第二十三章
翌朝、登校の支度を終えた洋介はこれから取るべき行動を思考していた。今までの生活でこんなに朝から考えることはなかった。せいぜい時間割や特別に持っていく必要がある物を整えるぐらいだった。
それがここ最近では瞳や菜々美関連で考えなくてはならないことが大幅に増えた。劇的に変わりつつある日常に洋介は慣れることを強制されていた。
「さて、家を出る前にしとかないとな……」
制服に着替え、鞄を手にした洋介は自室を出て、一階に下りていく。そして母がいるであろうキッチンへと入り、母に声をかける。
「母さん、ちょっといい?」
「何?」
洋介に声をかけられ、振り返る母は不思議そうな顔をする。恐らく声をかけられたことに思い当たる節がなかったのだろう。洗い物をしていた手を止めて洋介を見詰める。
「もし俺がいない間に小山田菜々美って子が訪ねてきても家に上げないでほしいんだ」
洋介のお願いに母はまたもや腑に落ちない顔をする。無理もないだろう。理由もなくただその子を家に上げないでほしいと言われても困る話である。実際に顔を合わせて断るのは母である。訪ねてきた息子の知り合いを追い返すという嫌な役目を承るには納得出来る理由が欲しかった。そう感じた母は洋介に理由を尋ねる。
「どうして? 友達とか彼女だとかじゃないの?」
「うーん、一応元カノってことになるのかなあ」
歯切れの悪い息子の態度に母は不審な顔をする。元カノという言葉と家に上げないでほしいという言葉から何を想像したのか汚いものを見る目で洋介を見詰める。その母からの無言のプレッシャーに洋介はたじろぐ。
「か、母さん?」
「洋介……あんたその子に何やったの?」
「えっ?」
母からの質問に洋介は戸惑う。元々お願いをしてそれであっさり済ます予定だったのだからここまで話をする筈ではなかった。しかもその上詰問されるなど全く想定外であった。洋介は答えの用意をしていない質問にすぐに反応することが出来ない。
戸惑う洋介に母は何を思ったのか、洗い物の途中であった姿勢を正して洋介に正面から対する。その母から感じる重圧に洋介はじりじりと押され、この場から離脱したいという意思を表すかのように後退を始める。
「待ちなさい」
「うっ……」
微妙に逃げ腰になっていた洋介の腕を母ははっしと掴み、逃亡を阻止する。その表情は至って冷静な落ち着いたものであったが、それだけにその胸中が掴み辛く洋介に得体の知れない恐怖を与えていた。
「洋介、ちょっとそこに座りなさい」
そう言って母は洋介を引っ張り、キッチンの椅子に座らせる。そして自身もテーブルを挟んだ向かいに座る。まるで尋問のような雰囲気に洋介は落ち着きを失ってしまう。
「ちょ、ちょっと! 俺これから学校だって」
「そんなのどうでもいい。それよりもあんたには教えなきゃいけないことがあるわ」
洋介は何言ってるんだと反抗したかったが、母の目はどうみても本気であった。使命感や責任感に燃えたその瞳はそう簡単には洋介を解放しないという意思が明確に表れていた。洋介は言い方を誤ったと思わず天を仰ぐ。
「さあ、洋介。あんたには親として倫理を教えてあげないとね」
「だから誤解なんだって。つーか母さんの深読みと早とちりだよ……」
洋介は母に対してそう反論してみるが、もう無駄だろうと半ば諦めも入っていた。時刻はもう制限時間一杯。今出ないと遅刻という状況であった。
洋介がそう時間を確かめた時、ふと頭によぎることがあった。そしてそれは母からの解放を実現出来うる可能性を秘めていた。
(そういえば瞳と一緒に登校するんだから、遅いと思ったらあいつが来るな)
洋介は拘束からの脱出を確信し、勝利の笑みを浮かべる。母への依頼は失敗に終わりそうだが、とにかくここで登校を足止めされてしまうよりもマシである。今、瞳を一人で登校させては菜々美に襲撃される恐れがある。それを阻止するためにも学校へ行くことは絶対に必要であった。
(瞳、早く来てくれ!)
洋介は天に祈る心地で援軍の到来を待つ。孤立無援の絶体絶命状態に陥っている洋介には瞳の訪問という援軍以外に脱出の術はない。ここで無理矢理脱出を図れば後でどういう仕打ちを受けるかわからない。最悪夕飯の支度がされていないという状態になるだろう。いや、それどころか家に入れてもらえないかもしれない。それを想像すると無理矢理逃げ出す方策は絶対に取れなかった。今の洋介にはもう自ら行動を起こすことは出来なかった。
「それじゃまず洋介にその小山田菜々美さんだっけ? その子のことを説明してもらおうかな」
「……」
「ちょっと、洋介?」
「……」
「黙ってないで何かいいなさいよ」
「……」
母の呼びかけに洋介は沈黙を貫く。ここで下手なことを話すよりももうすぐ来ることが確実な援軍に頼る方が得策である。洋介は針の筵に座らされながらもひたすら我慢を貫く。洋介に今出来ることは心の中で祈ることしかなかった。
「洋介! あんたいい加減に……」
「ごめんくださーい」
母が洋介の態度に怒りを爆発させる寸前、ようやく待ち侘びた援軍が到来した。昔から高梨家とも関わりの深い隣家のお嬢さんの登場とあっては母も遠慮せざるを得ない。これぞ洋介の練り上げた必殺の策であった。
その必殺兵器は玄関から進入し、廊下を歩いてキッチンへと入ってくる。瞳にとっては勝手知ったる高梨家である。もう朝の時間といえばどこに誰がいるかというだいたいのパターンを熟知していた。瞳は迷いは全くないといった様子でキッチンにいる洋介を発見する。
「あっ、まだこんなところにいる。早く行かないと遅刻だよ? 早く行こう」
「あ、ああ。そうだな。それじゃ母さん、そういうことで……」
瞳という援軍に守られながら洋介はそそくさと立ち上がってキッチンから撤退しようと目論む。だが、母は事が事だけに納得するまで逃がさないと言わんばかりに体を乗り出して洋介の腕を掴む。
「待ちなさい! まだ話は終わってないでしょ!」
「ちょっ、母さん。遅刻しちまうって」
「そんな遅刻なんかより大事な問題でしょ。いいから座りなさい!」
凄まじい剣幕で洋介を足止めする母は逃がす気など微塵もなさそうだった。洋介は戸惑った様子で瞳を見るが、瞳の方もこれは難儀だと言わんばかりに天を仰ぐ。
何と言っても洋介は瞳を当てにしてこの場を乗り切ろうとしていたのである。それが頓挫した今、洋介は潔くもう一度着席する他なかった。
「……わかったよ。座りゃいいんだろ」
やれやれといった様子で着席する洋介を見て、母はその態度に不本意そうではあったが一つ頷き、掴んでいた手を離す。洋介は軽くため息をつくと瞳を見遣り、先に行けと促す。もはやこの場から脱出することがかなわなくなった以上、瞳までここにいる必要はない。
確かに瞳を一人で登校をさせるのは不安があるが、遅刻もやはりまずい。それに菜々美もまだ二人が付き合い始めたことは知らない筈で危険性は洋介に比べればさほど高くない。そう判断して洋介は瞳に一人で登校してもらおうと決断したのだった。
しかし、瞳は洋介の眼から何を読み取ったのか手近な椅子を引くとそこに着席する。予想外な瞳の行動に洋介は口をあんぐり開けて放心してしまう。
「瞳ちゃん、あなたは別にここに残らなくていいのよ。話があるのはこのバカ息子になんだから」
当然のように母が瞳をそう諭す。関係のない瞳をここに残して遅刻させては申し訳ない。母はそういった配慮を見せるが、瞳はそれに対してもお構いなくといった様子でそのまま座っている。洋介にはもはや瞳が何を考えているのかわからなかった。
「お、おい。瞳、遅刻しちゃう……」
「いいの。それより洋介の誤解を解いて小山田さんを上がらせないようにするのが大事」
瞳はそう洋介に自身の考えを話す。洋介としても菜々美という言葉が出てきては強く瞳に当たれない。結局洋介の身に何か起これば、恋人となった瞳にも放っておけなくなるのである。二人の問題である以上、洋介はもうこれ以上何も言えなかった。
しかし洋介が納得しても母はそうはいかない。お隣の娘さんに遅刻をむざむざさせるわけにはいかない。どうにかして瞳を登校させようと考えているものの、肝心の本人が動く気はないと言わんばかりに自分を見つめていては何ともし難かった。結局瞳は二人の同意を得て、この高梨親子の会議に参加することになった。
「はあ……それで何だったかしら?」
「俺が母さんに小山田菜々美って子が家に来たら、家に上げないでほしいって話」
「そう、それ!」
手で頭を押さえながら議題を確認した母は萎えていた怒りを一気に持ち直して洋介に吠え掛かる。瞳の登場によって少しは収まるかと思った母の剣幕は尚健在であった。洋介にとっては嫌な展開である。
「一体どういうことなのよ! それって要するにあんたを忘れられなくて元カノが縋ってきてるってことでしょ? それを会いもしないで追い返せって、酷過ぎるじゃない」
母は今にも洋介に飛び掛かりそうな勢いで捲し立てる。言ってもないことを勝手に想像して責められるのは洋介にとってはいい迷惑である。しかもそれを否定する余地も与えず、一方的に糾弾しようというのだから性質が悪い。洋介はもうお手上げ状態であった。
だが、ここで先程とは違った展開が挟み込まれる。今、ここには新たなる登場人物が出現しているのである。その新キャラであるところの瞳は挙手をして母の剣幕を遮る。
「おばさん、ちょっといいですか?」
「何?」
母は血走った眼で瞳の方を向く。その形相に何か過去にあったのだろうかと疑いたくなるが、瞳はその追求したい欲求を堪えて母に自身の考えを述べていく。
「まず小山田さんなんですけど、洋介とは確かに付き合ってたんですけどもうそれは終わったことなんです。そこまではおばさんの考えてるとおりなんですけど、今は小山田さんがしつこく洋介に付きまとって迷惑かけてる状態にまで達しているんです」
「……そうなの?」
瞳の話を聞いて母は一気に落ち着いたようで、静かに洋介の方を見る。洋介は瞳と自分に対する態度の差に納得がいかないものの、ここで場を壊す必要はないと大人しく頷く。
「それに告白すると今、洋介は私と付き合ってるんです」
「あ、あら。そうなの?」
瞳の告白に母はいやらしく微笑みながら洋介の方を見る。喜怒哀楽が激しいなと洋介は母の百面相に呆れながらも機嫌が直ってくれたならそれは重畳と黙っている。噂好きな近所のおばさんみたいでいい感じはしないが、怒りにまかせて一方的に糾弾されるよりはマシである。瞳との交際を深く突っ込まれない限りは。
「それなのに小山田さんはそれが納得出来ないって言って洋介に復縁を迫ってるんです」
「あらあら、洋介も随分人気あるのね。全然知らなかったわ」
瞳の言葉に母は洋介をじろじろと見詰める。まるで品定めされているかのような感覚に洋介は落ち着かない。まさしく丸裸にされるかのような分析ぶりであった。そしてその分析は完了したのか母は首を傾げながら視線を洋介から外す。
「……駄目だわ。見慣れちゃってるからなのかわからないけど私には洋介の魅力が理解できない……」
「……」
母の辛辣な言葉に洋介は勃然と怒りが湧くものの、もういい年した、しかも実の母に男としての魅力を理解してもらっても扱いに困る。実に複雑な心境だった。
「そんなことどうでもいいから、話戻して」
洋介は脱線しかかった話の流れを元に戻そうとする。このまま放っておけばこの後、洋介は男としてどうなのかという論議に移りかねない。はっきり言って時間の無駄な上に居たたまれない。洋介はその外面以上に必死だった。
「そうそう、それで小山田さんが洋介を脅迫してまで復縁を迫って来たので、これはいけないと洋介はおばさんに頼んだわけです」
「それで勝手に家に上げないようにってことなのね。なるほど……」
瞳の話を聞いて母はようやく考える段階にまで至った。洋介が話してもただ早合点をして洋介を責めるだけだったのにこの扱いの差はどうかと洋介は憤慨するが、話の持っていき方が下手くそだったのかとすぐに反省する。実に喜怒哀楽が激しく洋介は不安定な状態だった。
「……わかったわ。まあ、洋介に確認取らずに勝手に上げるのもおかしい話だしね。それじゃ小山田さんが来たら洋介がまだ帰ってないからって帰せばいいのね?」
「はい、それでお願いします」
「何か簡単に話が済んだなあ……」
無駄に叱責を喰らった洋介としては落ち込むのも無理はなかった。ただでさえ菜々美の脅威に不安を覚えているのというのにスムーズに話が進まないのでは心も落ち着かないであろう。洋介はまだ朝だというのにひどく疲れてしまっていた。
「それであなた達学校はどうするの? もう完全に遅刻だけど」
「勿論今から行きますよ。ねえ洋介?」
真面目くさった瞳は洋介にそう促すが、疲れ切った洋介にはそれに賛同する気力がなかった。ついつい仮病を使いたくなってしまう。
「何か俺、頭が痛くなってきちゃったよ」
「ちょっと洋介、何言ってるの? ほら、早く行こう?」
どうみても仮病だと悟った瞳は洋介の腕を掴んで無理矢理立たそうとするが、所詮女の子の力では脱力し、立つ気のない男を起こすのは難しい。
「洋介! 馬鹿言ってないで早く立ちなさい。サボるなんて許さないわよ!」
「あー、頭痛い。体に力が入らない……」
洋介は額に手を置きながらそう呟く。確かに実際頭は痛いわけだが、それは自分の言い分を聞こうとしない母に対する皮肉であって体がどうこういうものではない。そして体に力が入らないのも洋介の気の問題であった。所詮言い逃れなど出来ない。陥落は時間の問題であった。
「洋介!」
「いいわ。瞳ちゃん。今日はもう休ませましょう」
いよいよ怒りを爆発させた瞳に母は意外にも考えを洋介の希望を叶える方向へと転換した。これには瞳もそして当の本人である洋介も驚く。
「お、おばさん?」
「いいからいいから」
不服そうな瞳を母は手で制しながら洋介に優しい笑みを見せる。洋介にはその優しい笑みが逆にそれまでの怒りの表情よりも何故か恐ろしく感じられ、思わず身震いしてしまう。
「洋介。辛いなら無理しなくていいのよ。ゆっくり寝てればいいわ」
「あ、ああ」
「洋介は安心して眠ればいいわ。私がその隣でちゃんと添い寝して看病してあげるから」
「いいっ!?」
母の口から飛び出した思わぬ発言に洋介は驚きを禁じ得ない。何が悲しくて高校生の男子が母親に添い寝なぞしてもらわなくてはいけないのか。洋介は即座に拒否を申し出ようとする。
「そんなの……」
「洋介ってば高校生にもなってお母さんに添い寝してもらうの〜? かっこ悪い〜」
拒否しようとする洋介の言葉を遮って今度は瞳が間延びした腹の立つ言葉遣いで洋介をからかう。どうやら瞳は母の策を見抜いたようでそれに同調しようと企んだようである。息の合ったコンビネーションに洋介は振り回され始めていた。
「ひ、瞳! お前、何言ってやがる!」
「だってお母さんに添い寝って……ぷぷっ」
「背中とんとんしながら寝かせつけてあげるからね」
瞳と母は邪悪な笑みを浮かべながら、洋介を見詰めている。これは十中八九よくない流れになると感じた洋介はもう取るべき道を決められていた。
「わかったよ。行けばいいんだろ。行けば」
「別に無理しなくてもいいのよ?」
「うるさいよ」
もう自棄になった洋介は荒々しく鞄を引っ掴むと瞳を連れて玄関へと向かう。それを見送る母と洋介に連行される瞳は互いに目線を合わせると親指を立てて、作戦成功の喜びを分かち合う。
「いい加減自分で歩けよ」
「はいはい、分かりましたよ」
ようやく自分で歩き始めた瞳は洋介の横に並ぶ。登校するために二人揃って歩いて行く姿を見守った母はお似合いだと一人微笑むのだった。