまた今度そう誘ってほしいな」
「菜々美さえよければいつでもいいよ」
「ホント!? 今度は私も今日みたいにならないようにするから」
案外あっさり問題が解決したことに菜々美は拍子抜けした。だがそれでも話がこじれるよりは遥かにいいわけだから不満などない。精々振り絞った頭脳と勇気が思ったほど使われなかったぐらいである。ともかく望みどおりの結果に落ち着いたわけだから万々歳である。
(今度はとりあえず自分からお願いするようにしよう)
菜々美は次に洋介の部屋に上がる時には覚悟を決めるべく自分で日程を設定しようと考えて、思考を打ち切る。あとは洋介とのおしゃべりに興じたかった菜々美は余計なことは考えずに洋介の一言一句に集中する。洋介もまた菜々美が聞きたがることは惜しげなく話し、菜々美の話にも真剣に耳を傾けた。
こうして洋介と菜々美はデートの締め括りに歓談を楽しんでデートを終了したのだった。