第十九章
翌朝、洋介は起きるなり朝食も食べずに自室の机に向かっていた。格好も寝間着のままというまさに起きたばかりという出で立ちである。
「さて……今日は重要な日だ。上手いこと菜々美の企みをかわさないと……」
洋介は前日、菜々美が仕掛けてきた策略をどうやって切り抜けるかという問題に立ち向かっていた。方針こそ菜々美とのやり取りの最中、菜々美の帰宅後に考えてはいたが、具体的な手段については寝て忘れないように次の日にと回していたのだった。
「とりあえず菜々美の脅迫のネタはもう通用しない。そうなるとそこを指摘して諦めさせるっていうのが一番平和で簡単だけどな」
洋介は案を出してはいくが、基本的には菜々美の反応次第でその後の展開は変わっていってしまうため、やはり出だしとその後のために数個対策を練るぐらいなので割と早く脳内会議は終了する。しかしその簡単に片付きそうな気配がかえって洋介を不安にさせる。
「えーと脅迫を無理だと諭して、それでそこで納得すればよし。だけどそこで抵抗するなら脅迫罪を仄めかして黙らせる。万が一暴れたらこっちも力で訴える……。これぐらいだろうけど
……何か見落としとかあるかなあ」
頭の中で状況をシミュレートしながら洋介は立ち上がって部屋を出る。一階に下りてキッチンに入り、朝食を食べる。普段通りの振る舞いをしながらも頭の中ではずっと対策を練るという一連の作業を止めない。洋介の行動はもはや無意識の状況で行われていた。
しかしその無意識で行っているという状況のため洋介には目の前にあるイレギュラーに気付くことが出来なかった。どこか遠くを見ているかのような虚ろな目をしている洋介を見つめる一人の少女の姿があるということを。
「……」
「……おーい? 起きてる?」
「……」
「洋介? 聞いてる?」
「……」
「……えいっ!」
話しかけても反応を示さない洋介に苛立ったのか洋介の向いに座る少女は身を乗り出して洋介の頭を軽く小突く。それでようやく意識をはっきりさせた洋介は何事かと言わんばかりに顔をキョロキョロと左右に忙しなく動かす。
「まったく……朝からそんなボーっとしてどうしたの? 夜更かしでもした?」
「あっ、瞳……。どうしてここに?」
「いつも送ってもらってるからね。感謝の気持ちに朝食を作りに来たのよ。それ私が作ったんだから何か反応が欲しかったのに、洋介ってばボーっとして何も反応してくれないし」
「ご、ごめん。ホントにボーっとしてて気付かなかった」
きまり悪そうに洋介は頭を掻きながら頭を下げる。その反応を見て瞳は少し機嫌を直すと今度は心配そうな表情で洋介を見つめる。
「まあそんなことはどうでもいいとして。それで洋介ホントにどうしたのよ? どっか調子悪いの?」
「い、いや大丈夫。まだ眠たいだけだ」
洋介は軽く笑いながらそう誤魔化す。しかし目の前の瞳は同じように笑うことはなく未だ真剣な表情で洋介を見つめ続けている。その視線に気圧された洋介は笑っていた顔を横に向けて視線を瞳から逸らす。
そんな洋介の反応を見た瞳は真剣な表情を崩して一つため息をつく。その様子は完全に洋介の胸中を見抜き、それを誤魔化そうとした洋介に呆れているかのようである。
「洋介ってば昔から変わらないよね。隠し事があると笑いながら誤魔化して頭を描く。そしてそれでも見つめ続けると気まずくなって顔を逸らす。パターン通りだよ」
「そ、そんな癖があったの、俺?」
「知らないわよ、そんなの」
「えっ? だってお前……」
「知らないけど何か悩みがありそうだっていうのはいつもと様子が違うから感じた。……でも洋介に問い詰めても優しいから何もないよって言うだけでしょ? だからちょっと……ね」
「嵌められたってわけか」
「人聞き悪いこと言わないでよ。素直にさせてあげたのよ」
そう言うと瞳はさて本題に入ろうかとばかりに乗り出した身を引き、椅子に腰を落ち着かせる。体は遠ざかったというのに逆に増すばかりの瞳の威圧感は洋介に否応なく理由を話させようという空気にさせていた。観念した洋介は箸を置いて茶を一口飲み、乾ききった喉を潤す。
「ふぅ……」
「話す気になった?」
「ああ。そこまで心配してくれてるのに何も話さないわけにはいかないからな」
「そうこなくっちゃ。お世話になってるし力になれることなら何でもするわよ」
気合い十分とばかりに瞳は真剣な顔つきで洋介を見据える。洋介は今度は覚悟が決まっているからかその視線から逃れることはせず、こちらも瞳を見据えて真剣な表情になる。
「……そういえば母さんと父さんは?」
「おばさんは外でうちのお母さんと近所の奥様連中を集めて井戸端会議。おじさんはもう出掛けたわ。だから安心して話せるよ」
「よし……それじゃどこから話せばいいかな……」
時間もまだ余裕があるし他人の目も大丈夫と判断した洋介は話の取っ掛かりを考える。時間はあるといっても登校を控えている身、極力簡潔に話したいというのが二人の考えだった。洋介はそれでもいつまでも悩んでいる場合ではないととりあえず話を始める。
「……昨日、瞳が帰った後に突然菜々美がうちに来たんだよ」
「ふぅ……そんなことだろうと思った」
洋介の言葉に瞳は一つため息をつきながら頷く。
「何で?」
「気付かなかった? 昨日、一緒に帰ってる時にあの子、後ろから付けてきてたのよ」
「マジで!? そこまでするなんて……」
洋介は驚くものの、それをあっさりと信じる。確かに学校にいる間から視線が常に洋介に向けられていたことからありそうだと感じたのだろう。洋介は菜々美の執念に身震いをしてしまう。
「それで? 家に来てどうしたの?」
「あ、ああ。家に来てもう一回付き合おうって言ってくるんだよ。諦めきれないって」
「はあ……。あんたもとんだ地雷を踏んだわね。それで? 何て言ったの?」
「前に言ったとおりもう付き合う気はないって。だけどそう言ったら泣き出して何か様子がおかしくなったんだよ」
洋介の言葉に瞳は首を傾げる。腑に落ちない所があったようで瞳は手を前に突き出して洋介の口を制止する。
「ちょっと待って。様子がおかしくなったって?」
「ああ。何か全然会話にならなくなったんだよ。許してとかぶつぶつ言って涙を流してるんだよ」
「そ、それはおかしいわね……。っていうか怖い」
「だろ? だから俺、もう焦っちゃって。それでとりあえず部屋に連れてどうにかしようって」
「まあ、そんなのをほっとく訳にもいかないもんね」
「ああ、それでとにかく目を覚まさせないとって思って色々したんだけど……」
「色々って……何かやらしい」
茶化す場面ではないのだが洋介の言葉に瞳は反応せざるを得なかった。もう必死の洋介はそんなからかいを含んだ言葉にも余裕を持って対処することが出来ない。
「し、してねーよ!」
「それじゃ何をしたの? 具体的に」
「うーんと……まあ呼び掛けるなり手を握るなり……頬を叩くなり……」
「頬を叩くって……最悪」
「そう! それが問題になっちまったんだよ!」
瞳の言葉に洋介は頭を抱えながら絶叫する。そこにはどうしてそんな行動を取ってしまったんだという無言の後悔が込められていた。
「それが問題って言うとまあ、脅されたとか?」
「分かるの!?」
「だってそれしかないじゃん。これを問題にされたくなかったら私と付き合え。みたいな?」
「そう、それ! まさしくそれ!」
全てを見透かしている瞳に感心したのかやや興奮気味の洋介は声が徐々に大きくなっていっていた。瞳に期待しているという様子が見て取れる。
「……本当に地雷ね」
「そうなんだよ。それでまあ一応対策は練ったんだけど上手くいくかなって心配で……」
「それで様子がおかしかった訳ね。これで納得いったわ」
「一応もう現行犯じゃないから証拠はないと思うんだけど……」
意見をもらおうと洋介は自分の見解を話し始める。ここまで色々見透かしてくれる瞳の冷静な頭脳に期待しての行動だった。洋介はもう瞳に心配はかけないとしていた先程の態度はすっかりなくしていた。
「うーん、どれくらいの力で殴ったのか私にはわからないから何とも言えないけど。傷痕はどうなってるんだろうね?」
「それは大丈夫。もう手の平の跡は消えてると思うから」
「それなら大丈夫でしょ。逆にあっちが脅迫してると指摘すれば反論出来ないでしょ。後はあっちの暴走に気を付けるだけね」
「やっぱりそうか」
自分の考えたとおりだと洋介は自信を持つ。洋介の表情から不安の要素は消えつつあった。
「だけどその暴走に気を付けないと後悔するかもよ。油断しないでね」
「ああ。上手くやるさ」
その言葉を締め括りとしたのか洋介は立ち上がり、食べ終えた食器を流しに運ぶ。時間も気が付けば危ない時間帯。締めに相応しい状況だった。
「ありがとう。自信が出てきたよ」
「いえいえどういたしまして」
「それと朝食ありがとう。美味かったよ」
「うん。そう言ってもらえてよかった」
「それじゃ俺支度してくるからもう少し待っててな」
そう言うと洋介は二階に急いで上がっていく。着替えに歯磨きとやることはまだ残っている。瞳を待たせている以上、急がねばならなかった。洋介は二階に駆け上り、急いで服を着替える。
「時間自体は……こっちもあまり余裕はないな」
時間を確認した洋介は瞳を待たせている上に時間も余裕がないと悟り、支度の速度を緩めることはせずに急ぎに急いで今度は一階に下りてくる。
そして洗面所に向かい、歯を磨く。これさえ済めば最低限の支度は完了する。洋介は口を漱ぐと踵を返し、キッチンへと向かう。
「はあはあ……お待たせ」
「そこまで急がなくても……」
「朝から瞳に走って登校させたくないしな……まあ、これで登校は歩いて行けるだろ」
「……うん、そうだね。ありがとう」
洋介の気遣いに頬を緩ませた瞳は笑顔を洋介に向ける。洋介は急いだ甲斐があったとこちらも頬を緩ませる。
「よし、それじゃ行くか」
「うん。折角余裕作ってくれたんだから無駄にしちゃ駄目だよね」
二人は揃って玄関に向かい、家を出る。家を出ると隣の河野邸玄関前に数人の奥様連中と共に話に興じている母親の姿を発見した洋介はそのまま家を離れる。
「鍵は母さんがあそこにいるからいいな……よし、行くか」
「うん」
そう言うと二人は並んで通学路を歩く。二人の距離は当初から比べると明らかに近付いていて肩や指が触れ合いそうな所にあった。それもこれも洋介が瞳に向ける感情が変わってきたことが大きな要因だった。
「……」
「……」
二人は無言で歩いて行く。しかしそこには気まずい雰囲気はなく、ごく自然な落ち着いた雰囲気に満ちていた。昔の幼馴染として仲の良かった頃とも少し違った二人の間の空気。それは実に心地よく洋介には感じられ、これから先に控える菜々美との対峙への不安を和らげる。
(やっぱり瞳には敵わないな。守ろうと思っても逆に守られてるんだから)
洋介はそう思うも、そこには劣等感や卑屈な開き直りもなく心地よいまでの信頼感に溢れていた。瞳に不安を悟ってもらえてよかった。洋介はそう感じながら学校への道程を瞳と並んで歩んでいくのだった。