第二十五章
校舎から鐘の音が響き渡る。ちょうど一時限目の終わりを迎えた所で洋介と瞳は昇降口へと入ってきていた。下駄箱に靴を入れて廊下に足を踏み入れると二人は気を引き締めた表情でお互いに見つめ合う。
まだ授業の終わりたてということもあってか昇降口付近の廊下には人の気配はない。二人は辺りを警戒しながらお互いに近寄り、抱きしめ合う。
「ここからは危険地帯だな。……気を付けろよ」
「それはこっちのセリフだよ。洋介の方が危険なんだからね」
二人は別れを惜しむかのように抱きしめ合いながら視線を重ねている。ほんの僅かな時間しか許されない二人だけの世界。菜々美をどうにかしない限り、最高でも仲の良くなった幼馴染で留めておかないと身の破滅が迫る。疑惑ならともかく決定打を見られては菜々美の暴走は避けられない。
「もうすぐ誰か来ちゃうかもね。……離れないと」
「……そうだな。ホントはバカップルみたいに人目なんか気にせず、いちゃつきたいんだけどな」
「いいの? そんなこと言っちゃって。小山田さんをどうにかしたら私、ホントにやるよ?」
「おう、望むところだ」
二人でそう言って笑い合う。そしてそのやり取りが区切りになった。徐々に近付いてくる足音と声。どうやら教室から出てきた生徒達が二人のいる方に向ってきているようである。
洋介と瞳はお互いに頷き、ゆっくりと距離を空ける。そしてちょうどその瞬間、二人の視認出来る範囲に人影が現れたが、その人影が見知らぬ男子生徒だったことに二人はホッと胸を撫で下ろす。
「じゃあな」
洋介はこれ以上の長居は禁物と瞳に背を向け、歩き始める。
「洋介はこれからどうするの?」
瞳は最後にこれだけは聞いておくと洋介の背中に質問を投げかける。その質問に洋介は顔を瞳の方に向けて少し考える。
「そうだな、とりあえず俺は直接教室に行くわ。瞳は?」
「私は一応、職員室に寄ってから教室に行こうと思う」
洋介と瞳はクラスこそ別だが、同じ学年ということで教室は同じ階である。二人とも同時に教室に向かってはいらぬ推測をさせてしまうことになりかねない。瞳はそこを慮ったのか洋介とは別の行動を取ることにした。同時に向かうよりは数分とはいえ時間差があった方が安全だろう。
「そうか。それじゃ俺は帰りにでも遅刻届を出すかな」
「面倒臭がっちゃ駄目だよ。ちゃんと提出しないと」
「はいはい。わかりましたよ」
洋介はそれだけ言い残すと再び顔を前方に向け、歩みを再開する。目指すは自分の教室。何故遅刻したのか菜々美を筆頭に友達等に聞かれるかもしれない。洋介はそこを予測して理由を練りながら歩いていく。
(とりあえず一番自然なのは寝坊だな。先生への印象は最悪だが……)
友達へ最も納得させやすく根掘り葉掘り突っ込まれないのはこの理由だが、それでは教師等学校側にいい印象が持たれない。かといって腹痛などの体調不良を持ち出せばいらぬ心配をされそうで心苦しい。洋介は菜々美問題以外のところでも心労が溜まりつつある。早く解放されたかった。
結局洋介はいらぬところでこれ以上消耗するのはごめんだと遅刻の理由を寝坊と決めて、教室へと急ぐ。ただでさえ遅刻なのに二時限目にまで遅れるのは避けたい。それも瞳のように職員室に向かったわけでもないのに遅れるというのは最悪である。余計な叱責は誰しも頂きたくない。洋介は急いで廊下を進み、階段を昇って教室の前までやってくる。
しかし、その勢いはどこにやら洋介は教室の前まで来るとその足取りを止めて、一つ深呼吸を入れる。
(菜々美はどんな様子だろうか。……まあ、とにかく油断せずにかつ自然に振る舞わないと)
洋介はそう心の中で方針を定めて、覚悟を決めると一気に教室の扉を開け放つ。そして恐る恐る教室内に足を踏み入れた。
「お、おはようございまーす……」
遅刻をした日の挨拶は誰しも小さくなってしまう。罪悪感が込み上げ、自然声だけでなく行動も小さくコソコソしがちである。洋介は目立たぬよう自身の席まで素早く移動をする。
だが、その素早く移動をしたのがいけなかった。そんな不自然な動きをしては見つけて下さいと言っているようなものである。本当に見つかりたくなければそこは何事もなかったかのように普通に、そして静かに移動をするべきであった。洋介の高速移動が目に入った数人のクラスメイトが洋介に気付き、声をかけてくる。
「よお、高梨。どうしたの? 遅刻なんかほとんどしないのに」
「ああ、ちょっと寝坊してな」
洋介は事前にシミュレートをしておいてよかったと心底思った。洋介がそう答えるとクラスメイト達はそこにはもう興味がなくなったのか一時限目の内容がどうだったとか話はもう流れていっていた。このまま遅刻の件は皆の頭から忘却の彼方に消えていってほしいと洋介は願った。ここでその話がずるずる続いて、他クラスから瞳の件も伝わって話が絡まり合うのが最悪なパターンだったが、どうやら回避出来そうである。洋介は一つ安堵のため息をつくと、やっと余裕が出来たのか菜々美の姿を探し始める。
(えーと菜々美はっと……今は教室にいないみたいだな)
洋介が菜々美の姿を探しても休憩時間ということもあるのか姿は教室内にはなかった。どこか拍子抜けした洋介だったが、同じクラスなので必ず接触する機会がある。気を引き締めておかないと隙に付け込まれかねない。洋介は菜々美不在の今の内から何事にも対処出来るよう心構えをしておく。
(休憩時間は勿論、授業中も一応警戒しておかないと。今の菜々美は何を仕出かすかわからないからな)
こうして気を引き締めていた洋介だったが、授業開始の鐘が鳴り、教師が教室に入ってきたというのに一向に席にその姿を現さない菜々美に不審を感じた。単に何か頼まれ事でもしているのかもしれないし、トイレが混んでいたのかもしれない。それでも洋介には嫌な予感がひしひしと感じられた。
「……なあ」
洋介は小さな声で隣の席の男子に声をかける。もう教師が入ってきて出欠をとっているだけに辺りを憚って小声でやり取りを出来るよう体も男子の方へ少々乗り出す。
「何だ?」
「今日って小山田休みだった?」
「ああ、休みだって」
「そうか……ありがと」
洋介はその事実を聞くと軽く礼を言って体勢を元に戻す。そして目を瞑って状況を整理し直した。
(今日は菜々美は休み。それで俺は遅刻していたから登校時間や一時限目の一部まで家にいた。だから菜々美が家に来ていたことはないと思う。隠れていたなら話は別だが)
洋介は時間と行動の整理をして、菜々美の行動のあたりを付けようとするが、どうやら瞳の言った自宅訪問ではないと悟った。そうなると次に出てくる問題は何をしているのかということだった。
(俺に直接来なかったからといって安心は出来ない。もしかしたら準備を万端整えて襲撃するつもりかもしれない)
とにかく洋介は菜々美の行動を察知したかった。そして出来ることなら自身で自宅に籠城して菜々美の襲来に対応したかった。
(母さんに被害が及ぶかもしれない……)
一度そう考えが行き当たるともう洋介はジッとしていられなかった。静かに机の上に広げた教科書、ノートの類を鞄にしまうとこっそりと席を立つ。
「あん? おい、高梨。どこ行くんだよ」
その洋介の不審な行動に気付いた隣席の男子は不思議そうな顔で洋介にそう尋ねる。当り前だろう。学校に今さっき遅刻してやって来たというのにいきなり帰り支度を整えて教室を出ようとしているのだから。洋介はその質問に対し、ただバイバイと手を振って答える。そしてこっそりと教室を抜け出した。
「おいおい、さっき来たばっかだろうよ……」
取り残された男子はそう呟く。全く意図の読めない洋介の行動を見せ付けられた挙句に回答を残していってもらえなかったのだから堪らない。彼は今日一日中洋介の謎の行動を気にしては考え込むことを繰り返すのだった。