第十八章
「よ、洋介……こんにちは」
「な、菜々美……どうして……」
訪問者は今朝から洋介に執拗に視線を向けていた菜々美だった。不安そうに曇った表情や俯きがちなその様子はかつての菜々美とはまるで別人のようだった。
洋介はそんなまるで馴染みのない菜々美の様子やその不意の訪問に混乱しているのか未だに口を利けない。ただただどうしてと呟くだけである。
「わ、私どうしても納得できなくて、諦められなくて……それで……」
菜々美としても考えての行動ではなかったのかなかなか明確に言葉を続けられない。つっかえつっかえ話すその様子は実に弱々しく儚い印象を与える。かつての菜々美からは信じられないような様子である。
「……自分勝手で本当にすまないけど……でも俺は確かに別れるって言った。だからもう……」
洋介は表情を曇らせながら、苦しそうに言葉を紡ぎだす。罪悪感に締め付けられたその言葉の先は最後まで言わなくても想像が出来た。菜々美は最後まで言わせないとばかりに慌ててその言葉を遮りにかかる。
「待って! 私本当に反省してるの。事情もよく聞かずに手を出したことは本当に悪かったって。だから許してよ……。ねえ洋介……」
洋介からの別れの言葉は手を出したことが原因だと考えていた菜々美は洋介の言葉を遮って謝罪に努める。誠心誠意謝ってこれからはそんなことしないと約束すればまた元の鞘に収まれる。菜々美はそう考えていた。
しかし実際には洋介の心は既にその前から徐々に瞳によって惹きつけられていた。元々は瞳に強い想いを抱いていた洋介なので一度瞳の方に傾けばそれはもう止めようがない。菜々美の謝罪を聞いても洋介の表情はただただ曇るだけであった。
「菜々美……正直に言うけど俺の気持ちは瞳に向ってる。瞳が襲われた日、久しぶりに瞳と親しく話せて凄い楽しかった。そして次の日、瞳が護衛を頼みに来た時も面倒だと思ったけどやっぱり嬉しい、楽しみっていう気持ちの方が強かった。もうその時にはまた瞳に惚れてたんだと思う」
「……」
淡々と気持ちを語る洋介に対して菜々美は特に遮ったりもせず大人しく聞いていた。しかしその手は小さく震えている。そして洋介は自分の気持ちを整理しながら話すことに集中していたのかそんな様子には全く気が付いていなかった。
「本当に自分でも最低な男だと思う。菜々美が手を出したことも切っ掛けではあったけど……でも菜々美に別れを告げたのは俺の浮気からだ。本当にごめん」
「……」
「だから俺はもう菜々美と付き合えない。自分勝手で本当にすまないけどこれからは……って菜々美!?」
別れを改めて告げようとし、俯いていた顔を菜々美に向けた洋介は目の前の状況に驚愕した。それまで大人しく話を聞いていると思われた菜々美の眼から涙が流れている。嗚咽さえも漏らさずただただ虚ろな瞳で涙のみを溢れさせている状態は洋介でなくとも混乱させるのには十分だった。
「お、おいっ! 大丈夫か菜々美!? 一体どうしたんだよ?」
「……ダメ、嫌だ……。別れたくなんかないよ、洋介……」
菜々美は壊れたラジオのように途切れ途切れ自分の意思のみを流し続ける。全く洋介の言葉に反応しようとしない菜々美に洋介はどうするべきか対処に困った。
「まさかこのまま帰すわけにもいかないし、だからといって部屋に上げたら今度はそれが原因でいざこざが起こりそうだし……どうすりゃいいんだよ」
洋介は頭を掻き毟りながらあたふたと対処を考える。家族に女の子を泣かせている現場を見られたくなどないし、かといって泣いている女の子を連れて外など歩きたくもない。そのまま外へ出してもこのままでは家の前で泣き続けるだろう。自分の家の前で泣き続ける女の子。それを想像したら洋介は自分が外道にしか見えなかった。
「うおおお、どうすりゃいいんだよ」
「洋介……許してよ……」
依然として涙を止める気配などなく何事かを呟き続ける菜々美を見ているとこれはショックでどうにかなってしまったのかと洋介は新たな恐怖に駆られた。
自分のせいで精神が病んでしまったなどというのは遠慮願いたい。洋介は徐々に追い詰められていった。
「こうなったらとりあえず落ち着かせるしかないか……」
洋介は決断した。注意を払えば問題はないだろうと一先ず菜々美を自分の部屋に連れて行き、慰めるなりなんなりしてとりあえず菜々美を落ち着かせようと考えた。
洋介はそう決断するとすぐに菜々美の手を引き、自分の部屋まで連れて行く。ここで家族に見られるのが一番厄介だとその行動は迅速かつ慎重だった。菜々美も明らかに正常ではないが、洋介に合わせてしっかりと動いていた。
「はあはあ、部屋までがこんなに遠く感じたことはないぜ……」
洋介は菜々美を連れながら自分の部屋までなんとか誰にも遭遇せずに来ることが出来た。ただ部屋まで移動しただけなのにその息は切れて、かなりの疲労を感じていた。
「とりあえず早く部屋に入れないと……。ここで母さんとかに見つかったら意味がないし」
洋介は扉を開けて菜々美を中に招き入れる。さっきまでここに瞳がいたのにすぐその後に違う女の子がいる。形だけ見たら非常にだらしない男だが、実際はそうかと洋介は自分の行動に落ち込んでしまう。
「さて、部屋まで連れてきたはいいけどこっからどうすればいいんだろう?」
洋介は当然ながらそんな人の心理をどうこう出来るような技術などない。ただ体裁上不味いのでここに連れてきただけである。その後のことなど何も考えてはいなかった。
「頬を張ったら目が覚めるかな、いやいやそれは最終手段だな。となるとまずは慰めてみりゃいいのか?」
それでも出来ることを何かしようと洋介は菜々美の覚醒に取り掛かる。洋介は菜々美の手を握って目を見つめる。
「おーい、菜々美。目を覚ませよ。聞こえてるかー?」
「ごめん……許して……お願い」
「やべえな、目が完全にイッちゃってるよ……」
次から次へと涙を生産している虚ろな瞳を見て洋介は菜々美の状態が容易ならないものだと改めて感じた。もうこれはどんなに呼びかけても駄目だろうと判断した洋介は早くも最終手段に踏み切った。
「すまんが、許してくれい。……おらっ!」
軽い気合いの声とともに洋介は菜々美の頬を張った。流石にあまり強くしては駄目だろうと加減した一撃ではあったが、決して痛くないというものではない。それでも菜々美はまるで痛みを感じていないかのように悲鳴すら発せず、依然として同じ状況だった。
「こ、これは厄介だな……。今でさえうっすらと赤紅葉が頬に出来てるのにこれ以上強くやったら完全に暴行の跡として証拠が残るぞ……」
涙を流し続け、頬に手形が浮かんでいる女の子と男が部屋に二人きり。どう見ても暴行現場だった。洋介にはこれ以上踏み切ることは出来ない。
「さあ、どうしよう。もう俺に手札はない。完全に行き詰った」
降参とばかりに両手を上げる洋介だが、実際もうそんな風におどけでもしないと気が狂いそうだった。人一人の精神をおかしくしてしまったという現実が洋介に重くのしかかる。洋介はもう泣きだしたいくらいだった。
「どうしたら元に戻ってくれるんだよ……頼むよ、何でもするからこっちに帰ってこいよ……」
もう何にでも縋りたいとばかりに洋介は菜々美に話しかける。完全に弱気な不安定な状態になってしまっていた。
「このままだと俺もおかしくなりそうだよ。頼むよ菜々美……」
そう言うと洋介は疲れ切ったのか菜々美にしな垂れかかりながら脱力する。もう洋介はパニック状態になる気力さえ失ってしまっていた。
「……」
洋介が菜々美にしな垂れかかれ、視線が菜々美から離れたその時、それまで虚ろな瞳をしていた菜々美の眼に光が灯った。そして意思が戻ったその瞳は邪悪な色に染められていた。
「……洋介?」
一瞬邪悪な色に染まったその瞳を菜々美は困惑の色に染め直した。そして洋介に声をかけると平静に戻ったように辺りを見回す。
「な、菜々美!? 元に戻ったのか!?」
菜々美の声を聞いた洋介は顔を菜々美に向き直し、慌てて肩を掴む。その表情は希望や不安など様々なものを内在して複雑な心境を感じさせた。
「も、元に戻ったって? 私一体どうして……」
「いい、もういいんだ。元に戻ったならよかった。本当によかった」
洋介はこれ以上複雑なことを考えなくていいとばかりに首を横に振る。どうやら本当に元に戻ったようだと安堵している様子である。
「そういえばここは……」
「ああ、俺の部屋。仕方ないからここに連れてきたんだけど……あっ、言っとくけど何もしてないからな」
「……でもなんかほっぺが痛いんだけど」
「そ、それは……」
「私が知らない間に何をしたのかな?」
「そ、それはやむを得ずそうなっただけで、その……」
頬の痛みを追及されて洋介は言葉に詰まってしまう。暴力の跡が残っていれば誰でも不穏なことを想像するだろう。洋介は背中に嫌な汗が滲んでくるのを感じた。
「……ねえ、ここで私が今悲鳴を上げたら洋介どうなっちゃうかな?」
「……えっ?」
「涙の跡に殴られた跡、証拠は十分だよね?」
「お、おいっ」
「もう洋介は私の彼氏でもないんだから、どうなろうと関係ないしなあ」
「な、菜々美さん?」
「捨てられた恨みもあるし、どうしよっかなあ」
「……本気で言ってるのか?」
洋介は目の前で不穏な言を吐き続けている菜々美に恐怖と不快感を感じ始めていた。どう見ても脅迫をしているとしか考えられない。確かに菜々美を自分勝手な理由で振ったがそこまですることかと憤りが湧き上がってきた。
「本気だとしたらどうするの? どうにか出来る? 押さえつけでもする? そしたら本当に暴行だよね」
「くっ……何が望みだ」
こんな手段に屈するのは本意ではないがやむを得ないと洋介は苦渋の表情で要求を尋ねる。今のところそうするより他になかった。
一方で洋介からその言葉を引き出した菜々美は得意満面である。その満面の笑みから一体どんな要求が飛び出すかと洋介は怒りの気持ちの一方で戦々恐々ともしていた。
「私の望み? そんなの決まってるよ。洋介、私と付き合いなさい。それだけ」
「はあ?」
恨みだとか言ってるからてっきり何か高価な物を買わされるかサンドバックにでもされるかと思っていた洋介はその要求に思わず間抜けな声を出してしまう。理不尽に振られ、さらに自らの
知らない間に部屋に連れ込まれて殴られているというのにまだ付き合ってと言うその考えが分からなかった。
そんな洋介の疑問の声と表情に菜々美はもう一度要求とともに自身の考えを洋介に突き付ける。
「私と付き合って。嫌だというならすぐに私は悲鳴を上げて助けを求める。さあ、早く決めて」
「ちょ、ちょっとお前……」
「いいから早く。それとももっと簡単に決心できるようにしてあげようか?」
菜々美は困惑する洋介にそう言うと自身の着衣を乱し、胸元や太腿を大胆に曝け出す。その姿はいよいよどう見ても乱暴されたようにしか見えなくなっていた。
「お、お前……何考えてんだよ……」
ある意味先程よりも厄介な状況に追い込まれた洋介はもう次から次へと続く想定外の事態の前に気力を失っていた。もう何も考えずに逃げ出したかった。しかしそれをすればすぐさま菜々美は悲鳴を上げるだろう。そうすれば自分は一瞬の内に菜々美を襲い、逃げ出した暴行魔になってしまう。疲れ切った頭でもそれは容易に想像出来た。もう洋介には逃げ場などないのである。
「さあ、もう決めた? それとももっとしないと決断出来ない?」
高圧的に洋介に決断を迫る菜々美は更に着衣を乱し、とうとう下着姿同然になってしまっている。
完全に制服を脱いでしまった上半身にスカートが足首に引っ掛かった状態の下半身。もうどこからどう見ても如何わしい想像しか出来ない。言い訳不可能な状態にとうとう洋介は白旗を上げた。
「……分かった。付き合う……付き合うから助けてくれ……」
「付き合うって言ったね。言ったよね?」
菜々美は確認とばかりに耳を洋介の方へ向ける。その仕草に腹が立った洋介だったが、今の菜々美には逆らえない。大人しく菜々美に交際宣言を告げる。
「俺は菜々美とまた付き合います。彼氏彼女の関係になります。……これでいいんだろ?」
投げやりそうにそう言った洋介だったが、菜々美の方はそんな態度は関係なくその言葉を言わせれば十分だと上機嫌だった。その上機嫌の菜々美の様子を見ている洋介は逆に怒りに震えていた。
「洋介が素直になってくれて嬉しいよ。それじゃ次は付き合うにあたっての注意点を言うね。忘れないでよ?」
「はあ? 注意点? 何だそりゃ」
全く意味の分からない菜々美の言葉に洋介は不機嫌そうに聞き返す。ただでさえ不本意ながらも交際宣言を言わされた洋介の怒りは今にも噴火しそうであった。
「私と洋介の付き合う上でのルールだよ。もう二度と別れたりしないようにこういうことはきちんとしとかないと」
「……おい、いい加減にしとけよ」
とうとう我慢ならなくなった洋介は菜々美の胸倉に手を伸ばし胸倉を掴もうとするが、そこには衣服の胸倉などなく下着と素肌しかなかった。それに気が付いた洋介は手を引っ込めようとしたが、その前に菜々美にその手を掴まれ、菜々美の胸にまで伸ばされた。
「お、おいっ!? 何して……」
「話の途中に私の胸を触ろうとするなんて酷いよね。叫んだらどうなるかな?」
「なっ!?」
「ルール。まだ言ってないけど……呑むよね?」
菜々美の胸を掴んだまま固定されている手がある以上洋介には首を縦に振るしか道はない。洋介はここまで来ると怒りよりも恐れの方が大きくなっていた。幾分か蒼白になった表情で大人しく首を縦に振る。
「うん。物分かりがよくて助かるよ。それじゃルールを言うね」
「……ああ」
「普通にしてれば簡単なことだからね。まずは他の女の子と話しちゃ駄目。特に河野さん」
「お、おいっ! そんな勝手な……」
「警察行く?」
「うっ……」
先程から反論しようとしても最後まで言う前に押え込まれる形が続いている洋介は不満一杯だが、菜々美の恫喝はあまりに効果覿面だった。洋介はすぐに言葉に詰まり、何も言えなくなってしまう。もうこの場は菜々美の独壇場だった。
「話しちゃ駄目。見ても駄目。私がいるんだから必要ないでしょ?」
「それじゃ瞳の護衛はどうするんだよ。不安に思ってる人を放っておいていいのかよ」
「あんなの建前に決まってるじゃない。本音はもっと洋介と親しくなりたいっていうところよ。別に不安になんて思ってないよ、あの人は」
「お前! そんなの勝手にお前が言ってるだけだろう。襲われたんだぞ。不安に決まってるだろうが!」
「……夜、河野さん見張ってみて。多分何も問題なくコンビニとか行ってるから」
「そんなわけないだろ!」
「言い切れるの? だったら様子を見てその兆候が全くないって証拠を出してみて。多分一週間見てれば結果が自ずと出るから」
洋介の反論に淡々と対応する菜々美の様子はもう洋介の知っている菜々美ではなかった。先程の打ちひしがれ、弱々しい菜々美も初めてながら、今の高圧的な邪悪とさえ言える菜々美もまた洋介の知る菜々美ではなかった。こんな本性が隠れていたとはと洋介は今更ながら菜々美と付き合ったことを後悔していた。
「それに言ったよね? 呑めないなら……」
「ああもう分かった! 分かりました!」
投げやりそうに同意した旨を吐く洋介。それでも同意したとの答えを得た菜々美は満足そうだった。
「分かったならそれでよし。次は……」
それ以降延々と菜々美と付き合う上でのルールを叩き込まれた洋介は嫌々ながらもどうしようもないので逐一同意していった。洋介からすれば正直どうかしてるという内容ばかりだったが、言っている本人は大真面目なので迂闊に愚痴すら吐けない。洋介は鬱になりそうだと心中はため息で一杯だったが、その時一つの考えが頭に浮かんだ。
(そう言えば確かに今なら逆らえないけど、ここを乗り切ったら平気じゃないのか?)
洋介は頭の中に浮かんだその考えに希望を見出した。確かに涙の跡に頬を張られた跡、着衣の乱れた姿に、男の部屋。疑う余地のない暴行の現場と化しているが、ここを乗り切って菜々美を帰してしまえばその証拠など何もなくなる。そもそも証拠も何も全て菜々美の捏造ではあるが、それらは全て菜々美の脳内証拠になり下がる。
(仮に明日以降、菜々美に絶縁宣言してそこで脅されてももう証拠はない。むしろあいつの方も脅迫という犯罪をしてるわけだしな)
そう希望を見出した洋介は一気に気が楽になった。ここで菜々美の要求を呑んでも明日以降はそれを強制する力はない。破棄してしまえばいい。仮に菜々美が暴行の件を持ち出してもこちらは脅迫罪だと言ってやれば対等に渡り合える。洋介は考えを改めた。
(今の内は快く要求を呑んであいつを早く家に帰す。そして明日になれば……)
戦略を定めた洋介は以降、菜々美の出す様々な要求を潔く呑んでいった。急に態度が変わった洋介だったが、菜々美は特に疑問を持つこともなく要求を呑ませると上機嫌で帰っていった。そこで洋介はようやく体の力を抜いた。
「はああぁぁぁ……すげぇ疲れた。もう何もしたくない」
ベッドに寝転び、脱力する洋介はまさか自分が脅迫されるとはと考えたこともない状況を思い出して今更ながら身震いする。今回は菜々美の策に粗があったため切り抜けられるが、これがもっと完成された脅迫だったらと思うと気が気ではない。
「もっと慎重に生きてかないと何があるかわからないな……」
あまりの出来事に人間不信になりそうだと思いながら洋介は夕飯も食べる気にならず、そのまま眠ってしまうのだった。