第十六章
(あー、居心地悪い……)
洋介は机に突っ伏しながらそう心の中で呟いた。その表情はまさに疲れ切ったと口よりも雄弁に物語っていた。
時は既に放課後、確かに一日の授業が終了して気が抜ける時間帯ではあるが、洋介の抜け殻っぷりはそこらの生徒の比ではない。本当に魂が抜けてしまったのではと思える程である。
(今日はとにかく精神的に疲れた……)
洋介の疲労の原因は気の病と言えた。心が滅入って体までだるくなってしまっているのである。洋介は病は気からという言葉をまさに身をもって知った心地だった。
(……まだ見てるよあいつ)
洋介は何かに怯えるようにこっそりと後ろを見る。すると洋介の目には一人の少女の姿が映る。それこそが洋介を精神的に疲労させてしまった要因、菜々美だった。菜々美は今日一日中洋介のことをずっと目で追っていたのである。そしてその行為は隠れて行う気など全くなかったようで洋介には簡単に察知出来てしまったのが悪かった。まるで監視されているかのような視線の張り付き方に洋介は疲れ切ってしまったのである。
そしてその行為は放課後になった今現在でも続いている。菜々美は帰り支度をのろのろとしながら視線を洋介に向け続けている。その行動の鈍さは明らかに洋介が先に帰るのを願っていた。洋介が教室を出た後、その後ろを追ってくる気が透けて見えている。そう思うと洋介は突っ伏した体勢から動く気を失ってしまう。
しかしそれでも洋介は動かないわけにはいかない。帰りは瞳を送っていかなければいけないのである。菜々美の視線のことを考えると瞳と帰ることはより菜々美の行動をエスカレートさせそうであったが、洋介は深く考えないことにした。
(まあ、菜々美も今は振られたことで未練があるだけだろ。その内もっといいやつを見つけるはず。何だかんだで人気者だしな)
菜々美が魅力的であることから洋介の考えは深みにははまらなかった。自分よりもいい男などいくらでもいる。菜々美ならそれらの男を捕まえることが出来るどころか向こうから寄ってくる。自分のことなどその内忘れるだろうとややネガティブな思考で自分を安心させた洋介はようやく重い体を起こす。いくら菜々美がいつか自分への未練を断ち切るだろうと考えても、今現在注がれている未練の視線は止むことはないしそれを受け続けるのも疲れる。洋介としては罪悪感を呼び起させるその視線から逃げ出したかった。放課後となり自由の身になった洋介は鞄を持って教室から出る。そこでやっと視線から解放されたものの安心はまだ出来ない。
もしかしたら後から付いてくるかもしれない。そういった考えから洋介の足取りは早足になっていた。
ぐんぐんスピードを上げて昇降口まで向かう。もはや走っているような速度に周りの視線は訝しげだが、洋介としてはそんな視線など問題にはならない。もっと厄介な視線が迫ってくるかもしれないのだ。洋介はまるで競歩のような足取りで昇降口に駆け込んだ。
「あっ、やっと来た。おーい洋介! こっちこっち」
昇降口にやって来た洋介の目に飛び込んできたのは既に靴を履き替えて待っていた瞳だった。洋介が教室で突っ伏している間にもう昇降口までやって来ていたのであろう。洋介は瞳の姿を確認すると何故だか無性に安心出来たような気がしていた。
「すまんすまん。だらだらしてたら時間が経っちまってた」
「まあいいんだけどね。私は送ってもらう立場だし」
そう言って苦笑する瞳を見ていると洋介にもようやく笑顔が戻ってきた。それでも焦る気持ちが残っているのは確かで洋介は会話もそこそこにすぐに靴を履き替えた。そして瞳を促すと昇降口を出る。
「どっか寄る用事はあったりするか?」
洋介は校門までの道を瞳と並んで歩きながらそう尋ねる。家の外を歩くのに抵抗が残る瞳のことを思うと用事があるなら自分が付き添っている間に済ませてやりたい。洋介はそう思い遣って瞳に尋ねたつもりだったが、どうやら瞳は違うように受け取ったようで何やらにやにやと笑っていた。
「何? 寄り道デートのお誘い?」
「ば、馬鹿、違うっつーの!」
からかわれた洋介は顔を赤らめながら必死に否定する。その慌てぶりに瞳は満足そうに笑う。洋介はからかわれてはいるものの、心休まるやりとりにようやく体の重たさや心の憂鬱さが取れた気がした。表情も徐々に和らいできていることが洋介自身でも感じ取れる程である。
(何だか逆に俺が瞳に元気付けられてるな)
洋介としては瞳を安心させるためにこの役目を担っているのだが、今日に関して言えば洋介の方が安心させられている有様だった。情けなくもあるが、持ちつ持たれつのような関係に一方的な庇護という意識が和らげられていた。
瞳との会話で足取りも軽くなったこともあって二人はあっという間に道程の半分までやってきてしまう。普段の洋介であれば押し付けられたこの役目が面倒で解放の時が近付いてきたと気が抜けるところであったが、今日は違っていた。どこか一人になりたくないという感情が洋介に湧き上がってきていた。
「なあ、瞳……。ちょっと俺の家に寄ってかないか?」
洋介は考えるよりも先にそう言葉を発してしまっていた。瞳といることで得られた安心感。それを本能的に求めていたのだろう。洋介は言ってしまってから自分の発言に驚いている有様である。
「えっ?」
瞳は洋介が突然口走った言葉をよく飲み込めなかったのか首を傾げる。瞳のその動作を見て洋介は今更ながらに後悔をしていた。
(お、俺は一体何を口走ってるんだ!? 恥ずかしっ!)
ようやく自分の言動に頭が追いついた洋介は顔を真っ赤にして慌てふためく。そして自分の言動をなかったことにしようと手を左右に大袈裟に振りたくる。
「い、今のは違う、違うんだ! 何言ってるんだろ、俺。あははは……」
空虚な笑いでその場を誤魔化そうとする洋介。しかしその努力も虚しく目の前の瞳は目をぱちくりさせている以外動きが完全に止まっていた。その顔は放心状態で洋介から見たら呆れかえっているように見えた。
(俺は馬鹿か!? またこんなんじゃ疎遠になっちまうんじゃ……)
瞳の反応に最悪の未来を想像してしまう洋介。もはやパニック状態に陥っている彼の思考は徐々にネガティブな方向に動き始めていた。勝手に最悪な想像をしてそれに忙しい洋介はすっかり目の前の瞳から意識を離して、想像の中の瞳に絶望を感じていた。
だが、現実の瞳は決して洋介が思うような反応をしていなかった。悲嘆に暮れる洋介を見て穏やかに微笑み始めたのだ。そこには愛想笑いといったようなわざとらしさはなく純粋に洋介に微笑みかけていた。惜しむらくは洋介がそんな瞳の反応を見ていないことである。
「いいよ。私、洋介の家に寄ってく」
「……えっ?」
瞳の反応の過程を一部見逃していた洋介は瞳の返答に目を丸くしてしまう。彼からしたらそんな返事が返ってくることが予想外だったのだ。苦笑いされるか警戒されて離れていくかといった辺りのことを想像していた洋介は先程までの瞳のように動きを止めて放心状態になってしまう。
そんな洋介の様子に焦れたのか瞳は洋介の手を取り、自ら先導する。
「ほら、そう決まったなら早く行こう? 時間がもったいないよ」
「……あ、ああ」
未だ信じられないといった表情の洋介は瞳に引っ張られてようやく歩き始めた。瞳を送っていく立場のはずがこれでは逆転してしまっている。
「……よし、それじゃ行くか」
洋介は気を取り直して改めて瞳の横に並び、自らの足で歩く。瞳に引っ張られて歩くというのは格好が悪いと洋介は変な意地で今度は瞳よりやや前を歩き始める。そんな洋介のこだわりに瞳は苦笑しながらも可愛いといった表情で洋介を見つめる。しかしその直後、瞳はその視線を後ろに向ける。その眼光は洋介を見つめていた時とは正反対で鋭く、相手を射抜くような威圧感を感じさせた。
「ひっ!」
洋介と瞳の背後数十メートル、壁の角から僅かに見える人影が小さく悲鳴を上げる。瞳の視線を感じ取ったのであろう。その人影はさっと角に隠れて姿を消す。瞳はそれを見届けると視線を前に戻し、洋介に気取られないよう取り繕う。その表情の変わりっぷりは名女優と言って差し支えない程である。
その一方で角に隠れた人物はその怯えた表情を未だに元に戻すことが出来ない。あまりの緊張感に息が切れ、壁に手をつきながら呼吸を必死に整えている。
「くっ、あの女……なんて目するのよ。それに私に気付くなんて……」
そう悪態をつくのは今日一日洋介を悩ませた張本人、菜々美だった。逃げる洋介を追って菜々美はこっそり後をつけてきていたのだが、とうとう気取られてしまった菜々美はもうその尾行を断念せざるを得なかった。
「あの女さえいなければ……」
憎悪の籠った声でそう呟く菜々美は負のオーラに包まれていた。ぎりぎりと爪を齧り、苛立ちが表に表れてしまっている。
「とりあえず今日はもう無理ね。これからどうするか考えないと」
怒りに包まれながらも冷静さを保とうと努める菜々美は燃え上がる怒りの火を消して回りながら今後の対策を考え始める。どうやって洋介に話しかけるか、どうやって瞳を洋介から引き離すか、そのことを考え始めると菜々美の表情には明るいものが表れ始める。しかしその明るいものにはどこか凄惨な要素も含まれていた。