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DESTROY  作者: 氷室
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第二十七章

 菜々美が学校に来ていない。その事実を知った洋介はもう嫌な予感で頭が一杯になっていた。教室を飛び出し、先程通って来た廊下を逆走する洋介にはもう授業をサボる罪悪感など感じる余裕もなかった。ただ出来ることは廊下を駆け抜けることのみ。

「あいつは絶対俺の家に向かってる。間違いない」

 洋介には菜々美の行動がはっきりわかっていた。タイミングからいって自宅へ襲来することは疑いない。問題はそのタイミングである。

(間に合うといいんだが……)

 洋介はとにかく一刻も早く家に帰って母に説明しようと更に速度を上げる。欠席してまで行動を起こす菜々美はもはや形振り構わないはず。これがまだ学校終了後というならそこにまだ理性を感じられるが、先走って行動を起こす状態はかなり危険だった。もう会うことすら危険である。家に上がるのを断ったら襲撃すらしかねない。菜々美はとにかく焦っているのである。その危険性を伝えたかった。もしかしたら学校をサボって帰ってきたことでこっぴどく説教を食らうかもしれないが、それすらもどうでもよかった。無事に相見えることさえ出来れば。

 急ぐ洋介は授業が始まっていることで無人の廊下を駆けていく。誰かと遭遇する可能性は限りなく低いため、角を曲がるにも速度は落とさない。洋介は滑って転ばないよう角の壁をしっかりと掴んで無理矢理体を方向転換させる。

「うおおぉぉぉぉおおおっ!」

 遠心力に抗う洋介は力強い咆哮を上げる。そしてまるで飛ぶように廊下の角を曲がる。しかし、それがいけなかった。スピード感溢れる身のこなしで廊下を曲がる洋介の眼前には一人の生徒がいた。

「ちょっ! 危なっ!」

「ええっ!? きゃああぁぁぁあああ!」

 凄惨な光景が廊下に広がった。飛ぶように角を曲がった洋介の目の前に現れた女子生徒は哀れにも火の出る勢いの体当たりを喰らい、弾き飛ばされていく。

 背中から廊下に倒れ、その勢いで廊下を滑っていく女子生徒。それも廊下に倒れ込んだ勢いで膝が顔に付くような体勢になってしまっている。何とも恥ずかしいおしめ替えスタイルだった。

 そんな哀れな格好で廊下を滑る女子生徒はしばらく廊下を背中で掃除していくと、勢いを失ってようやく止まった。ただ、上がってしまった足が顔の前を通り越して顔の横にくる姿勢になってしまっていたため、そのおしめ替えスタイルが解けない。どうやら完全にお尻が持ち上がってしまったようである。

「うわっ!? ちょっと大丈夫!?」

 ぶつかっていった当人の洋介は勢いを全部女子生徒に叩き込んだのか、何ともなかった。女子生徒の柔らかい体で衝撃を緩和した洋介は、悪いとは思いつつも不謹慎な喜びを感ぜずにはいられない。そのため表情は神妙でありながら、目元や口元が我慢出来なくプルプルと歓喜に震える。

 突き飛ばした女子生徒に駆け寄る洋介はそのあられもない姿勢を慮ってか、目を両手で覆っている。しかし、前が見えないと危険だからなのか、隠しきれないスケベ心からなのかその覆った手の隙間は普通に広い。もうそれは手で覆ってなくても一緒というぐらい広かった。

「大丈夫ですか?」

 突き飛ばした女子生徒の隣にまで来た洋介は覆っていた手を女子生徒の頭部に添えるため、目から離す。洋介はよく見えるようになった目でその女子生徒を見詰める。

「すみません、凄い急いでて。それで俺……って、あれ? ……瞳?」

「……これ謝ったぐらいじゃ済まないわよ」

 キョトンとした顔で驚く洋介を、突き飛ばされておしめ替えスタイルを余儀なくされた瞳は冷たい目で見詰める。純白の下着を惜し気もなく晒しているというのにその表情に羞恥の色はない。完全に怒りで感情が埋め尽くされていた。

「ご、ごめん! 本当にごめん!」

「……とりあえず私の体勢を元に戻してくれるかな? 勿論目を瞑ってね」

「イ、イエッサー!」

 指令を受けた洋介は忠実に従い、目をきつく瞑りながら瞳の足を下ろす。その目は先程の緩い目隠しとは違って完全に何も見えないように努め、足を戻すために差し出した手も目を瞑っているため手探りでいくが、絶対に変な所を触らないように徹底している。それほど瞳のオーラは洋介に恐怖を刻み込んでいた。

「こ、これで宜しいでしょうか? ……瞳さん?」

「……まあ、いいわ。許してあげる」

「さ、さすが瞳様。度量が広くておわす」

 過剰に謙る洋介は揉み手しながら瞳を称える。何とも哀れな小物に成り下がっていた。

 そんな下手に出る洋介を瞳は冷たい眼差しで見ながら、埃を払って立ち上がる。その際にも洋介は手を貸すことを忘れない。その辺りの心配りは完璧だった。これも二人の長年の関係がなせる業だろう。そこには瞳の気を引きたかった洋介の過去の努力が垣間見える。

「け、怪我とかはないか?」

「大丈夫よ。……まあ、強いて言えばあんな恥ずかしい格好をさせられて心が傷付いたぐらい?」

「ご、ごめんなさい!」

「冗談よ。それにどうせいずれ全部見せてあげるつもりだし」

「えっ?」

 瞳の口走ったちょっと危ない発言に洋介の顔が真っ赤に染まる。そんな洋介の様子を見て瞳は一矢報いたと満足そうな笑みを浮かべる。何とも小悪魔な女性であった。

「ぜ、全部って……」

「多分洋介の想像してるとおりよ」

「……」

「あれ? どうしたのかな?」

「もう勘弁して……鼻血出るから」

 あまりの恥ずかしさに洋介の方が完全に参ってしまったようである。顔をこれ以上ないぐらい真っ赤にした洋介はもはや瞳を直視することが出来ない。直視しようものなら勝手に目が瞳の制服の中身を描画してしまう。洋介は恥ずかしさのあまり後ろを向く。

「ごめんごめん。からかい過ぎちゃった」

「本当に勘弁してくれよ……」

 場の雰囲気が変わったからか洋介は何とか堪えて、瞳の方へ向き直る。だが、依然としてその顔は真っ赤である。

「初心ね。可愛い」

「もうね、本当にやめて」

「私の下着をガン見してた仕返しよ。……それで洋介はこんな所でなにしてるの? 教室行ったんじゃなかったの?」

 瞳は首を傾げながら洋介にそう問い掛ける。当然だろう。本当なら今頃教室で授業を受けている筈の洋介が廊下を物凄い勢いで走っているのである。不思議に思わないわけがない。

 洋介は瞳にそう尋ねられるとようやく自分のするべきことを思い出したようで、途端に焦り始める。

「そうだ! 俺、こんなことしてる場合じゃ……」

「……何かあったの?」

 瞳は洋介のその態度に何事か起こったなとすぐに悟った。表情を引き締めて洋介に事情を問う。

「教室に行ったら菜々美が欠席だって知ったんだ。それでこのタイミングであいつが欠席ってことは……」

「そうね。間違いなく洋介の家に向かってるわ」

 それだけで十分だと瞳は転がった鞄を拾って体の向きを洋介と同じ向きに変える。その行動は共に高梨家に向かうという意思を示していた。

「いいのか? もう遅刻届出しちゃったんだろ?」

「そんなのどうでにもなるわよ。それよりもおばさんが危ないわ」

「ああ、……そんじゃ行くか」

 洋介のその言葉を合図に二人は走り始める。下駄箱で靴を履き替え、昇降口を飛び出して校内から出る。辺りの様子を窺いながら慎重に脱出する二人だったが、仮に見つかったとしても構わず逃走したことだろう。それほど今の事態は切羽詰まっていた。

「どうか菜々美がまだ行動を開始していませんように……」

「そんなこと願ってても仕方ないわよ。それよりも早く帰るよ!」

「ああ、そうだな」

 二人は学校を出てから全速力で往来を駆けていく。制服姿の男女が学校にも行かずに走っている姿を見ればやはり訝しがる筈だが、誰も止める気配はない。いや、止める余地がないほど二人の走りは勢いが良かった。

 まるで弾丸のように駆け抜けていく二人だが、洋介には小さな不満が芽生え始めていた。

(瞳って足速っ! ついていくだけで精一杯だ。……情けねえな、俺)

 洋介をリードして先を走る瞳は男女の身体差を無視した速さだった。あまりの速さにヒラヒラと捲れるスカートを拝めるのは愉快そのものだったが、女の子の後塵を拝している現状は不愉快というか情けない。だが、どう足掻いても瞳には追いつけない。洋介は自らの身体能力が恨めしかった。

(とにかくついていくしかない。……置いてかれるのだけは避けないと)

 目標を瞳に置き去りにされないことと定めた洋介は無理をせずに今のペースを保つ。今はとにかく急ぐことと瞳を一人にしてしまわないことの二つをしないといけない。菜々美が今、どこにいるかわからないことも無視出来ない要因だった。

(もし、こうして走ってる最中に襲ってきたら……)

 考えられないことではない。今は洋介も瞳も菜々美が高梨家に向かっていると考えている。だが、それはあくまで予想であって本当にそこにいるかは定かでない。もしかしたら高梨家に向かう途中で近くを歩いているかもしれない。不安は尽きない。

(あっ、もしかして瞳がこんなに速く走ってるのは)

 洋介は瞳の走りの速さにもう一つの理由を見出した。それは途中で襲撃されるかも知れないと判断してのことかもしれない。これだけ全速力に近い速度で走っていればなかなか捕まえることなど出来ない。洋介は瞳に直接聞くわけではないが、きっとそうだと思った。

(だけどこのままだと家に着く頃には満身創痍だな……)

 洋介はそこが心配だった。疲れ切ったところに菜々美が襲撃してきては堪らない。それに慎重な行動が取りにくい。切れる息にふら付く足。どう考えてもいい状況は望めない。瞳はどう考えているのだろうかと洋介は気になった。

「ひ、瞳! このままだと家に着く頃には疲れ切っちまうぞ。どうするんだよ」

「何? もう疲れたの? 情けない……」

 瞳の見下すような言葉と視線が洋介に突き刺さる。そう言われてしまっては洋介もこれ以上瞳を諭すことなど出来ない。いや、むしろ洋介の方が瞳に唆されていた。

(ちょ、あいつ今情けないって言ったよ? なめられてるよ?)

 沸々と洋介に怒りが込み上げる。馬鹿にされたままで引っ込むわけにはいかない。そう思った時、洋介の目つきが明らかに変わった。

 全力疾走に疲れ、このままでは危ないと先のことを不安がった洋介はもはやそこにはいなかった。そこにいるのは瞳の言葉と態度に挑発された鬼神がいた。鬼神は徐に速度を上げ、これ見よがしに瞳の前へと出る。そして得意そうな顔で瞳の方を見る。

「ほら、早く行くぞ!」

「すぐ調子に乗るんだから……家に着いてからが本番なんだよ?」

「わかってるって。これぐらい軽い軽い」

「それならいいんだけどね」

 瞳は洋介に追い越されて後ろを走るものの、そこには悔しさなどなかった。ただ勝手に洋介が競っているだけである。そしてそれこそが瞳の狙いだった。洋介をダレさせることなく気合いを入れさせ続ける。色々思い悩みやすい洋介を操縦するのはなかなか骨が折れることだが、さすがに長い付き合いの瞳は見事に洋介を操縦してみせる。既に洋介は瞳の手の内で踊らされる様相を呈していた。

 依然として凄まじい速さで駆け続ける二人はあっという間に自宅近くにまでやって来る。そして家が近付くと二人は何も言わなくてもわかっているとばかりに二人して速度を落とし、注意深く辺りを見る。

「洋介……気を付けてね」

「お前もな。いつ菜々美が出てきてもおかしくないぞ」

 もしかしたら既に近くで様子を窺っているかもしれない。そんな気がするほど自宅の周辺は危険な雰囲気がプンプンしていた。角という角が怪しいし、電柱なんかも侮れない。ここにきて二人の移動速度は著しく減退した。

「とにかく角に差し掛かったら注意してね。いきなりグサッとなったら笑えないから」

「言われなくてもわかってるよ。俺だって命は惜しい」

 凶器が迫るという経験を味わっている洋介は無意識に慎重な行動を取っていた。無意識の内に忍び足になっている辺りはまるで隠密の如き注意深さだった。

 一方で瞳は洋介よりも過激な行動を取っていた。洋介は守り、もしくは避けるといった方向性であるのに対し、瞳のそれは迎撃の方向性だった。角に差し掛かると拳を構える。もし菜々美と遭遇したら一発お見舞いしてやろうというその意気込みは実に勇ましかった。

 しかし、二人のそんな心構えも無駄だったようで何事もなく二人は高梨家に到着してしまう。あまりにあっさり目的地に辿り着いた二人は些か呆気に取られた様子で高梨家のドアを見詰める。

「……もしかしたら考えすぎだったかな?」

 洋介は頬をポリポリと掻きながら苦笑する。あまりの平穏ぶりに一度引き締めた気合いが一気に萎んでいく。とりあえず何事もなくてよかった。そんな安堵が洋介に込み上げるものの、瞳はそうではなかった。まだ安心出来ないと警戒態勢を緩めることはない。

「まだ家の中を見たわけじゃないでしょ? こっそり侵入してるかもしれない」

「それはないって。ほら鍵掛かってるし」

「侵入してから掛けたのかもしれない」

「考えすぎだって……」

 洋介がそう言おうとしたその瞬間、家の中から物音が聞こえてくる。楽観視していた洋介はその音に激しく驚く。

「い、今何か音がしたぞ」

「だから言ったでしょ。これは絶対いるわ」

「あっ、違うわ。多分母さんだよ」

「洋介のお母さんって家にいる時鍵なんか掛けるっけ?」

 あくまで希望的観測を消そうとしない洋介に瞳はあえて不安な予想をぶつける。そうでもしないと洋介は現実から逃避しようとする。と言うよりも自説を盲目的に信じていた。

「……いいわ。とにかく入るわよ」

「ああ、それじゃ鍵を開けてと」

「ゆっくり静かにね」

 瞳は鍵を開けようとする洋介にそう注意を促すと自らは携帯電話を手に持ち、いつでも警察に電話が出来るように備えておく。これでいざとなれ脅してやればいい。だが、不安も残る。あえて不法侵入なぞを断行してみせる相手に警察などが有利な武器になり得るだろうかということである。構わず暴行に及びそうで怖い。瞳は不安を拭い去ることが出来ない。

「よし、開いた」

 それに比べて洋介は気楽なものである。出たとこ勝負で先の見通しなど何も持っていないのであろう。何とも不安たっぷりな人材であった。

 今現在洋介は家の中にいるのは母親だと考えて行動しているため、その挙動は実に大胆だった。思い込みとはかくも強いものか、瞳は洋介を見てそう思わざるを得ない。自分なぞは家の中にいる菜々美を想像すると家の中に入るのが不安である。そういった点ではすぐに中に入ろうとする洋介は頼りになる存在だった。

「絶対家の中にいるのは母さんだって……ほらあそこにい……る?」

「……おばさんってあんなに若くて……頭イカレてたっけ?」

「……いや」

 家の中に入るなり廊下で見かけた人影は二人を脱力させた。洋介の楽観にも瞳の注意深い考えにもどちらにも合致しない状況。それが目の前に広がっていた。

 まず、家の中にいたのは菜々美だった。その点では洋介の考えは外れ、瞳の予測が正しかった。

 しかし、その状況は瞳のそれには当てはまらない。あまりにも間の抜けた状況が二人の危機感を霧散させる。

「まだ安心は出来ないんだろうけど何でだろう、力が抜けるわ」

「俺も同感だ……」

 玄関で脱力する二人はもう慎重に行動する気も失せていた。それだけ目の前の菜々美の有様は酷かった。

 頭には洋介のトランクスを被り、上半身は裸。そして下半身にはやはり洋介のトランクスを身に纏うという見るからに変態ですと強調している姿だった。

「おい……」

 菜々美のあまりの自由っぷりに我慢出来なくなった洋介は低い声で菜々美に声をかける。洋介としては脱力のあまり低い声となったのだが、その声が耳に入った菜々美は一瞬の驚きの後、咎められたかのような怯え方で洋介の方を見る。

「えっ? あれれ? 洋介がどうしてここに……」

「お前が欠席だって知ったら嫌な予感がプンプンしたからな」

 尤も証拠物件を回収されるかもという予感はしたが、こんな予感はしなかったと目の前の菜々美の姿を見て洋介は嘆息する。もうあまりの脱力感に上半身を惜し気もなく晒している菜々美を見ても何とも思わない。洋介はムードって大事だなと身をもって知ったのだった。

 そんな脱力感から落ち着き払った洋介とは逆に菜々美は悪さの現場を見られてしまったのだから堪らない。わかりやすいぐらい狼狽し始める菜々美はどうしよう、どうしようと目線を慌ただしく動かしながら必死に打開策を見出そうとしている。

「あ、あのね……これには深いわけがあって……」

「不法侵入に深いわけがあるのか?」

「えっとね……」

「そういや母さんはどうした?」

「さ、さっき出掛けてったよ」

「ふーん、とりあえずそれは良かった。……それでお前は本当は何しに来たの?」

「そ、それは……」

「どうせ証拠物件回収に来たんだろ? それも全然深いわけじゃないしな」

 洋介は必死に取り繕う菜々美に対して冷静に不法侵入の目的を指摘する。完全に動機を悟られている菜々美はただただ迷い、活路を探している。

 洋介は菜々美の開き直りによる暴走にだけ気を付けて菜々美の行動を見張る。対策はきっちりとしていた。

「うううぅぅぅぅうう……」

「もうお前に勝ち目はないから。だから大人しくしろ……ってどこいくんだよ!?」

 穏便に事を進めようとする洋介は突如菜々美が起こした行動に驚かされる。窮地に陥った菜々美は唸り声を上げるとそのまま駆けだしたのだった。玄関側には洋介と瞳がいるため塞がっている。そうなると逃げ場はリビングを突っ切って窓から逃亡というのが唯一の退路なのだが、何と菜々美は二階へと駆け上っていく。全く意味のわからない行動だった。

「あいつ、何がしたいんだよ。二階に行っても逃げ場なんかないのに」

 哀れそうに菜々美の行動を見守る洋介は先程から静かにしている傍らの瞳の方へ視線を移す。だが、そこには瞳の姿はなかった。

「瞳?」

 どうせ菜々美は自ら袋小路に飛び込んだから何も出来ないと判断した洋介は姿を消した瞳を探し始める。

「少なくとも俺の視界には入らなかったから……」

 状況を整理した洋介はここしかないと玄関のドアを開け、外に出る。するとそこには携帯電話で通話している瞳の姿があった。洋介が外に出るとほぼ同時に通話が終了したのかすぐに瞳は携帯電話をしまう。

「おい、誰に電話してたんだ?」

 洋介は当然のようにそう尋ねる。先程までこっちは何を仕出かすかわからない菜々美と対峙してたんだぞと洋介はやや不満そうな表情である。

 洋介のその質問に対し、瞳はごめんといった具合に頭を軽く下げて、理由を話しだす。

「警察に通報してたのよ。だって明らかに不法侵入だし」

 しれっとそう言う瞳はこれで菜々美の脅威は終わりと言わんばかりの笑顔である。一度警察のお世話になればいくら菜々美でも行動を自重するだろう。それを考えると洋介も成程と同じく顔が晴れやかになる。

「それもそうだな。菜々美はどうせ俺の部屋で籠城してるだろうし。これで逃げられないだろ」

 それでも突然飛び出してくるかもしれないと玄関には注意を払う洋介。瞳もそこには懸念があるようでこれが最後の警戒とリビングの窓に厳しい監視の目を向ける。警察が来るまでは自分達で身を守るしかない。そうなると洋介も瞳もその視線と注意を一点に集中させてしまう。しかし、菜々美はそのどちらからも出てこなかった。

「……」

 洋介と瞳を嘲笑うかのように二階の洋介の部屋から姿を現す菜々美。小さな窓のため足から外に出し、その後に体を通して、頭を潜らせる。まさか二階から出てきはしないだろうと判断した二人の盲点を突いた菜々美の脱出だった。

 リビングの逆側に面している洋介の部屋の窓は誰の監視もない。その点では菜々美の策は当たりだった。しかし、菜々美は大事な点を見落としていた。

「ここからどうしよう……」

 身体を窓の外に出した菜々美は今現在窓枠を掴んでぶら下がっている状態である。帰って来る筈のない洋介が現れたことで気が動転してしまった菜々美は正常な思考回路を失っていた。尤もこれまでもだいぶ正常な思考ではなかったが。

 その結果菜々美が出した結論は脱出というものだったが、そこに余分な証拠物件の回収という過程を含んでしまったがために菜々美は二階へと向かってしまった。元々今回の高梨家潜入の目的は証拠物件の回収である。それを忠実に実行してしまったために起きた誤算であった。菜々美は回収の任務は成功したものの、肝心な逃亡という過程が頓挫するという事態に陥ってしまった。状況は最悪である。

「ここから飛び降りたら……でも二階ぐらいなら平気かな?」

 菜々美はそう呟きながら下を見る。決して不可能な高さではない。それでも着地したら相当な衝撃と痛みがありそうな高さでもある。それに菜々美は今、通学鞄を肩に提げ、身動きが取りにくい状態にある。更に何よりも問題なのは裸足ということである。風呂上りで家の中を歩いている時に洋介と遭遇したために靴下すら履いていない。上半身には急いで羽織った洋介のシャツ、そして下半身は相も変わらず洋介のトランクスというちょっと外を出歩けない格好であることも逃亡を困難にしている。菜々美は八方塞がりであった。

「そ、そろそろ腕が限界に……って何か聞こえてくる……」

 菜々美は近くに迫って来る音に耳を澄ます。その音は聞いた者に緊張と不安を与えるものだった。特に疚しいところのある人間には余計に不安を与える音。それはパトカーのサイレンだった。その近付いてくるサイレンを聞きとった菜々美は目に見えてうろたえ始める。

「ヤ、ヤバいよ、これ。早く逃げないと……」

 焦る菜々美は高所にいるためいち早くサイレンの音の出所を見つけてしまう。どう見てもパトカーはこの家に向かっていた。もう菜々美の不法侵入を通報されたと誰が見てもわかった。菜々美は決断を迫られていた。

「……やるか」

 男らしく決断を下した菜々美は躊躇する素振りも見せずに握っていた窓の枠を離す。その瞬間、菜々美の身体は急降下を始める。

「きゃああぁぁぁぁああっ!」

 あまりの恐怖に絶叫の雄叫びを上げる菜々美。その可愛らしい絶叫はしかし、ここでは決して上げてはならない声だった。すぐに洋介と瞳はその絶叫を聞き付け、その場へと向かう。

 そして彼らが行動を取ろうとしたその時、菜々美は地面に着地していた。

「痛い……痛いよぉ……」

 裸足で足から着地した菜々美は激痛に悶え苦しむ。体が汚れるのも気にせず地面でのた打ち回る菜々美はもうこれで逃亡出来る可能性をなくした。足を押さえ、痛みを和らげようと努力する菜々美の元へすぐに洋介と瞳が駆け付けた。

「二階から飛び降りたの!? 馬鹿じゃないの?」

 瞳は呆れたとばかりに口を半開きにしている。洋介に至ってはもう何も口に出来ない。全く想像もしていなかった菜々美の行動にただただ驚くだけである。

 そしてその現場に更に駆けつける者の姿があった。サイレンを鳴らして、高梨家にまでやって来たパトカーから警官が降りてきたのである。

「強盗の通報があったのはここで間違いないですか?」

 警官は人の姿を見つけるとすぐに洋介達の元へとやって来る。そして洋介と瞳が視線を向ける先を見て困惑をし始める。

「あ、あの……強盗が入ったって聞いたんだけど……」

「ええ、あの子です。鞄を見てみてください。凶器を隠し持ってますから」

 瞳の言葉に警官は胡散臭そうな眼を向ける。当然であろう。瞳が視線を向けている先には無害そうな美少女が横たわっているのである。ただその格好はシャツに男物のトランクスという変わったものであったが、危険そうな雰囲気はない。

 だが、それでも通報を受けて駆け付けた以上、そのままにして帰るわけにはいかない。調べてみて問題がないなら、悪戯は止めなさいと指摘すればいい話である。警官はやれやれといった様子で菜々美に近付く。

「ちょっとごめんね。調べさせてもらうよ」

「あっ! ダメ!」

「特に怪しい物は……普通にあるな……」

 止めようとする菜々美の手を掻い潜って鞄の中身を調べた警官は予想外の展開に我を疑う。鞄の中からカッターはともかくナイフが出てきてしまっては無視出来ない。警官は途端に菜々美に厳しい目を向ける。

「これは一体どういうことかな?」

「え、えっと……」

「不法侵入に凶器所持。しかも家の人に遭遇しちゃったらもう……」

 暗に強盗と思っても無理ないよねと指摘する警官に菜々美はガタガタと震え始める。このままじゃ犯罪者のレッテルを貼られ、洋介の近くに寄ることも規制されかねない。それだけは絶対に嫌だった。菜々美は必死に動かせない体を動かそうと努力を始める。しかし、そんな行動を警官が見逃すわけもなかった。

「はい、無駄なことはしない。……それじゃゆっくり署で事情を聞こうか」

「ちょ、ちょっと触らないでよ! 私に触ってもいいのは洋介だけなんだから!」

「はいはい、わかったから。それじゃ自分で歩こうね」

「嫌よ! 警察なんか行かない」

「はあ……それじゃ触るしかないな」

「や、止めてよ! 洋介、助けて! 洋介えぇぇぇっ!」

 洋介に助けを求めながら菜々美は警官に連行されていく。その姿は哀れみを誘うものの、洋介には届かない。むしろ洋介は脅威が去ったと胸を撫で下ろしていた。

「これで……身の危険は去ったかな?」

「うん、それにちょっと足の具合もおかしそうだったし」

「捻挫でもしたかな」

「それも結構重そうね。あれじゃ当分身動きも不自由でしょうね」

 これで菜々美は身体的にも状況的にも洋介に付きまとうことが出来なくなった。恐らくこの事件で学校も退学になるだろう。そう判断した洋介と瞳はやっと平穏な日常が戻ってくると心の緊張を解いた。

「はあ……何か力が抜けた。もう何もする気にならない」

「私も……今はもうただ休みたいわ」

「……でもこれでやっと瞳と恋人らしく出来そうだな」

「……うん。何の気兼ねもなくね」

 そう言うと二人は顔を赤らめながら微笑む。どれだけイチャつこうと菜々美の脅威を恐れることはない。それは二人にとってこれ以上ない幸せだった。まだまだ付き合いたてで色々したいことがある。洋介と瞳はお互いにそう思いながら見つめ合う。

 今日この時危機は去り、洋介と瞳の付き合いがしがらみから解放されたのだった。


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