第十五章
洋介が菜々美に別れを告げた翌日、洋介は憂鬱そうに学校へ行く準備をしていた。シャツを着る動作もノロノロとしており、行きたくないという心情が如実に表れている。
(菜々美と顔を合わすのが嫌だな……。あんなことがあったんだもんなあ)
洋介の学校へ行きたくない理由はまさにその一点に集約されていた。学校へ行けば菜々美と嫌でも顔を合わさないといけない。まして同じクラスなのだからその頻度は比較的多い。
(だからって休めないしなあ……。瞳と一緒に行くって約束しちまってるし)
一人で登下校をすることに不安を感じている瞳を安心させるために登下校を共にする約束をしている以上、それをすっぽかすことは許されない。それにそんなことをして瞳に万が一が起こったりしたら悔やんでも悔やみきれない。結局のところ洋介は登校せざるをえないのだ。
(ああ、憂鬱だ)
洋介は時間をかけて着替えを終えると鞄を持って部屋を出る。そして階段を下りてキッチンへ向かうと朝食を取り始めた。
「どうしたの洋介? 今日はなんかだるそうにしてるわね」
「いや、そんなことはないよ」
洋介に朝食を出した母は敏感に洋介の表情と様子を読み取る。さすがに肉親は鋭いといったところだが、洋介は極端に自分の様子を気にしてしまう。実際には本当に僅かな違いでしかないのだが、朝一番に会った人物にそう言われてしまうと不安になるようである。
洋介は努めて明るく振る舞おうと気を入れ直して朝食を取り始める。しかし無理に微笑んだ顔が引き攣ってしまっている。余計に不審な様子になった息子を訝しがりながらも息子を信頼する母親はそれ以上何も言わずに家事に専念する。芝居が上手くいったと勘違いした洋介はそのままの感じを維持することにした。
(瞳に余計な心配かけるわけにいかないもんな。守る側の俺がこんなんじゃ瞳も不安になるだろうし)
引き攣った笑みを維持しながら洋介は一人使命感に燃える。真剣な目に引き攣った笑みという組み合わせは違和感しか呼び起さないが、当の本人はそんなことには全く気が付かない。もはや笑いを取ろうとしているのかという程おかしくなった顔つきにとうとう耐え切れなくなった母親は洗濯物を干しにキッチンから消えた。
母親が去って静けさが支配するかと思われたキッチンだったが、またそこに新たな人間が現れた。それはいつの間にやら家に上がり込んできた瞳だった。瞳は恐る恐るキッチンに入ってきて洋介に声をかける。
「お邪魔しまーす……。洋介、インターホン鳴らしても返事なかったから勝手に入ってきちゃったよ。よかったかな?」
「うおっ!? ひ、瞳か……。誰が入ってきたかと思ったよ」
「おはよう、いきなり入ってきてごめんね。それで今日も一緒に行ってくれるんだよね? 迎えに来たよ」
「ああ、わざわざ悪いな。本当なら俺が迎えに行く立場なのにな」
「ううん、私が我が侭言って付き合ってもらってるんだからこれぐらい当たり前だよ」
瞳はそう喋りながら洋介の向かいの椅子に座り、洋介の食事を見守っている。じっと見詰められて居心地の悪い洋介は先程の引き攣ったようなおかしな笑みを思わず忘れてしまっていた。もっとも恐らく忘れた方がよい代物ではあったが。
「す、すまん。今すぐ食うからちょっと待っててくれ」
照れ隠しもあるのか洋介は猛烈な勢いで朝食を口の中に詰め込む。食べては飲み、食べては飲みとまるで飲み物で流し込んでいるかのような食事に瞳の表情は暗くなってしまう。
「ちょ、ちょっと。そんなに慌てなくていいから! 喉に詰まっちゃうよ!?」
「大丈夫だって、んぐうっ!? ごほごほっ!」
「ほ、ほら、だから言ったのに。大丈夫? はい、お茶飲んで。ゆっくりね、じゃないとむせちゃうよ」
「ごほごほっ、ああ、ありがとう」
喉に食事を詰まらせた洋介は咳き込みながら瞳から受け取ったお茶を飲み干す。そんな洋介の様子を瞳は半ばは呆れた様な、そしてそれでいて幸せそうな表情で見詰めている。何気ない日常の一場面。しかしそれはこれまで洋介と疎遠になっていた瞳にとってかけがえのないものであった。
(中学校時代もこうして朝から一緒に過ごしたかったなあ……)
瞳はここ最近こんな風にもし中学校時代にこうだったらと考えることが増えていた。小学校高学年から疎遠になっていったためにその間の思い出はほとんどない。あったとしてもそれは洋介に辛く当った記憶しかない。それが瞳にとっては取り返しのつかない後悔となっていた。
(もうあの時代は帰ってこない。だから今度こそ後悔はしたくない)
瞳のそうした決意は朝から洋介に接触するという行動に表れていた。もう何一つ無駄に行動をしたくない。中学校時代の分を取り返そうとしているように瞳の接触は積極的だった。それこそ本人の意思としては許されるのならば朝昼晩と常に供にいたいと思う程である。
瞳がそう決意を定めているとその間に洋介の食事は終了していた。既に洋介は支度は完了しているためそのまますぐに二人は玄関へと向かう。
(こうして二人で揃って家から出る。何だか一緒に暮らしているみたい)
瞳は頭の中で幸せな妄想をしながら玄関を出る。その緩んだ顔つきは普段の彼女を知る者からしたら信じられない様子であろう。学内屈指の美人として名高い瞳の呆けた表情。それは学内の彼女のファンからすれば新たな魅力として持ち上げられるかもしれないが、今目の前の人間、洋介にとっては違和感しか呼び起さない。不審に感じた洋介は徐に手を瞳の額に近付ける。
「どうしたんだよ、ボーっとして。熱でもあるのか?」
「えっ……? ひううぅぅぅぅぅうっ!?」
突然の洋介からの接触に瞳は体を一瞬にして沸騰させる。顔も真っ赤にし、体温も急上昇してしまっている。嬉しさ、恥ずかしさ、驚きが一気に瞳の全身を駆け巡っている。
「お、おい。何か熱いぞお前。本当に大丈夫か?」
「う、うん。大丈夫大丈夫。ぜ、全然平気だよ!」
これ以上触れられたら失神しかねない。そう感じた瞳は洋介を振り払ってその場で元気に腕を振ってみせる。明らかにわざとらしい元気の示し方だが、洋介はあっさりそれを信じ込んでしまう。もっともこの場合はそれで間違いではないのだが。
洋介が引いたことで少し冷静さを取り戻した瞳は深呼吸をし、体の火照りを冷まそうと努める。朝からこんな具合では今日一日もたない。洋介の気を引くため密着マークを志した瞳としては初日から飛ばしすぎは避けたい。そんなことをすれば間違いなく瞳はオーバーヒートしてしまう。自らの調子としても洋介への心象としても程々が肝心である。深呼吸によって心を落ち着かせた瞳は洋介と適度な感覚を空けて隣に立つ。
「それじゃそろそろ行こうか」
「ああ、行くか」
二人はそう言うと並んで歩き始める。手を繋ぐでもなく密着するでもなくという微妙な並びではあるが、その雰囲気はまさしく恋人同士のように感じられる。
そしてそんな二人の光景を見つめ、浮かない表情をする者がいた。物陰から顔だけを出して食いつくように二人を見つめる少女。それは菜々美だった。
「洋介……」
菜々美は物陰から姿を現すことも出来ず、ただ二人を見つめることしか出来ない。そしてその寂しそうな菜々美に追い打ちをかけるように洋介の姿は菜々美の視界から消える。角を折れたのだろう。ただそれだけのことなのに菜々美にとってはそれが心を締め付ける。まるで瞳に洋介が連れ去られたかのようにすら映ってしまう。
「洋介……」
菜々美はそれしか言葉を知らないかのようにただただ洋介と呟く。その姿は哀れな捨て猫のようであった。