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DESTROY  作者: 氷室
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第二十六章

「はあはあ……洋介、洋介」

 授業時間帯の街中を菜々美は駆けていた。身には学生服を纏い、通学鞄を持つという明らかに登校途中の格好だが、向かう先は完全に学校の方面ではない。

「今日しかない……そうじゃないと……」

 菜々美は何やらぶつぶつと呟きながら走っている。スカートが翻ってしまうことも気にせず走る姿は非常に男の目を引くのだが、その異様に怪しい呟きと笑みに周りは露骨に目線を逸らす。今の菜々美は何か触れてはいけない存在だと周りに意識されていた。

 そのせいだろうか菜々美は警官やお節介な近隣住民に呼び止められることもなく走り続ける。そして気が付けば辿り着いた場所は高梨家の見える角であった。菜々美はそこに身を隠し、頭だけを角から出して高梨家の様子を窺う。

「もう洋介はいないよね……他にはいるかなあ」

 菜々美はそう呟きながら高梨家の様子を探るものの、所詮そのような遠目からでは家の中の様子を知ることなど出来ない。菜々美は焦れるように地団駄を踏む。

「何としても証拠物件を回収しないと」

 菜々美の狙いは洋介を脅す際に使用した凶器の回収であった。屋上で奪われた時はあまりの激痛と洋介から与えられた痛みという至福のあまり身動きが取れなかった。そのため洋介の逃亡を許してしまったが、それをそのまま放っておくのは危険だった。

「今、私がこうして無事にいられるってことはまだ洋介は通報とかしてないってことだよね……そうなると今しかない」

 菜々美は何かに怯えるように身を震わせると、両腕で自らの身を抱く。

「そ、そうしないと……私、洋介に会えなくなっちゃう」

 菜々美はその最悪な未来を想像するともう止められなかった。意を決した菜々美は角から身を出してそのまま高梨家前の道路を堂々と突き進む。

「もうこうなったら誰かいようと関係ない……邪魔するならこれで……」

 目の据わった菜々美は懐からナイフを取り出す。そしてその刃を出して首を掻っ切るかのような身振りをする。実に物騒な女子高生だった。

 このような危険人物が近くにいるとは露知らず、周りの住宅は閑静なものである。ごく普通の日常を謳歌し、思い思いに午前中を過ごしている。そしてそれは高梨家も変わりないはずだった。

 しかし今、高梨家には危機が迫っている。殺傷沙汰も辞さない覚悟の菜々美が一歩一歩その距離を詰めている。ナイフは巧妙に後ろ手に隠して油断の気配など微塵も見せない。

(インターホンを鳴らしたら、多分洋介のお母さんが出てくるからまずは普通に会話。それで駄目ならナイフで……)

 頭の中で段取りをシミュレートしている菜々美はもう犯罪者の雰囲気を隠すこともなく醸し出していた。そんな濁った眼では誰が応対しても家になど上げないだろう。もうこの時点で最悪な事態しか起こり得なかった。

「あと、少し……」

 もうあと数歩で高梨家である。菜々美は一つ深呼吸をして準備を整える。

「すーはー……」

 準備万端。いざ討ち入り。

 しかし、天は菜々美に背いた。深呼吸をする菜々美の前に突如現れた人影。菜々美の深呼吸は停止した。

「いっけない! 出遅れたわ。折角のバーゲンなのになんて失態。今から取り返さなくちゃ!」

 高梨家から飛び出した人影は洋介の母だった。化粧をしたりしてすっかりめかし込んだ格好である。菜々美や瞳とは違った大人の色気を意識したその出で立ちは美女と言って差し支えないものだった。

「早く駅に行かないと、乗り遅れちゃう」

 母は魂を飛ばして呆然としている菜々美の横をすり抜けて急いで駆けていく。目的に目を奪われた母にはどうやら家の近くで呆然と佇む怪しい少女など目に入らないようだった。

「……今のって洋介のお母さんだよね? 新しい敵とかじゃないよね?」

 ようやく意識が帰って来た菜々美からまず出た言葉はそれだった。今の菜々美にはとにかく綺麗な女性は全て洋介を奪いかねない敵である。ましてそれが洋介の家から出てきたとあっては見過ごせない。

「まあ、今のところはどうでもいいか。それよりも洋介の家は……」

 硬直から解放された菜々美は恐る恐る高梨家を覗き込む。どうやら無人のようである。やはりさっきのは洋介の母だったのだろうと菜々美は確信した。

「どっかから入れないかな?」

 菜々美は侵入口を確保しようと辺りを探る。窓や塀などを見るものの、どうやら窓は開いてない上に塀などを使って二階に侵入というのも出来なさそうである。

「どうやって入ろう……あまり目立つと見つかりそうだし」

 菜々美は辺りを見回す。高梨家の傍には非常に近い距離に隣家がある。それこそ互いの家から向かいの家が丸見えなぐらいに。それこそが菜々美の目下の敵である瞳の家だった。この非常に地理的にも感情的にも鬱陶しい隣家に菜々美は苛立ちを隠せない。

「あの女はどこまで私の邪魔を……っていうか洋介の部屋からあの女の家が丸見えじゃない。絶対誘惑とかしてるよ、あの女狐」

 菜々美はぎりぎりと歯軋りをしながら血走った眼で河野家を睨みつける。出来るものなら今すぐにこの目障りな家を焼いてしまいたいぐらいだったが、それをやっては高梨家にまで被害が及びかねない。菜々美はそこを考慮して特別に恩赦をしてやった。

「ピッキングなんか出来ないしなあ……鍵が開いてればいいのに」

 菜々美はそんな都合よく鍵が開いてるわけないよねと諦めの表情ながらも玄関のドアノブを回す。すると簡単にそれは回り、ドアが開いてしまう。このあまりに予想外な事態に菜々美は呆然と口を半開きにしたまま、その場で硬直する。

「開いちゃった……」

 この都合のよすぎる展開に菜々美は罠を疑うものの、だからといって回避するにはあまりに惜しい。菜々美は虎穴に入るべきか退くべきかで板挟みになってしまった。

「多分さっきの洋介のお母さんらしき人が慌てて飛び出して鍵を閉め忘れたんだと思うけど……」

 多分そうだろうと思っても躊躇してしまう。菜々美はなかなか次の行動が取れない。だが、それでもナイフは不要だろうと刃を閉まってポケットの中に突っ込む。そしてその動作と同時にまたしても不意の出来事が菜々美を襲った。

「ふんふ〜ん……」

「ひっ!?」

 突如、隣家から聞こえてきたドアの開く音とご機嫌な鼻歌。その主は瞳の母によるものだった。こちらもめかし込んだ格好で出掛けようとしている辺り、恐らく目的は洋介の母と同じだろう。だが、こちらは慌てることなく玄関をしっかり閉めた後で施錠も抜かりはない。そしてあろうことか何故か左右確認。これが菜々美に決断を促させた。

「いけないっ!」

 この危機に菜々美は急いで高梨家に侵入し、ドアを閉める。そして高梨家に潜り込んだ菜々美は息を殺して辺りの音を聞く姿勢を見せる。

「ば、バレてないよね?」

 いくらそう言っても自分で確認することは出来ない。これで河野母が何事もなく出掛けてくれればいいのだが、そこまではわからない。菜々美は音による確認が無理と判断するとすぐに鍵を掛けて、家の奥に移動する。後は窓などの外から見える所を避けて待機する。菜々美はもう心臓が死ぬかと思うほど拍動していた。

「何も起きない、何も起きない、何も起きない……」

 菜々美はまるで呪文を唱えるかのようにそう自分に言い聞かせる。その顔は気の毒なほど青ざめてしまっていた。とても先程まで人を斬りつけても構わないと心に決めた人物とは思えない。刃物をしまい、一度緩んでしまった決意はもう締め直せないようである。

「……もう大丈夫かな?」

 しばらく息を殺して身を潜めていた菜々美はその沈黙を解くと、ゆっくりと窓際に移動する。

 カーテンを壁にして外を窺う菜々美だったが、そこには誰もおらず、何事も起こってはいなかった。それを確認すると菜々美は一つ深く息をつき、安堵の心地に浸る。

「とりあえずこれで一安心……なんだかんだで最適な展開になってきたなあ」

 確かに誰にも気付かれずに高梨家に侵入出来れば最高とは思っていたが、こうも順調に事が運ぶとかえって不安になるものである。だが、菜々美はその不安を振り切って高梨家の散策を開始する。

「まずはこれだけはやっておかないと」

 そう言うと菜々美は急いで二階へと上がり、一目散に洋介の部屋に突入する。

「証拠物件、証拠物件と……」

 洋介の部屋に入るなり菜々美は物色を開始する。まずは部屋をざっと見渡し、目的の物を捜索する。

「まあ、さすがにそんなわかりやすく置いてないね。親に見つかったら面倒だろうし」

 菜々美は大雑把な捜索を打ち切ると、次にがさ入れを始める。まずは洋介の机の上を確認し始める。

「ちょっと失礼しますよ〜。……あっ、これって……」

 洋介の机の上を調べている菜々美はある物を発見するとそれに目を奪われ、行動を一時休止してしまう。

 菜々美が机の上で発見し、今手に持ったその物体は洋介が使用しているであろうリップクリームだった。

 菜々美は徐にリップクリームの蓋を外し、底の部分を回してリップクリームを外に出し始める。

「こ、これを洋介はいつも口に付けて……ごくっ」

 今にも涎を垂らしそうな状態になっている菜々美はもうリップクリームに目が釘付けであった。証拠物件探しなぞ既にどこかへと置き去りになってしまっていた。これより菜々美の目的は洋介の私物チェックである。その第一弾として菜々美はリップクリームを綿密に調査し始める。

「つ、使い心地を確かめてみようかなあ」

 ちょっとどんなものかと試すような口ぶりをしながらも、菜々美のその眼は血走っていた。もうそれ以外目に入らないといった具合の集中の仕方である。

「こ、ここに洋介の唾液やら何やらが……はあはあ」

 荒い息をリップクリームに浴びせかけている菜々美。その様はどこから見ても変態以外の何物でもなかった。若く麗しい女子高生がそれをやっているからまだ見ていられるものの、男がやっていようものなら問答無用で通報モノである。

 だが、菜々美の挙動はその域で留まりはしない。更にリップクリームを口に近付けると舌を出して軽くペロリと一舐めする。かなり間違った使用法ではあるが、当の本人の満足具合は相当なようで、満面のそれでいて爛れた笑みが顔中に広がっていた。

「よ、洋介の唾液が私の中に入ってきた! それで次はこれを使った洋介の中に私の唾液がは、入る……ごくっ」

 完全に爛れきった菜々美は倒錯した喜びにうち震えていた。もう何の躊躇もなく洋介のリップクリームを舐め回す。そのおかげで洋介のリップクリームはすっかり菜々美の唾液にコーティングされてしまっていた。その成果を見て菜々美は満足げにしている。

「これで一つ洋介の持ち物が私色に染まったわ。……さて次はと」

 一仕事終えた菜々美は次なる獲物を物色し始める。既にこの部屋に侵入した目的を見失っているようで洋介の持つ脅迫証拠物件なぞは全く眼中になくなっていた。

 菜々美は目を光らせながら洋介の部屋を念入りに調べ始める。

「い、異性の部屋に入ったらまずこれが定番だよね」

 顔を赤くし、どもりながら菜々美が向かった先は洋介の衣服が収納されているタンスだった。ここには洋介の肌に密着した、菜々美にとって垂涎の品がしまわれている。実に調べ甲斐のある場所である。

「……実に興味深い」

 菜々美は躊躇なく人様のタンスを開けていく。一番上の引き出しを開けた菜々美の視界にはTシャツなどの上着類が入ってきた。

「ふむふむ……黒色が多いね。洋介の好みは暗い色かな」

 引出しの中を端から端まで調査して洋介の好みを網羅していく菜々美。その熱の入り様は凄まじかった。色から柄、丈などを調べて好みを正確に把握していく。これはプレゼント攻勢に使えると踏んでの行動だろう。使えるものは何でも使うその心意気は本気そのものだった。

「さて、次の引き出しにいこうかな」

 一段目を堪能した菜々美は悠々と二段目に移る。洋介の母はともかく洋介が帰ってくるにはまだまだたっぷり時間があると想定しての行動だった。それに母の方もせっかくめかし込んでショッピングに出掛けたのだからそうすぐには帰ってこないだろう。菜々美の計算はよく条件やら心理を踏まえていた。

「二段目には何があるかなあ」

 菜々美は二段目の引き出しを開けて、中を覗き込む。そこにあったのはジーンズやジャージなどのズボン類だった。菜々美はそれらを逐一手に取っては眺めて悦に入る。

「これどれぐらい履いてるのかあ……くんくん」

 突如ジーンズを手に取って顔に近づける菜々美。そしてその行動は匂いを嗅ぐという行為にエスカレートした。菜々美はまるでワインの香りを楽しむ通のように目を閉じながら優雅にジーンズの香りを楽しんでいる。

「……ちょっと男くさい匂いがするけどほとんど無臭……」

 期待していたほどのものではなかったのか、菜々美の表情は残念そうに歪む。そうなると菜々美の興味は消え失せ、洋介の好みをチェックするだけで二段目は終わらせた。

「次のは……小さい引き出しが二つ並んでる」

 タンスの三段目はやや小さい引出しが二つ並んだ格好になっていた。恐らく靴下やハンカチなど小物を収納する専用のものだろう。菜々美がまず片方を開けると予想通りそこからは靴下やハンカチ、タオルなどが覗いていた。

「靴下は短めのが多くて、色はそこまで拘りはないのかな。バラバラだね。ハンカチも特に拘りはなしと」

 本来であれば靴下の匂いを嗅ぐという暴挙に及ぶであろう菜々美だったが、先程のジーンズで悟ったのか洗濯済み衣類は洗剤やら柔軟剤のせいで洋介の匂いが消えてしまうと判断してそういった行動は取らなかった。あくまで好みの調査に留める。

 だが、菜々美のその冷静な判断も隣の引き出しを開けた瞬間あっさりと崩れ去る。隣の引き出しに入っていたのは洋介の下着類だった。この刺激の強い品々にはさすがの菜々美も顔を一気に紅潮させる。

「こ、これって洋介のパンツ!? そうだよね、間違いないよね!?」

 異様にテンションの上がる菜々美。目の前には菜々美にとってのお宝があるのだから無理もない。もう菜々美は冷静に好みの調査などしていられなかった。次から次へと下着を取り出してはそれを抱き締めたり、匂いを嗅いだりと欲望を容赦なくぶつける。挙句の果てには頭に被ってしまうという暴挙に及んだ。もう行動だけでなく見た目も完全無欠の変態であった。

「い、一枚ぐらい持って帰っても平気だよね?」

 更に菜々美は引き出しの中から一枚下着を手に取るとそれをそのまま履いてしまう。鞄にしまうのではなく身に付けてしまう辺りが菜々美の真骨頂だった。洋介の下着と密着した菜々美は満足げな顔で次の引き出しに移る。そこには段が低くなり取り辛い場所のためか季節に適さない衣服類がしまわれていた。防虫剤が入っているためか洋介の匂いが消えているどころか嫌な匂いがしてくる。菜々美はすぐにその段は戻してしまう。

「まあ、とりあえずこんな感じでいいかな。まだやらなくちゃいけないことあるし」

 衣服調査を終了した菜々美はここでようやく本来の目的に移る。洋介に回収された凶器類を奪還することである。恐らく厳重に保管されているだろう。さすがにあんな物を持って外には出られない。見つかれば厄介なことになるからである。そこまで読んだ菜々美は絶対にここにあると確信していた。

「まあ、探しながら洋介の部屋も色々チェック出来るし一石二鳥だよね」

 愛しの洋介の部屋にいるということでご機嫌な菜々美はむしろすぐには見つからないことを願った。それだけ見る場所、時間が増えるからである。尤も見つかったところで結局がさ入れは続行するのだろうが。

 いよいよ本格的に捜索に入る菜々美はまず洋介のベッドに近付く。こういう見られたくないものを隠す時には相手の性質を考えないといけない。思春期の男子である洋介が相手ということで菜々美は絶対ここだと確信していた。思春期の男子の見られたくない物を隠す所といえばここが相場である。

「ついでに如何わしい本が見つかったりしたら……後学のために参照しておこう」

 そんな思惑も含んだベッド下の捜索だったが、結果は芳しくはなかった。証拠物件も見つからず、如何わしい類の本も見つからなかった。どうやら洋介は裏を掻いて一般例から離れたようである。その念の入りように菜々美は苛立つどころか楽しそうにしている。狩りがすぐ終わってはつまらないと言わんばかりに菜々美は肉食獣のような鋭い目つきをしていた。

「面白くなってきたわ。絶対に見つけてあげるんだから」

 気合いの入った菜々美は徹底的に部屋を捜索する。その力の入り様は相当なものだったが、それでいて怪しい痕跡は残さないよう片付けもしっかりしている。その大胆且つ繊細な行動は菜々美の本気具合を雄弁に語っていた。

 しかし、気合が入れば入るほど疲労も甚だしい。何より成果がなかなか見えてこないという現実は精神的疲労を徐々に蓄積していく。ベッド、机、タンスなど洋介の部屋にある様々な家具を調べてきた菜々美の行動を嘲笑うかのように証拠物件は見つからない。菜々美はいよいよ心身ともに疲れてきていた。

「あー、もう! 全然見つからないじゃない!」

 菜々美は苛立ちを発散するため洋介のベッドを蹴り飛ばす。そしてその蹴りでやや冷めた頭が今の行為を評価し、菜々美は慌ててベッドを確認する。洋介の私物を自身で壊すようなことがあってはならない。下着は盗んだが、ここではベッドに損傷はないか気にする。菜々美の行動は実に不可解だった。

「はあ……ちょっと疲れちゃったから息抜きでもしようかな」

 そう言うと菜々美は洋介の部屋から退出し、階段を降り始める。その大胆不敵な闊歩具合はもはや勝手知ったる家のようである。とても無断で忍び込んだ者の取る行動ではなかった。これも高揚した気分のなせる業だろう。

 悠々と一階に降りてきた菜々美はそのままキッチンへと入っていく。そして棚からコップを取り出し、そこに茶を注いで飲み始める。あまりに無礼な振る舞いだが、菜々美に罪悪感など微塵もない。その証拠に菜々美の頬は緩み、紅潮していた。

「ふふふっ、これで洋介と間接キス。それも双方向ね」

 洋介が口付けたであろうコップで茶を飲み、そして自分の唇が付いたコップで洋介が飲み物を飲む。それを想像すると菜々美は極上の至福を感じた。

 だが、菜々美はこれだけでは足りないと感じたのか、その使用済みのコップをそのまま棚に戻してしまう。これで次に使用するときには菜々美の唾液の付いたコップで飲み物を飲むことになる。勿論それを洋介が使うとは限らないが、頭の中が至福で一杯の菜々美にはそんなことなど思い至らなかった。とにかく今の菜々美は幸せな思考回路になってしまっているのである。細かいことなど気に留めることはなかった。

 茶で喉を潤し、間接キスで心も潤した菜々美はもう一頑張りしようとまた二階へ戻ろうとする。とにかく目的は証拠物件の奪取なのである。そこを見失ってはいけない。そう気を引き締め直し、二階へ上がろうとする菜々美の目にまた新たな誘惑が飛び込んできた。

「あれ? あそこって……お風呂かな?」

 菜々美の視界に入った部屋。それは高梨家の風呂場であった。そこは言わずもがな洋介が裸になり、全てを曝け出す菜々美にとって至高の場である。

 そして菜々美がそんな場を逃すわけがなく、すぐさまターゲットを洋介の部屋から風呂場へと移し、階段を昇ろうとしていた足をそのまま方向転換させる。かつてない興奮に駆られた菜々美は一目散に風呂場へと向かい、勢い込んで扉を開ける。扉を開けた先には脱衣場があり、洗濯機や洗濯籠そして洗面台が付いている。それらの中でも菜々美が真っ先に興味を持ったのは洗濯籠だった。

「あそこに洋介の使用済みの服が……」

 もう生粋の変態へと成り下がった菜々美は洗濯籠を恥ずかしげもなく漁り、洋介の物と思しき服を探り当てるとハイテンションに収穫を喜ぶ。学校の男子が見たら絶望する有様だった。学校内でも屈指の美少女である菜々美の隠れた一面がこんなでは失望もいいところである。それでも菜々美にとっては仮に誰かに見られていたとしても一部の例外を除いて全く気にしないであろう。菜々美にとってはそんな外聞よりも洋介に関わることに触れる方が大事なのである。

 そんな菜々美だからこの勢いはもう止められない。洗濯籠を漁って洋介の服を取り出した菜々美はそれを大事そうに横に分けておき、名残惜しそうに戦果を見つめながらも次の行動に移る。

「次はいよいよお風呂ね……」

 菜々美は視線を浴場に向けると徐に服を脱ぎ始める。次々と床に落ちる衣服の中で男物の下着が目立つ。明らかに異質であった。

 洋介の下着を筆頭に全てを脱ぎ去った菜々美は惜し気もなく晒された裸体で意気揚々と浴室に入っていく。何とも思い切りのよい人物であった。

「どっかに隠しカメラとかないかなあ」

 浴室に入った菜々美は浴室の角や浴槽内を覗いてはそう呟く。自分の自慢のプロポーションを洋介に見せつけたい。そんな思惑を持った菜々美は隠しカメラの存在を期待したが、元より菜々美が家の中に入って来ると想定などしていないのだからあるわけがない。そんな当たり前のことに菜々美はがっくりと肩を落とす。すっかり露出狂の気まで現れてきていた。尤も菜々美の変態的な行動の全ては洋介のみに向かっているから真性のものではなかったが。

 期待を裏切られたため、隠しカメラの捜索を止めた菜々美は次に排水溝を覗き込む。何か洋介の身体に関わる物はないかと貪欲に探し求める姿はある種の感心の念を抱かされるが、やっていることは実にみっともない。直向きな行動もやることによってはどんどん悪印象をもたらすだけである。

「どっかに洋介の痕跡がないかなあ」

 そう言って排水溝から顔を上げて、辺りを探る菜々美。その目線はタオルにいったり、シャンプーにいったりと非常に忙しい。そして物によっては行動を起こす。タオルを見つければそれで自身の身体を擦って自らの痕跡を残し、シャワーヘッドにも自身の肌を密着させる。もうやりたい放題だった。

 そんな風に思う存分痕跡を残した菜々美だったが、最後になって目を付けたのは風呂の残り湯だった。浴槽の半分ぐらいまで入っている湯。そこには昨夜洋介も入っただろう。そんなことを想像すると菜々美によからぬ企みが湧いてくる。

「……飲んでも大丈夫かな?」

 興味深そうに浴槽を覗く菜々美はそんなことをポツリと言い出す。ここまで来ると完全に正気の沙汰ではなかった。

 確かに洋介が入浴したかもしれないが、入ったのは洋介だけではないだろう。母親も入っただろうし、父親も入っただろう。それに洋介が入ったから興味があるといっても飲むなどといっては不衛生極まりない。身体から落ちた一日の汚れを含んでいるのである。当り前のことである。

 だが、やはり例によってこと洋介に関することでは菜々美に当たり前のことなど通用しない。そこにあるのは本能だけである。飲みたいと思ったらただ飲みたいのである。そこにそれ以外の余地は何もなかった。菜々美は吸い込まれていくように何の躊躇いもなく浴槽に顔を近付ける。

「んぐんぐ……ぷはぁ……」

 豪快に残り湯を吸い込む菜々美は喉ごし爽快と言わんばかりに口元を腕で拭って見せる。味がどうだったかはわからないが、どうやら菜々美的には大満足のようである。その至福の笑顔はこの後、腹を壊しても悔いはないと雄弁に語っていた。むしろ体内から洋介の一部に攻撃されると思うと菜々美は幸せですらあった。

「洋介の出汁がよく出たお湯。ごちそうさまでした」

 手を合せ浴槽にお辞儀する菜々美。その姿はいよいよ常人には全く理解出来ない境地に入りつつあった。そこまで恋い焦がれていると言えば美しくも感じるが、実態を見るとやっぱりみっともなかった。

 至高の一杯を堪能した菜々美はそのまま今度は全身で洋介の出汁を味わおうとそのまま入浴を始める。昨日の残り湯ですっかり冷めてしまっている湯は何にも気持ち良くなどないはずだが、当の本人は極楽極楽といった趣である。

 現在まだ二時限目が始まるぐらいの早い時刻。学校が終わるにはまだまだ時間がかなりある。そして出掛けた洋介の母もあのめかし込み様から昼ぐらいは外で食べてくるだろう。そう判断した菜々美の高梨家体験コースはまだまだ続くのだった。

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