第十一章
「なるほどね……そういうことがあったんだ」
一通り事情を聞いた奈々美はそう感想を漏らす。彼氏に襲われたことから何から何まで包み隠さず話した瞳の説明は要領を得やすいように纏められており、奈々美も事情を直ぐに飲み込めた。確かに止むを得ないと客観的には言える。
しかし、感情としては奈々美は納得出来ていなかった。色々突っ込みたいところがあるのである。そして話が終わった今、奈々美は瞳に質問をぶつけようと考えを頭の中で纏める。
(このまま納得しちゃったら洋介はずっとこの女に取られかねない。何とかしないと……)
奈々美が納得出来ない要因は全てこの点に注がれていた。納得してしまった場合なし崩し的に洋介を取られてしまうかもしれないという恐れである。決して考えられないことではない。
奈々美はそんな可能性を潰すために必死に頭を働かせ、瞳が洋介から離れるように話を持っていこうとする。相手が相手だけに必死である。
「でもさあ、別に一緒にいるのが洋介じゃなくてもいいんじゃない? 男だから不安だったりするんじゃないの?」
奈々美はここが一番不審だと瞳に回答を求める。男に襲われたんだから男が二人きりで隣にいるのは不安じゃないのかという話である。
だが、そんな奈々美の考えが読み取れたのか瞳は迂闊なことは言えないと顔を引き締めて奈々美の質問に対処しようとする。
「でも話を打ち明けた唯一の人だったし、それに昔から知ってるから安心出来るのよ」
「そ、そうかもね……」
奈々美は幼馴染という説得力の前に二の句が継げない。更に昔から人柄をよく知っているという瞳の言葉にジェラシーを感じるのも否めなかった。
「それに女の子と一緒にいたら、私のせいで犠牲になるかもしれない。それも防げるから最適な判断だと思うけど?」
「うぐぐぐぐ……」
更に根拠を並び立てる瞳の前に奈々美は完全に劣勢になっていた。言い返すことも出来ず、ただただ唸ることしか出来ない。このままではかえって奈々美公認で洋介を護衛として使えることになってしまう。そうなっては非常に不味い。奈々美は焦り始めていた。
「何か反論はある? ないならこれからも洋介には一緒にいてもらおうと思うけど」
「……」
(何か閃け、私の頭脳よ!)
奈々美は黙ったまま、ただ頭をフル回転させることだけに徹する。早く反論をしないとこのまま結論として決定してしまう。そうなっては後から何か言っても彼女だからって洋介を拘束し過ぎなどと言われてしまう。とにかく縋るような醜態では説得力は生み出せない。スマートにこの意見交換の場で決着をつけるしかないのである。
だが、そう分かっていてもなかなかいい考えは浮かんでこない。いや、それどころか焦っているために余計にその頭脳は鋭さを失っていた。
(やばいやばい。何にも浮かんでこない。このままじゃ……)
「ねえ、もういいでしょ? 反論ないんだから」
「ちょ、ちょっと待ってよ! まだ誰もないなんて……ううん?」
考えが行き詰まり、視線を忙しなく動かしていた奈々美の目に不審な物が映った。瞳の後ろにあるベッド、その下に白い何かがあるのである。それは布のように奈々美には見えた。そして更にその布には奈々美は思い当たる節があった。
「うん? どうしたの?」
瞳は不思議そうに奈々美を見つめる。反論を止め、それまで忙しなく動かしていた視線を突然一点で止めたのだから確かに不審だった。しかしそれを仕掛けた本人の癖にそ知らぬふりをする辺りが実に食えない。瞳は心の中ではし済ましたりとほくそ笑んでいた。
そうと知らない奈々美は瞳の狙いどおり徐々にベッドへと体が近付いていっている。そしてとうとう我慢ならなくなったのか露骨に行動を開始する。
「ねえ、そのベッドの下に何か怪しい物があるんだけど見てもいい?」
奈々美は洋介にそう尋ねる。特にベッドの下に疚しいところがない洋介は何かあったっけと思いながらも首を縦に振って肯定の意を表す。
許可を得た奈々美は解き放たれた猟犬の様にベッドの下へと手を突っ込む。そして件の怪しい布を掴むと一気に引っ張り出した。
「……ねえ、洋介。これ何?」
「はあ? 何って……うおっ! こ、これってパンツ!?」
「だよね? しかも女の子の。どういうことかなあ?」
「し、知らない。俺は何も知らないぞ!」
思わぬ展開になった洋介は狼狽しながらも必死に無実を主張する。しかしそのうろたえぶりがますます奈々美に疑心を抱かせる。奈々美は冷たい表情のまま洋介にその下着を突きつける。
「これは私の下着ではありません。ではどうして彼女以外の下着がこの部屋にあるんでしょうか?」
「だから何も知らないんだって!」
「この部屋で下着が脱ぎ捨ててあるって時点で怪しいよね? 何したの?」
「何もしてないよ……」
奈々美の表情はごく穏やかだが、それがかえって怖い。これならまだ激しく罵られた方が分かりやすくていい。こんな表情ではまるで心の奥底が見えなかった。それが洋介には恐ろしかった。そのために洋介は徐々に声が小さくなってしまう。まるで蛇に睨まれた蛙状態である。
そしてそんな恐ろしい状況に更に拍車をかける事態が巻き起こった。なんと横から瞳が出てきて奈々美から下着を引っ手繰ったのである。
「あっ、これ私のだ。ここにあったんだ」
「えっ?」
横から下着を掠め取られた奈々美は呆気にとられた表情で瞳を見る。しかしそれでもその可能性を考えていたのか呆気にとられたのは一瞬で直ぐに表情を冷静で冷酷な笑みに変化させる。
「へえ、それ河野さんのだったんだ。どうしてこんな所で脱いだりしたの?」
「それは言えないわ。恥ずかしいから」
「へ、へえ……人様に言えないぐらい恥ずかしい理由があるんだ……」
「そう。だから想像にお任せするわ」
瞳は肝心なところを曖昧にし、奈々美の疑心を煽り立てる。確かに洋介に喜んでもらおうと思って置いたという理由は恥ずかしくて話せない。そういった意味では嘘は吐いていなかった。しかしそんな事情は瞳にしか分からず、一般的には怪しい淫らな想像しか出来なかった。
そして奈々美はその一般的な想像へと思考が向かっていた。あまりに衝撃的な瞳の言葉に顔を赤らめ、怒りに打ち震えている。もう冷静な顔をしていられないのは明らかだった。
とうとう火山が噴火するという事態を悟った洋介は瞳に文句を言えばいいのか、まずは奈々美に誤解だと言えばいいのか分からず、ただあたふたしているだけであった。この場で最も可哀そうな人間といってもいいだろう。訳の分からぬまま浮気者に仕立て上げられてしまっているのだから。
だが、そんな可哀そうな人間に容赦なく追及の手は向かう。興奮した奈々美は瞳の言葉をすっかり信じ込み、洋介を厳しく睨みつける。
「洋介? やっぱり裏切ってたの?」
「何でそういう風に考えちゃんだよ……」
全く信用してもらえない洋介は悲しそうにうな垂れる。しかしその仕種も今の奈々美には恐れ入ったようにしか見えない。もう猜疑心は否応なく奈々美を支配していた。
そんな二人の様子を見て瞳は喜悦の笑みを隠し切れない。自分の策が思った以上に上手くいっている様は例えようがない程爽快なのであろう。このままいけば二人は大きな溝を開けることになる。そうなれば後は瞳の自由である。ゆるりゆるりと洋介の気持ちをこちらに向ければいい。
もはや勝利を確信した瞳だったが、ここでトドメとばかりに洋介に近付き、洋介の肩に手を乗せてしな垂れかかった。
「洋介は私に優しくしてくれたもんね。嬉しかったなあ」
「なっ……」
火に油を注ぐような瞳の行動に洋介は驚きを隠せない。このままではより一層奈々美の怒りが増してしまう。それを恐れた洋介は恐る恐る視線を瞳から奈々美へと移す。するとそこには鬼がいた。もはや怒りというよりも憎しみすら抱いたような鋭い目つきで奈々美は洋介を見据える。
そして奈々美は怒りや悔しさなど様々な感情のためにぶるぶる震える体を叱咤し、洋介の前に立つ。その威圧感の前に洋介は身動きすら出来ず、ただ奈々美を見上げることしか出来ない。
「な、奈々美……落ち着いて話を……」
「洋介の……馬鹿っ! 最低!」
「ぐあっ!」
洋介の前に立った奈々美は怒りに任せて洋介の頬を拳で殴りつけた。平手ではないところが容赦出来る限界を超えていたことを如実に語っていた。殴りつけられた洋介は唇が切れたのか口の端に血を滲ませながら呆然としている。
洋介を殴りつけた奈々美は息も荒いまま、視線を横に移す。そこには未だ洋介にしな垂れかかっている瞳がいる。瞳を視界に映した瞬間、奈々美の形相は洋介に向けていたそれが生やさしく思える程憎しみに歪んだ。
だが、そんな形相で睨まれても瞳は全く臆することなく奈々美を見据える。挑戦的にすら見えるその態度に奈々美は辛抱堪らず、拳を振り上げた。
「死ねっ! お前なんか死ねばいいのよっ!」
「きゃああぁぁぁっ!」
瞳に対して奈々美の振るった拳は洋介を殴った時よりも更に苛烈だった。あまりの衝撃に瞳は洋介から引っぺがされて横倒しにされてしまっている。殴り飛ばされた瞳の頬にははっきり痕が付いてしまっている。おまけにこちらも口のどこかを切ったのか血が唇から垂れてしまっている。
感情のままに二人を殴りつけた奈々美は息も荒く、その場に立ち尽くしている。暴力を振るって少し気が晴れたのか冷静さをやや取り戻したようであるが、それでもまだ瞳に対する憎しみは消えないのか横倒しにされたままの瞳の顔を足蹴にする。
「あはははははっ! どう? 痛い? でも自業自得だから仕方ないよね。あははははっ」
狂気に支配されたように奈々美は高笑いをしている。瞳の顔に足を乗せ、ぐりぐりと踏み付けているその様はまさに悪鬼そのものである。
奈々美に顔を踏み付けられている瞳はここにきてようやく苦悶の表情を顕わにする。その様子が奈々美にとって更に快感をもたらすのか高笑いはますます大きくなる。
しかし高笑いもその直後、呆気なく消え去った。奈々美のあまりの所業にとうとう怒りを爆発させた洋介は奈々美の肩を掴み、奈々美の上半身を洋介の方へと向かせる。
「いい加減にしろよ……。人も話もちゃんと聞かないし、暴力も振るう……。お前こそ最低じゃないか」
「洋介……」
奈々美は初めて見る洋介の本気の怒りに怯える。先程までの憎しみや怒りに支配された昂揚状態はすっかり醒め、今度は恐怖に体を震わせる。
だが、洋介はそんな神妙な様子の奈々美にも躊躇はしない。瞳の顔の上に足を乗せたままの奈々美を引っ張り、瞳からその体を離れさせる。
そしてそのまま奈々美を扉まで連れて来て、扉を開ける。無言ではあるが、何を言わんとしているか悟った奈々美はとうとう涙を流し始める。
「帰れよ……。もうお前なんか見たくもない」
「洋介! そんな、酷すぎる!」
「どっちがだよ! 確かに誤解させるような行動をとったことは悪かった。瞳も少し悪ふざけが過ぎた。それも悪かった。だけどだからって何も暴力を振るうことはないじゃないか! それも女の子の顔を思いっきり殴りつけた上に足で踏むなんて……」
「あの女が悪いんだよ! 私の洋介を盗ろうとするから……だからっ!」
「それだって俺を信じてくれれば何も問題ないだろう? だけどお前はこうして俺を信じないで暴挙に走った……」
「だって……」
「もういい、帰ってくれ。そして……別れよう」
「!?」
洋介は奈々美にとって最も残酷な言葉を告げた。付き合ってまだ僅かな間しか経っていない。これから幸せな日々が続くんだと信じた奈々美の夢は今、儚くも消え去ろうとしていた。
それでも奈々美はそう簡単に諦めるわけにはいかない。みっともなくても構わないとばかりに泣きながら洋介に縋りつく。
「いやっ! 別れるなんて嫌だよ!」
「駄目だ。そんな簡単に暴力を振るうような人と付き合いたくなんてない」
「いやああぁぁぁぁ……。洋介ぇ……嘘だって、冗談だって言ってよぉ」
縋りつかれた上に泣きじゃくられると洋介も流石に良心が痛んだ。しかしそれでも洋介を信じようとせず、あくまで疑って掛かった態度と暴力を振るうという行動が許せないのも確かだった。洋介は必死にこれでいいんだと自分に言い聞かす。
「くっ……、ほら早く帰ってくれ」
本当はこんなことを言いたくなどない。それでも中途半端が一番良くないと洋介は心を鬼にして奈々美に帰るよう促す。しかし、奈々美は必死に洋介にしがみ付いて離れようとしない。
他方でこんな修羅場を見せ付けられている瞳は呆然とした表情を作っている。ここで喜びを表しては疑いが掛かる。ここが勝負所だと瞳は全力で名女優になりきる。自分はあくまで修羅場に巻き込まれた可哀そうな女だと演技をする。既に余裕をなくしている洋介だけに疑いを持つことは全くなく、瞳の作戦は思いどおりに実行されていた。
(早く退場しちゃえばいいのに。洋介も遠慮せずにもっときつく追い出しちゃいなよ)
瞳が心の中でそう毒を吐いているとその願いどおりに洋介は奈々美を引きずって部屋から追い出した。そして素早くドアを閉めて、鍵をしてしまう。外からは奈々美の悲痛な泣き声とドアを激しく叩く音が聞こえてくる。
「開けてよっ! 洋介、嘘でしょ!? 本当に私を追い出す気なの?」
「嘘も何も俺はもう別れると言った筈だ。早く帰ってくれ」
「そんなあ……謝るから、ちゃんと謝るから許してよぉ……」
激しくドアを叩いていた音は止み、泣き声だけが外から響いてくる。洋介は自分が酷いことをしていると良心の呵責に駆られたが、それでも洋介はおろか瞳の、それも顔を殴りつけてその上踏みつけるという暴挙に及んだことは許しがたかった。洋介がここまでの決断に至ったのは勿論衝撃を受けたことで冷静さを欠いていることも影響しているだろうが、奈々美がまさかこんな行為をするとはというギャップも少なからず影響していた。
様々な要因が重なり、絶縁に等しい状態になった二人を見ていた瞳はここで自分まで嫌われるわけにはいかないと行動を起こす。洋介に近寄り、心配そうな表情を浮かべる。
「洋介……あの……大丈夫?」
「瞳……お前こそ顔の怪我、大丈夫か?」
「うん、でもこれは私が悪ふざけし過ぎたこともあるし……仕方ないかな」
「確かに悪ふざけが過ぎたかなとは思うけど、だからって殴るなんて……」
「ううん、私も悪かったんだよ。ごめんね、洋介。こんなことになっちゃって」
「瞳……。俺こそごめん。殴られる前に俺が止めればよかったんだ。なのに俺ときたら口も挟めないで……」
洋介は奈々美に向けていた表情とはまるで違う瞳を労わる優しい顔をしていた。瞳も本来ならば洋介につまみ出されて説教をされても当然なことをしていたわけだが、あまりにも奈々美の暴挙が酷かったのでその扱いは百八十度違うものになっていた。瞳が殊勝な態度を示していたことも影響しているのだろう。
二人がそう互いに謝りあっていると部屋の外から足音が聞こえた。どうやら奈々美が諦めて帰り始めたようである。洋介は一先ず奈々美が帰ってくれて安堵した。このままドアの前に居座り続けられてはまた酷いことを言ってしまいそうだった。
「洋介……小山田さん帰っちゃうよ。いいの?」
「ああ、それに今はまだ冷静になれる自信がないから」
「本当にごめんね。私が原因で別れることになっちゃって……」
「いや、お前のせいなんかじゃないよ。気にするな」
「洋介……ありがとう。洋介って優しいね」
「……全然優しくなんてないよ」
洋介はそう小さく呟く。現にたった今一時の怒りに駆られて奈々美を部屋からつまみ出してしまったばかりである。その上泣いて縋る奈々美に別れを一方的に告げてしまったのだから。
瞳は自己嫌悪に苦しむ洋介の頭を優しく撫でた。突然の行動に洋介は驚いて瞳を見るが、その優しさが堪らなくなったのか洋介は涙を流しながら頭を撫でられている。瞳はそんな洋介をあやす様に撫で続けた。
(これで洋介の心に占める私の存在はまたかなり大きくなった。作戦大成功ね)
瞳は表面上では洋介を労わり、優しい顔を崩さない。しかし内では陰険な策士の表情を浮かべていた。作戦は思いの外上手くいき、なんと二人を別れさせるという成果を得た。瞳はもし一人であったら飛び上がりたい程の喜悦を感じていた。
(あとは洋介の心を奪っていくだけ。ゆるりゆるりとね)
思わずいやらしい笑みが浮かびそうになった瞳は洋介を優しく抱きしめた。洋介もまたそれを気にする余裕すらないのか涙を流し続けている。
全てが上手くいき、最高の展開が目の前にお膳立てされた瞳は洋介を抱きしめながら背中を擦る。据え膳は遠慮なく頂かないとね。瞳は望どおりの展開に舌なめずりをしていた。