第二十八章
菜々美が警察に連行されてから一ヶ月後、洋介と瞳は心おきなく交際を続けていた。もう菜々美の脅威に怯える必要はない。二人の交際は順調そのものだった。
二人で協力してきた菜々美対策のおかげからか二人の結びつきは非常に強くなっていた。吊り橋効果でもあったのだろうか、それとも幼馴染という関係からか二人の結束は固く、破綻の恐れなど全く感じさせない。
そして更に二人の付き合いを後押しするイベントが待っていることも要因としてあるだろう。高校生活の一大イベントである修学旅行である。恋人達としてはこのイベントを前に別れるなどという愚行は起こすわけもない。恋人のいる者は一生の思い出を、いない者はこれを足掛かりに恋人を作ろうと息巻く。勿論それは洋介と瞳も例外ではなかった。二人はまさに今、洋介の部屋にて自由行動の計画を練っている最中である。
「とりあえず班が一緒だから集団行動の時は問題ないな。後は自由行動か」
「そうね。一回きりのイベントなんだから漏れのないようにしないとね」
そう言うと瞳はガイドブックを広げる。二人並んでガイドブックを見ているため、お互いの距離はごく近い。それを二人とも意識してか顔がやや赤い。なんとも初々しい一面である。
「それにしても修学旅行が豪華客船での船旅になるなんて驚いたな」
「まあ、学校からしたらイメージ刷新に努めたいんじゃない? 小山田さんの件があるし」
「学校の財政は大丈夫なんだろうか……」
「……もしかしたら来年からは相当渋ったものになるかも」
二人は学校の財政を気にしながらもどうせならこの機会を楽しもうと思った。豪華客船などもう乗る機会はないかもしれない。これは菜々美の恐怖に耐えきった二人への褒美なのだと思いっきり満喫することを二人で決めたのだった。
待ち遠しい修学旅行当日はあっという間にやって来た。洋介と瞳ももちろん初めての豪華客船ということで興奮しきりだが、周りの生徒や中には一部の教師も明らかにテンションが上がっている。思わぬ海外旅行という僥倖に誰もが興奮していた。
一同は港に到着し、そこから豪華客船に乗り込む。港まで来る道中ももちろん興奮を隠しきれず、皆が皆はしゃいでいたのだが、豪華客船を実際に目の当たりにするとそのスケールの大きさにまたテンションが上がる。その有様はこのまま最後まで力が保つのかと注意したくなるぐらいの騒ぎ様である。
「……俺、こんな日が来るなんて想像もしなかった」
「私も絶対こんなのに縁なんかないって思ってた」
豪華客船を見る洋介と瞳は周りとは違ってその非現実的な光景に圧倒されていた。これは夢じゃないのかと信じられない様子である。だが、点呼をとって諸注意があった後、実際に乗り込むとその非現実が自らの手で触れるようになり実感をもたらす。
「……写真いっぱい撮っておこう」
洋介は使い捨てカメラの他に持ってきたデジカメを見て頼りにしてるぞとポンと叩く。何しろそうそう経験出来ない旅行である。まして船旅。期待は否応なく高まる。それは洋介だけでなく傍らの瞳も同じようでいつになくはしゃいだ様子を見せている。
「洋介、洋介! 今日の晩御飯バイキング形式だって。何が出るんだろう。楽しみだね」
「こんなに興奮してる瞳も随分久しぶりだな」
洋介はこんな表情見るのいつ以来だろうと目を細める。二人の記憶は中学校などの期間を隔ててのものなので何とも昔に感じる。中学校での修学旅行も二人の思い出など全くない。それだけに洋介は瞳と親しくなって初めての旅行ということで瞳の一挙一動をしっかり目に焼き付けようと思った。
「そういえば洋介と修学旅行で一緒に行動するのって初めてだもんね。……あーあ勿体無かったなあ」
「今回を大事に出来れば俺はそれで満足だよ」
「……そうだね。忘れられない思い出を作ろう?」
「ああ」
二人は過去の分まで楽しく素晴らしい思い出を作ろうと誓い合った。舞台はまるでそんな二人のためにもたらされたかのような豪華な旅行。まさにこれ以上ないシチュエーションだった。絶対いい旅になる。そんな予感がする修学旅行は今まさに始まったのだった。
楽しい時間は過ぎるのが早い。豪華客船の中で思い思いに時間を過ごした生徒達はあっという間に迎えた夕食の時間にまたテンションが上がる。バイキング形式で好きな物を思う存分食べることが出来るのも大きな要因である。一体どんな料理が出るのだろうか。生徒達はそんな期待を抱きながら皆、食堂へと向かっていく。その流れの中に洋介と瞳の姿もあった。
「船酔いとかもないし、まさに最高の状態で美食にありつけるな。本当に最高だ」
「あ、あまり食べ過ぎて体調崩すなんてことはやめてよ? 目的は食べることだけじゃないんだからね」
「わかってるって」
洋介は苦笑しながらそう返事をする。さすがにそこまで馬鹿ではないと思ってはいるが、本気で念を押す瞳の胸中を思うと了解したと言ってやらないといけない。だが、洋介としては半分ぐらいはそれを破る気でいる。美食を前にして控え目になど出来るかといった趣である。高級料理を味わうことなど平凡な庶民であるところの洋介には滅多に縁がないのだから無理はない。尤も注意を促している瞳も立派な庶民ではあるのだが。そこは自制心の差であろう。瞳は本懐を見失うことはない。
食堂に流れていく生徒達は皆足早に移動していく。洋介もそれに負けないよう急ぎたいのだが、連れの瞳の様子がおかしいことに気が付いた。何やら歩き辛そうにしており、速度は徐々に落ちていく。
「おい? どうした?」
「……船のせいか、ちょっとお腹の調子が悪いのよ……」
心配そうに見詰める洋介に瞳は恥ずかしそうにしてそう答える。食べ過ぎて腹を壊すなと言っている当人がこれでは話にならない。思わず洋介は呆れた顔で瞳を見てしまう。
「人にそんなこと言っといてお前がそれかよ……」
「じ、自分がこうなったから注意したんでしょ! そこら辺の心情をちゃんと酌んでよね」
「わかってるって。……それで大丈夫か? トイレ行くか?」
「ば、馬鹿っ! 女の子にそんなこと聞かないでよ!」
洋介のデリカシーのない言葉に瞳は憤る。確かに洋介の心配そうな気持は伝わっているが、そこで素直にトイレに行くなどと言えるわけがない。瞳は難儀な彼氏に呆れつつも、腹痛が辛くなってきたのかヨタヨタと進行方向と逆に歩き始める。
「ご、ごめん、さっきより酷くなってきた……ちょっと私、食事無理だわ」
「大丈夫か? 付き添うよ」
「……人の話聞いてた? 洋介付いてきちゃったら私楽になれないんだけど」
「そんなこと気にしてる場合じゃないだろ。途中で倒れたりしたらどうするんだ」
「……は、早く食堂行って……」
心配そうな洋介を瞳は遠ざけようと必死になる。その切羽詰まった様子はますます洋介を不安にさせる。二人の思惑はすれ違い続けていた。
「お、おい、大丈夫かよ!? 何か顔真っ青で体も震えてるじゃないか」
「も、もう限界なのよ! 早く行って!」
「く、苦しいのか!?」
「そ、そうだけど違うの……オ、オナラ出ちゃうから……早くここから離れて。お願いだから……」
これ以上ないほど苦しそうに、そして恥ずかしそうに瞳は洋介に切羽詰まった事情を伝える。こんなことを言わせる前になんで離れてくれなかったのかとその顔は不満そうな感情でも一杯だった。
ようやく瞳の意を察した洋介はこちらは逆に顔を真っ赤に染めて急いでそこから離れる。彼女の痴態を見たいという下衆な思いもあったが、それを実行して瞳に嫌われてしまったら本末転倒である。洋介は理性を総動員して足を動かす。そしてあっという間に洋介の姿は瞳の視界から消えた。
「や、やっと行ってくれた……ううぅぅ、早くトイレに行かないと……」
腹痛に苦しむ瞳はヨタヨタと歩き始める。既に周りには誰もいない。我先にと皆が皆食堂に移動したのだから当然だろう。そしてその状況は瞳にとって好都合だった。
「も、もしオナラしちゃってもとりあえずは大丈夫よね?」
出来るだけ堪えたいが、無理な時は仕方がない。そんな時に周りに人がいては困る。瞳は歩く先に誰も現れませんようにと祈りながら歩いて行く。
「あと少し……あと少し」
こんな姿を見られてはイメージ失墜もいいところである。早く個室に入ってしまいたいと思ったその矢先、瞳の前に人影が現れた。
その影を察知した瞳はなんて都合の悪いと思わず舌打ちをしてしまう。それもイメージ失墜ではないかと思うところだが、切羽詰まった瞳にはそんなことなど気にする暇はなかった。とにかく今はこの人影をやり過ごすことに集中しないといけない。
「……ふっ!」
瞳はこの場をやり過ごすため、なけなしの力を振り絞って平静を保つ。そしてすれ違うまでの辛抱と震える体を叱咤する。
だが、目の前の人影は一向に動く気配がない。不審に思った瞳はそれまで腹痛で相手が誰かなど確認も出来なかったが、ここで目線をようやく上げる。そしてその表情はそのまま凍りついた。
「……嘘、なんであなたがここにいるの……?」
「もちろん愛しの洋介を取り返しに来たのよ。……ああ、それと洋介と泥棒猫との間違った関係を壊しにも来たんだっけ」
瞳の視界に移った女子生徒は壊れたように笑う。その姿はあまりにも異常だった。いや、そもそもここに存在していること自体が異常だった。本来であれば警察の保護下に置かれている筈。だが確かに瞳の目の前には強盗未遂に脅迫などの所業を重ねた罪人、小山田菜々美が立っていた。
「ど、どうして……」
「そんなのここにいるってことは逃げてきたに決まってるでしょ?」
何を当たり前のことを言わんばかりに菜々美は呆れてみせる。そんな余裕そうな菜々美に対して瞳は絶体絶命の窮地に立たされていた。腹痛に苦しみ、満足に身動きも取れない今、襲われたら一溜まりもない。瞳は先手を打とうと大声を張り上げる。
「だ、誰かっ! ここに犯罪者がいるわ、早く助け……うぐぅっ!?」
だが、助けを求めた瞳の声は途中で途切れた。代わりに辺りにはビチャビチャと水音が響き始めた。瞳の喉から噴き出す血の雨が辺りに飛び散って凄惨な音楽を奏でる。そしてそこにすぐに大きな衝撃音が轟く。それは力を失い、その場に倒れ込んだ瞳の音だった。
「か、かはっ……」
「もうこれでムカつくその声も聞かなくて済むね。……って、うわっ! 汚っ!」
元々腹の調子を壊し、トイレに急いでいた瞳である。力を失った結果、その場に堪え切れなくなった奔流が噴き出す。菜々美はその惨状に急いでその場から逃げだす。
「最期の最期まで私をムカつかせるなんて……本当にヤな女」
憤慨しながら菜々美は堂々と船内を歩き始める。もはや失うもののない菜々美は実に大胆だった。返り血に濡れたその有様を見れば菜々美と気付かなくても誰もがヤバいとわかる格好である。即通報ものの状態である菜々美は目的であるところの洋介を目指して歩みを続ける。
「さーて、洋介は何処かなーっと……あれ?」
洋介を探して辺りをキョロキョロと見て廻る菜々美はその視界に気になる物を見つけた。それは万が一の事態に備えた救命ボートであった。普通ならばそこまで目につかない代物。だが、菜々美には不思議とそれが自分にとって非常に大事なものだと感じられた。
「……これで洋介を連れて……」
「おーい! 瞳ぃ、どこ行ったんだー?」
菜々美が何かに魅入られたようにそう呟いたその時、菜々美にとって目的の人物の声が響いてきた。菜々美はその声に反応して物陰に隠れてしまう。本当ならばすぐさま洋介の前に飛び出して抱きつきたいのにどうしてだろうと我ながら不思議がる。だが、隠れてしまった以上仕方ない。とりあえず様子を見ようと菜々美は物陰から洋介が来るのを待つ。
「本当にどこ行ったんだ、あいつ? つーか大丈夫かな?」
洋介は瞳の心配をしながら辺りを見て廻っている。その様子が菜々美をどうしようもなく苛立たせ、そして悲しませる。その心を自分だけで占めたい。そう願う菜々美はじっと洋介を見守る。
(どうしたら私が一番になれるんだろう? どうしたら……あっ!)
洋介の一番になりたい。瞳の存在など、いや瞳以外でも誰の存在も洋介の中に居座らせたくないと思った菜々美はその方策を一瞬の内に閃いた。それはちょうど洋介が救命ボートの前まで来た時だった。菜々美はその考えに魅入られたかのように行動を開始した。
「……洋介、一緒に行こ?」
「えっ? ……ぐあっ!?」
菜々美が取った行動は何とも無計画な体当たりだった。だが、それはまるで作られたお話かのように都合よく洋介を壁に突き飛ばし、その衝撃で洋介は気を失ってしまう。今なら全てが自分の思う通りに動く気がする。そう感じた菜々美は気を失った洋介を救命ボートに押し込み、自らもそれに乗り込む。
「えーと発進の仕方は……こうかな?」
どこをどうやったのか救命ボートはあっさりと夜の海に発進していく。大海原に放り出された二人を置いて豪華客船は何事もなかったかのように遠ざかっていく。まさに絶体絶命の状態である。だが、菜々美は何も慌てたりしない。
「大丈夫。今まで運命は私達の邪魔をしてきたんだもん。その分、今から補ってくれてるんだよ」
菜々美は気を失っている洋介の頭を膝枕しながらそう呟く。どう考えてもこのまま海の藻屑と消える運命しか待ち受けていない。だが、菜々美に絶望の感情など皆無だった。これからは二人だけの世界で生きる。そう決断し、行動を取った以上菜々美に恐れるものなど何もない。むしろ微笑みながら洋介の寝顔を見つめている。
「洋介……これから二人だけの世界が待ってるんだよ……楽しみだね」
洋介にそう囁きかけた菜々美は不意に強い眠気に襲われた。脱走に凶行と過激な行為を行ってきた菜々美はその間は感じていなかったが、極度の緊張に晒されていた。それが緩んだ今、どっと心身に疲れが押し寄せた。菜々美はもう自分の意思で目を開けてられないと徐々に瞳を閉じていく。
「……洋介……目が覚めたら……新しい世界が待ってるよ。そしたら……そこで末永くよろしくね……」
そこまで言うと菜々美はとうとう完全に目を閉じた。初めての洋介との添い寝にその表情はこれ以上ないほどの至福に満ちていたのだった。