鏡よ、鏡
手も足も、気づけば真っ赤に染まっていた。無数の細かい切り傷がつき、血が滴り落ちているという認識はあったが、不思議と痛みは感じない。
興奮作用が、一種の無痛状態をもたらしているのだろうか。
浅い呼吸と共に白い吐息が漏れる。身体の芯まで冷え切っているにも拘わらず、かじかんでいた手足がわななき、ドクンドクンと熱く脈打っているのが分かる。
視線を落とすと、床一面が鏡の破片で埋め尽くされていた。鮮血にじわじわと彩られていく。
たった今、自分で叩き割ったのだ。部屋中に張り付けた鏡全てを、破壊した。
もう怯える必要はない。わたしは解放された。
しかし、緊張を解いた途端頭に激痛が走り、意識は暗闇に閉ざされた。
* * *
重い瞼を開けた。ぼんやりとした視界に景色を捕らえる。白い天井に白い壁。風がふわりとレースのカーテンを膨らませている。
窓から差し込む陽の光が目に痛い。耳鳴りがする。蝉の鳴き声のように五月蝿く、不快だ。
わたしは、寝台に仰向けで横たわっていた。身体を動かそうにも力が入らない。声を発しようと口を開けたが、上手く言葉を紡げない。
そうしている内に部屋の扉が開き、白い服を着た若い女性が入って来た。わたしと目が合った女性は、驚いた表情で足早に近づき、「Nさん、分かりますか? Nさん」と何度もわたしの名前を呼んだ。そこでわたしは、ここが病院なのだと理解した。
やがて看護婦に呼ばれた医師が慌ただしくやって来て、わたしを診察した。
「まさに奇跡的な回復です。あなたは、ずっと生死の境をさ迷っていたのですよ」
Sと名乗る男性医師は興奮覚めやらぬ様子で語る。歳は三十代半ばぐらいだろうか。わたしと大差ないように思える。いやに不健康そうな生白い肌をしていて、医師というより病人の風貌だ。
どこか見覚えのある顔のような気がしたが、記憶が混濁していてよく思い出せない。
S医師の話によると、わたしはクモ膜下出血で倒れ、緊急手術を受けたものの意識が戻らず、三日もの間昏睡状態に陥っていたらしい。
水で何倍も薄めたみたいに記憶が曖昧だったが、徐々にかけらを拾い集めていくと色濃く残る断片が浮上して来た。
そうだ、わたしは……。
「何があったか覚えておられますか? ご近所の方が鏡の破片が散乱する部屋の中で倒れているあなたを発見して、病院に運ばれたのですよ」
S医師の話で、わたしは不鮮明な記憶を掘り起こす。
わたしは鏡師であった。小さな工房で日々、銅を使った和鏡を製作していた。
鏡に傾倒するようになったきっかけは、幼少期にある。
物心がつく頃には父親はなく、後々女とどこかへ消えたのだと知った。母親は母親で、わたしには無関心だった。泣きじゃくるわたしの横で、化粧台に向かう母の姿だけがはっきりと脳裏に刻まれている。息子よりも鏡の中の自分を着飾るのに夢中だった。
わたしは何の為に生まれて来たのだろう――。
いつしかそればかりが頭の中をぐるぐると旋回するようになった。自分の存在意義が解らなくなり、寂漠とした感情だけが心を支配した。
そんなわたしの孤独を癒してくれたのが、鏡である。
毎日鏡に問うた。わたしは誰だ? 何者だ? すると鏡は答える。お前はお前だと。
鏡に映る我が身に、わたしは陶然とした。左右逆転の世界に全く同じ表情、仕種をする“自分”が愛おしくて堪らない。そして、確かな存在感と生きている実感をもたらしてくれる。自己否定を肯定に塗り替えてくれるのだ。
成長し、鏡職人となってからはますます自己確認の回数が増えていった。細胞の全てが生命を維持するように鏡を求めた。そのおかげで、わたしは自分で在り続けられた。他の何者でもなく、世界にただ一人の揺るぎない存在であると。
結婚して子供を授かっても、わたしは鏡の世界を愛してやまなかった。寧ろ一層のめり込み、魅入られた。
妻のわたしに対する愛情は確固たるものではあったが、いつか枯れ果ててしまうだろうと思っていた。愛が永遠ではないと知っていたからだ。幼い息子であっても同様で、他人の妻とは違って血を分けた我が子であるはずなのに、わたしの存在証明には脆弱に感じられた。
わたしは干涸びそうになる自己存在感を、やはり鏡に求める他なかった。
月日が経ち、鏡に対する執着はついに極限に達した。
家を増築して広さ四畳程の六角形の部屋を設け、八面全てに鏡を張り詰めた。天井も壁も床も、常にわたしを映すように。
ランタンを持ち込み扉を閉めると、反射し合って無数に細分化したわたしがわたしを見つめる。絶対的な存在感が洪水のごとく押し寄せて来る。そこには、あやふやで不安定な自分は皆無であった。
わたしは、あたかも万華鏡の中にある色紙の小片になったような気分で舞い踊り、至福の時を過ごした。
ところが、それは突然訪れた。
ある日鏡部屋に入ったわたしを、目眩に似た感覚が襲った。
鏡に映る自分が、どこかいつもと違う。気のせいと言われればそれまでだったが、今まで感じなかった微かな違和感がこびりついて離れない。家具の配置がミリ単位でズレているような、微細な不一致。一見普段と変わらないが、よくよく見ると何かが異なっている。
対になるべきはずなのに、実際の自分と鏡に映る自分が統一していないのだ。
言明できない違和感の正体を、わたしは鏡を穴が開く程凝視しては四六時中考えた。
しかし、考えれば考える程答えは出ずに煩悶し、違和感は日に日に膨れ上がっていった。
次第に鏡像と目線が合わなくなり、鏡同士が反射して映る、奥の奥の、そのまた向こうの自分に視線を合わせようと努めてみても逸らされた。無表情でいるはずの顔も薄ら笑いを浮かべ、あるいは捩曲がり、歪むようになった。
現実の自分と鏡に映る自分が日増しに乖離していく様に、わたしの神経は摩耗していった。仕事が手につかなくなり、頭には白髪が混じり、目は落ち窪み、隈が出来て頬がこけていった。
唯一受け入れてくれた鏡に拒絶されたという事実が、わたしを虚無のどん底に突き落とした。
「こんなのはわたしじゃない! わたしは一体誰なんだ!」
幾ら鏡に向かって叫んでも、答えは返って来ない。
そうしてわたしは、正気を失って自我が崩壊してしまう前に、鉄パイプで、あるいは素手で、不安を打ち消すように鏡の部屋を破壊したのだった。
ひとしきり回想に想いを馳せていたわたしは、喉の渇きを覚えて口を開けた。けれど、声が出なかった。
それでも、半開きの口が開閉するのを見て悟ったのか、S医師はすぐに水の入った吸い口をわたしの口に運ぶ。
「いずれにしろ、しばらく入院が必要です。クモ膜下出血の後遺症で歩行が少々困難となっていますので、リハビリをして徐々に慣らしていきましょう。声の方は一時的なもので、心因性によるところが大きいと思われます。余程ショックな事があったのでしょうね。鏡を発作的に叩き割るという行為からして、鏡自体が今のNさんの心に負担をかけると思いますので、落ち着くまで鏡のない生活をしましょう」
鏡のない日常など想像し難かったが、わたしはS医師に従うしかなかった。もう違和感の正体について頭が破裂しそうになるまで考える事に疲れ果てていた。
「焦らず、ゆっくり治療していきましょう」
そう言ってS医師はわたしの手を握る。目を向けると、両手には指先まで包帯が巻かれていた。腕からは点滴の管が伸びている。
医師はわたしの視線に気づくと、慌てて手を離した。
「すみません。痛かったですか?」
わたしは僅かに首を横に振り、顔の前に右手を持って来て緩やかに動かしてみせる。痛みはないが、あまり力は入らない。握力が衰えたのか弱々しい。鏡をがむしゃらに叩き割ったせいかもしれない。
「両手足共に無数の創傷がありましたが、すぐに傷口も塞がって元通りになります。それまでは包帯をはずさないようにして下さい。少しの間は車椅子移動となりますので、トイレに行きたくなったり何かあった場合はすぐにコールして下さいね」
わたしは力無く頷く。全身を虚脱感が纏っていた。
S医師の治療は徹底していた。鏡は勿論の事、姿が反射して映り込むようなガラスや金属などを完全に排除した。窓は曇りガラス。食器はプラスチックといった具合に。
わたしの心は穏やかで、さざ波一つ立たない静けさに満ちていた。
幾日か過ぎた。にも拘わらず、相変わらず接触するのは医師と看護婦だけで誰も見舞いには来ない。元来親しい友人などがいた訳ではなく、工房の人間とも仕事上の付き合いだけで別段懇意にしている者はいなかったが、妻が様子を見に来ないのは些か気になった。一目散に駆け付けるものだと思っていたが、とうとう愛情が枯渇したのだろうか。
でも、わたしは心のどこかで妻と顔を会わさずに済んでいる事に安堵している。このまま愛想を尽かされ離縁となれば幸いだろう。
妻のわたしに対する愛情は、どこか狂気を孕んでいた。独占欲と嫉妬心が強く、過剰な愛情表現を真正面からぶつけてくる。わたしにはそれが重荷で、苦痛だった。
一度だけ妻に手を挙げた事がある。
「あなたは異常よ。私達より鏡を愛してる。鏡の中の自分を。もううんざり。さっさとこんな部屋取り壊して、いい加減目を醒まして!」
妻は割れんばかりの悲鳴を上げ、鏡部屋に閉じこもるわたしを責め立てた。
気付けば、わたしは妻を平手で殴っていた。わたしという存在を、その存在の救済措置である鏡を侮辱された気がした。無機物の鏡に対して嫉妬心を燃やすという愚かしい感情にも、憤りを覚えた。
それでも、妻はぶたれた頬をさすり涙ながらに訴える。
「これからは私があなたの鏡になるわ。だからお願い。私だけを見て!」
声高に叫ぶ妻に、わたしは空恐ろしいものを感じた。
それからというもの、妻は言葉通りわたしの鏡となった。わたしが右手で箸を持てば、妻は利き手ではない左手で箸を持ち、わたしが手を付ける順番通り食事をする。重く息苦しい空気が食卓を取り囲んだ。
わたしが音を上げてもうやめてくれと怒鳴っても、妻は聞く耳を持たず同様に怒りを露にし、やめてくれと怒鳴って来た。
まるで罰だと言わんばかりの妻の厭がらせじみた行動に辟易したわたしは、妻と距離を置くべく鏡部屋に長時間籠もるという回避策を取った。
ああ……そうまでしたというのに、結局わたしは違和感の海に溺れ、狂態を演じ、自ら鏡部屋を破壊した。
望み通りの結果に、妻はさぞや喜んでいるだろう。想像しただけで口惜しくてならない。
「Nさん、お加減いかがですか?」
看護婦が病室にやって来て、わたしの思考は中断された。
「問題は……ない」
わたしは短く答える。
「しっかり発声出来るようになりましたね。それに食欲もあるみたいで、何よりです」
看護婦は嬉しそうに微笑む。いましがた昼食を食べ終えたばかりで、食器は空になっていた。粥ばかりの味気ない食事が続くが、不満はない。元より食に関する興味が薄いのだ。
幾許かは喋れるようにもなった。まだ短い単語でしか伝えられないのが実にもどかしいが、回復に向かっているのは確かだ。
「妻や息子は……どうして来ない?」
不意に尋ねてみる。来訪者がいない点について言及しないのも不自然な気がした。
「今は……Nさんは面会謝絶になっています。ですので、会いたくても会いに来られないのかと……。そのうち、もう少し回復すれば面会出来るかと思います。一応、先生に打診してみますね」
看護婦は、しどろもどろに答えた。顔が妙に引き攣っている。
「そうか……」
わたしはとりあえず得心した面持ちになる。
看護婦が退室し、わたしは横たわった状態で何とはなしに天井を見つめた。
妻はともかくとして、息子には申し訳ないという気持ちがあった。あまり構ってはやれず、寂しい想いをさせていた。罪悪感が胸を衝く。わたしに似て神経質で、妻に似てどこか危うい子だったように思う。
六歳の幼い目から見て、わたしという人間はどのように映っていたのだろう。
夕食後、S医師が何冊か本を持って訪れた。
「退屈でしょう。よかったらどうぞ」
わたしは身を起こし、手渡された本をペラペラとめくり、少し本から目を離して活字を追う。だいぶ日焼けしている古書ばかりだったが、退屈凌ぎにはなりそうだった。
「Nさん、鏡以外にも意識を向ける事が大切です。それが精神面での回復に繋がります。鏡を造るお仕事ですから対面せざるをえないでしょうが、なるべく囚われないよう心に働き掛けるのです」
医師は柔らかい口調で助言する。
「自己確立の手段は、何も鏡に自身を映すだけではありません。誰かから必要とされる事。家族や友人、恋人などですね。他者を愛し愛される事で、自分を容認出来るのだと思います。Nさんにも大切なご家族がいらっしゃるでしょう」
「妻は……わたしを愛していない。見舞いに来ないだろ」
わたしは本に目を落としたまま、ぼそりと呟いた。看護婦は面会謝絶と言っていたが、そこまでの重症とは思えない。妻は自分の意思で訪ねて来ないのだ。
「それは……」
医師は困惑したように声を沈ませる。案の定、面会謝絶というのは嘘だったらしい。
「実は、Nさんが心を乱さないよう黙っていたのですが、奥様も今別の病院で入院されているのです」
「えっ」
意外な回答に、わたしは本から顔を上げて医師を見た。
「奥様も精神面で不安を抱えていらっしゃって、ケアが必要な状態でしたので、大事をとって入院を。神経症ですので、そこまで心配する事はありません。知り合いの、信用のおける医師にお任せしましたのでご安心下さい。ああ、息子さんはご親戚の方が預かって下さっています。ただ、ご両親が不在ですので、少々落ち込んでいるみたいです。ですので、Nさんはお二人の為にも一日でも早く回復されるのが先決です。では、今日もお薬出しておきますのでお休みになる前に必ず飲んで下さいね」
そう言って、医師は部屋を後にした。
わたしは話に耳を傾けながら、S医師に訝しいものを感じていた。
やけに内情に詳しい――。
やはり、以前どこかで会っていてS医師と面識があるのかもしれない。わたしの知人か、妻の知人か、はたまた……。
包帯が巻かれた頭にそっと触れる。倒れる前に感じた激痛は、今は嘘のように消えている。両手足も同様だ。
わたしは生きているのだろうか。ひょっとして、もう……。
ふっと疑念が湧いたが、それを確かめる術がない。
わたしはゆるりとした動作で寝台を降り、のろのろと窓辺に近付く。多少は自力で歩けるようになった。
窓を開けると、窒息しそうな暑い空気が室内になだれ込む。堅牢な鉄格子の隙間から景色を見遣ると、鬱蒼とした木々が生い茂る中で、油蝉のけたたましい鳴き声が響いていた。最初は耳鳴りかと思っていたが、勘違いだったらしい。蝉の抜け殻が落ちている。わたしの現在の状態も抜け殻に等しい。
目に映る光景は、都会の雑多に塗れたものとは異なり、心を和ませる。自然に囲まれ、療養には最適な場所と言えるだろう。
しかし、わたしは違和感を覚えずにはいられなかった。
真偽を確かめるべく、外へ出てみようと部屋の扉に手をかける。だが、扉は開かなかった。
鍵がかかっている――。
「どうして……」
わたしは眉根を寄せた。
鉄格子といい、これではまるで“軟禁”されているみたいだ。いや、実際そうなのかもしれない。
わたしは隔離されている。ここは閉鎖病棟なのだろうか。思えば、医師と看護婦以外、他に患者がいる気配がしない。
わたしは、わたしだけが、精神異常者の烙印を押されてしまったのか。狂人だから、目の前の景色に違和感を覚えるのだろうか。
“飼い殺し”という言葉が脳裏をよぎる。
「そんな馬鹿な」
懐疑的な想いが膨らみながらも頭を振って打ち消し、わたしは寝台に戻った。そして、いつも通り医師から処方された薬を飲もうとしたが、躊躇いが生じて結局飲むのをやめた。
蒲団に包まり、身体を丸めて目を閉じる。全てを忘れて眠ってしまいたかった。
瞼の裏に、輪郭さえ定かではないのっぺらぼうの自分が浮かぶ。
眉、目、鼻、口……。
必死に自分の顔を描き出そうとするも、それらがどんな形でどのような配置で納まっていたのか、まるで思い出せない。自分がどのように笑い、泣き、怒っていたのか表情を思い浮かべようとすればする程、消え失せていく。
「わたしはわたしだわたしはわたしだわたしはわたしだ……。他の誰でもない……」
掠れてくぐもった声で強く己を諭す。それなのに、堂々巡りの疑問がまたぞろ頭をもたげ始める。
わたしは一体、何者なんだ――。
自分が自分であるという軸がぐらりと揺れ動き、他人のような感覚が蠢き出す。
それはさながら、砂漠でオアシスの水を捜し求める旅人のような気分だった。渇いて渇いてしょうがない。
たとえ違和感に打ちのめされたとしても、ほんの一瞬でいい。希薄な存在感に潤いを与える為には、自身の姿を鏡に映すしか方法はない。医師は他に目を向けろと言っていたが、わたしのよすがは結局のところ、鏡でしか有り得ないのだ。
――深夜。耳に届くのは虫の音だけで、病室にはテレビもラジオも新聞もないせいか、時が経つのがやけに長く感じる。
わたしは蒲団を剥いで起き上がり、気を紛らわすべく覚束ない足取りで壁の方に向かう。
暗がりの中で分厚い壁に両手をつき、そして、頭を思い切り打ち付けた。
「くっ……」
鈍い音と共に額が割れんばかりの痛みが襲う。それでも、生きている実感が少しは持て、続けざまに頭を打ち付ける。
しばらくそうしていると、異変に気づいたのか足音が駆けて来て扉が開いた。
「Nさん! 何て事を!」
S医師が病室に飛び込んて来て、わたしの両手首を掴んで壁から引き剥がす。わたしは絶叫しながら抵抗した。医師は看護婦を呼び、何事か指示をした。
怪我の治療を施された後で、わたしは両腕両足と胴体を拘束具で縛り上げられた。寝台に張り付け状態で、これからあたかも人体実験が始まるようだった。暗鬱とした思いが加速する。
拘束具を装着したまま一週間が過ぎた。
「おはようございます。今日もいい天気になりそうですね」
早朝、S医師が病室に顔を出して快活な声でカーテンを開けていく。わたしは太陽の眩しさに目を眇めつつ、小さく言葉を発した。
「先生……頼むよ。もうこれをはずしてくれ」
拘束具で自由を奪われ憔悴し切っているわたしからの懇願に、医師は痛ましそうな顔で念を押す。
「二度と自傷行為をしないと誓っていただけますね?」
わたしの頷きを確認した医師は、やっと拘束具を解いてくれた。
日がな一日、天井を凝視したまま自分とは何か、考えを巡らせた。点滴に戻され、股間にオムツを当てがわれながらも、ずっと――。
だが、そんな筆舌に尽くし難い生活は、もう限界を越えていた。
「Nさんの命を守る為とはいえ、僕も心苦しいものがありました。看護師はこの状況が堪え難かったのか、ついに辞めてしまいましたが……」
医師は溜め息をついて肩を落とす。
そういえば、このところ看護婦の姿を見掛けなかった。辞めていたのか。
時折病室を訪れては、身動きの取れないわたしに水を飲ませてくれた看護婦。その度に何か言いたげな顔でこちらを見ていたが、あれは一体……。
わたしは何やら腑に落ちないものを感じた。けれど、わたしが言及するよりも先に医師が口を開いた。
「気を揉む必要はありません。Nさんは静養する事だけを念頭に置いておけばよいのです。余計な雑念は心労の元ですからね」
医師は言い含めるように述べる。それ以上追求するのは何となく憚れた。
その時、医師の胸元に黒みを帯びた染みが点々とついているのが目に留まった。目を凝らしていると、医師はわたしの視線に気づき、「ああ」と言って苦笑する。
「朝食で、ついうっかり醤油を飛ばしてしまいましてね。白衣は目立って困ります」
医師は口元に笑みを残したまま眉間に皺を寄せ、指で染みを何度も擦る。
「先生……わたしはいつになったら退院出来るんだ? 鏡像に感じた違和感は、脳の病が引き起こしたものだったんだ。でも、手術は成功して治ったんだから、もう鏡を見たって平気だろう?」
か細い声音で怖ず怖ずと訊くわたしに、医師は嘆息をつく。
「Nさん、焦りは禁物だと申し上げたはずです。まだお若いのですから、長い目で考えましょう。心身共にもう少し回復してからでないと退院を許可する事は出来ません。それに、鏡に感じた違和感は脳の病によるものではありません。実際、身体の回復は順調であるにも拘わらず、禁断症状が出ておられる。精神面がまだ治癒していない証拠です。今はお辛いでしょうが、ここを乗り越えないとまた発作が起きてしまう可能性があります。そうなると、今度は本当にアイデンティティが崩壊してしまう恐れもあるのですよ」
「……アイデンティティ?」
聞き慣れない言葉に、わたしは眉を顰めた。医師は一瞬言葉に詰まり、目をしばたたかせる。
「自己同一性……人格における存在証明、という意味です。とにかく今は治療に専念して……」
「外界の情報を遮断して、幽閉するのが治療だって言うのか。あんた……わたしを精神異常者だと思ってるんだろ。だから誰とも会わせず隔離してるんじゃないのか」
わたしは医師の言葉を遮るようにして食ってかかる。
「Nさん、あなたはまだ鏡に執着し、依存している。医者として、そんな情緒不安定な状態にある患者を退院させる訳にはいきません。どうかご理解下さい」
医師はパイプ椅子に腰掛け、どうにか宥めようとわたしの肩に手を置こうとしたが、わたしはそれを振り払った。
「病人扱いするな。わたしは……もうどこも悪くない。頭も両手も痛くないし、心も正常だ。寧ろここに閉じ込められてる方がおかしくなる。まるで死人みたいで……生きてる感じがちっともしない。いいから、さっさとここから出せ!」
喉の奥から嗄れ声が迸る。自分でも驚く程弱々しく、それでいて憤怒に満ちた声だった。未だに包帯が巻かれたままの両手が小刻みに震える。
S医師はそんなわたしに憐憫の目を向ける。
「Nさん、どうか心を鎮めて下さい。自己判断はよくありません。快気したかどうかを決めるのは医者である僕の役目です。全てはあなたの為なんですよ。たとえ身体が回復していたとしても、現状ではまだあなたの心は鏡に蝕まれています。お忘れですか? 廃人同様に表情を失い、自分が誰だか解らなくなるような底知れぬ喪失感を味わったのを。思い出して下さい。その時の恐怖心を」
「やめろ!」
わたしは堪らず耳を塞ぐ。
「さあ、とりあえず今日はお薬を飲んで眠りましょう」
医師は柔和な口振りで薬と水の入ったコップを差し出す。わたしはそれを払いのけた。床に白い錠剤が転がり、コップが割れた。
「何を盛られてるか……分かったもんじゃない」
「軽い安定剤です。害はありません」
フッと笑う医師。わたしはとうとう我慢ならずに寝台を降り、コップの破片を拾って扉に駆け寄る。
「来るな! わたしは出て行く。あんたは信用出来ない」
制止しようとする医師に破片を突き出して牽制し、部屋を出る。
外への扉を見つけて飛び出し、生い茂る樹木の中を無我夢中で走る。足が鉛のように重く、すぐに息が乱れた。一週間身じろぎ一つ出来ず、点滴でしか栄養を摂っていなかったから体力が落ちるのも無理はない。しかし、そんな事は構っていられない。気力で肉体を奮い立たせて足を前へ踏み出す。
わたしはただひたすら求めていた。狂おしい程、激しく。
鏡、鏡、鏡、鏡、鏡――。
目が眩み、玉のような汗が噴き出す。耳障りな油蝉の鳴き声がわんわんと反響する中、荒い呼吸を整えるべく木の幹に左手をついて立ち止まる。その際、包帯がはずれかかっているのが目に入った。
何だ、これは……。
包帯の隙間から覗く皮膚の異変に、わたしは自分の目を疑った。
その時、首筋に鋭い痛みを感じ、わたしはその場にくずおれた。
「鏡は、あなたにとって毒でしかない。どうしてそれが解らないんだ」
上から悲痛な声が降って来る。わたしは朦朧とする意識の中、声の主を仰ぎ見て小首を傾げた。
S医師は、わたしを目にしながら泣いていた。
* * *
Sは、鎮静剤を打たれて眠るNを見下ろした。
鏡に狂い、狂わされたというのに、それでも尚鏡に救いを求めて踊らされるNを、Sは哀れに思わずにはいられなかった。
枯れ枝のように痩衰えたNの身体を抱え、家に戻って部屋のベッドまで運ぶ。乱れた白髪を整え、取れかかった左手の包帯を巻き直す。毎晩、Nが寝静まったのを見計らって取り替えていた。手足の傷はとっくに完治していたが、皺や染みを隠す為に包帯ははずせなかった。
Nは脆い人間である。現実を受け入れる器を持ち合わせていない。いつも鏡の世界に逃げていた。鏡だけが、心の拠り所だった。
視界がぼやけ、再び頬を涙が伝う。Nの老いた顔を見つめている内に込み上げて来るものを、Sは抑えられなかった。
奇跡的な再会を果たした。三十年振りの、父と子の対面。
医者からも匙を投げられ、ずっと眠り続けたまま二度と目覚めないと諦めかけていた。それでも、願いが通じたのかNは覚醒した。
会った瞬間、心なしかNが慈しみの篭った瞳でこちらを見つめた。Sは三十年分の想いが決壊しそうになるのをぐっと堪え、あくまで医者として接した。
遠い日の記憶が呼び起こされる。
Sの幼少期は愛に飢えていた。
父親であるNは、始終全面鏡張りの奇妙な異空間に閉じこもっては、映る自分に喋りかけて恍惚に浸っている。
一度だけ、Sはその異様な部屋に足を踏み入れた事があった。でも、自分が何百にも分裂したような有様に錯乱し、泣き喚いてすぐに部屋から飛び出した。
「お父さんは心の病気なの。だから私達をほったらかして、ずっとああして鏡と睨めっこしてるのよ」
母親はよく吐き捨てるようにして零していた。その言葉の意味を当時は理解出来なかったが、そうしていないと父親は自我を保てない不安定な精神状態であったのだと、今なら理解出来る。
そんな母親は母親で、自分よりも鏡に執心するNとの絆を全力で繋ぎ止めようとしていた。
両親共に我が子には目もくれず、必然的にSの幼心は孤独に追いやられていった。
最初から家族関係に入っていた亀裂。それは年月が経つにつれ徐々にひび割れが深くなっていき、ついには粉々に砕け散った。
あの惨劇の光景は、今でも鮮明に目に焼き付いている。
雪がちらつく程冷え込んだある冬の日。Sは明け方近くにはっと目を覚ました。鏡部屋の方から連続して何かが割れる音が聞こえて来る。
Sは眠気眼をこすりながら鏡部屋へ向かい、開けっ放しのドアから室内を覗いた。するとそこには、鏡の破片が床一面に散らばる中、手足と後頭部から鮮血を流して倒れている父親と、その側で泣き崩れている母親の姿があった。すぐ横にはガラス製の灰皿。それには血がべったりと付いていた。
恐らく母親は、壊れていく父親を見るに耐え兼ねて、正気に戻ってほしくて殴打したのだろう。
父親は救急車で運ばれたが、意識不明の重体で遷延性意識障害と診断された。脳幹や小脳は機能が残っていて自発呼吸も出来るが、回復するのは稀だと告げられた。
母親は殺人未遂容疑で逮捕され、その後、獄中死した。自殺だった。
Sは施設に入り、里親に引き取られてから猛勉強の末、医者になった。根底に父親を救いたいという想いがあったのかもしれない。
義理の両親はSを愛してくれた。しかし、Sは窮屈で居心地の悪さを感じていた。愛されようと必死に自分を演じる内に、本当の自分が少しずつ欠けていく気がしていた。
自分を欺く事に耐え切れなくなったSは、義理の両親から離れて一人暮らしを始めた。けれど、皮肉にもそれからすぐに義理の両親が揃って事故死した。
Sは、また独りになった。
この世で肉親と呼べる人間は、もうNしかいない。そう思い至ったSは、義理の両親から受け継いだ遺産で自宅を改装し、植物状態の父親を自宅療養する為引き取った。そして、覚醒する可能性を信じて毎日マッサージをしたり、音楽を聴かせたり、話し掛けたりを繰り返した。Nは時折応えるように身体をよじったり、大きく瞬きしたりして今にも目覚めそうだった。
Sは、Nがいつ覚醒してもパニックに陥らぬよう、頭や手足に包帯を巻いて当時の状態を保った。
希望を捨てず、長きにわたる努力が実を結んだ。
これから時間をかけて親子関係を再構築するには、まず家族崩壊の原因である鏡を排除する必要がある。今Nが鏡を見たところで、三十年もの月日が流れた自分自身を容認する事は到底出来ないだろう。それこそ発狂し兼ねない。時の経過を悟られてしまえば、Nの精神は確実に崩壊する。柔な心が抉られ、ショック死する可能性をSは何よりも危惧した。
悲しいかな、Sが息子だと名乗っても信じるよりも先に拒絶反応が上回るに違いない。
「可哀相な父さん。でも、安心して下さい。もう鏡に怯える事も狂わされる事もない。僕が守ってあげますから。これからもずっと、父さんの支えになります」
Sは、再びNの身体を拘束具できつく縛り上げてから退室し、ドアに鍵をかけた。
自室に戻り、吐息をついて胸を撫で下ろす。
夕暮れが迫り、室内が薄闇に包まれていく。
三十年という長さを埋めるのは並大抵の事ではない。それでも、Sはやっと安息の場を見つけた気がして口元を綻ばせる。
その時、ふと背後から強い視線を感じた。
振り返るが、誰もいない。そこには姿見があるだけだった。
Sは何気なく近寄り、鏡に映る自分の姿をまじまじと見据える。
疲弊した青白い顔。白衣の胸元には、看護師を殴り殺した際に付着した返り血が点々と染み付いている。
仕方がなかった。あの看護師は、いつ何時口を滑らすか分からない危険性があった。
やり方についていけなくて辞めるのは構わない。だが、ここの情報が外部に漏れたら困る。植物状態の人間が三十年振りに覚醒したと世間に知れ渡れば、Nは好奇の目に晒されるだろう。そうなれば、ただでさえ不安定な精神状態に拍車を掛ける事になる。だから看護師には永遠に口を封じてもらう必要があった。
死体は裏庭に埋めた。これでもう、漏洩の怖れはない。
「僕は間違っていない。そうだろう?」
Sは、おもむろに鏡に映る自身の顔に手を這わせ、言葉を投げる。
いつからこうして“自分”と対話するようになったのだろう。それはまさに、心の均衡を保つ儀式に等しい行為である。
幼い頃体感した、鏡部屋での脊髄を貫くような衝撃。その際に湧き出た感情は恐怖ではなく、歓喜だった。自分が唯一無二の存在であるという絶対的な安心感が、そこには満ち溢れていた。
子は親を映す鏡――。
Sもまた、鏡の世界に耽溺してアイデンティティを保っていた。
鏡は毒にも薬にもなる。Nは使い方を誤ったが為に狂いが生じたが、自分は決してそうはならないとSは自負していた。
「父さんを愛するが故の行動だ。やむを得ない犠牲なんだ。父さんだって解ってくれるさ。僕がこれだけ愛情を示しているのだから、反射するように愛してくれる。そうだろう?」
尚も鏡像に語り掛けるS。反応はない。油蝉の鳴き声だけがやたらと耳につく。夕日が沈むにつれ、滑らかな鏡面に映る姿に影が濃くなっていく。
今日も茹だるような暑さだったはずなのに、何故か冷や汗が背筋を滑り落ちた。
「……きっと、疲れが溜まってるんだ。だから、これは気のせいに違いない。目の錯覚だ。そうに決まってる……」
Sは表情を硬く強張らせ、自分に言い聞かせるように呟きながらゆっくりと後退る。
さっきから、口の開閉が合っていなかった。鏡像の方が僅かに遅れて言葉を紡いでいる。
「そんな、まさか……」
Sは目を剥き、声を震わせる。
いつの間にか目線もはずれていた。
鼓動が早鐘を打ち、名状しがたい不安感が纏わり付く。
「僕は僕だ僕は僕だ僕は僕だ。他の誰でもない!」
Sは目を血走らせ、頭を掻きむしりながら吠えた。
そして、鏡に向かって思わず問い掛けた。
「お前は……誰だ?」
今年は締め切りギリギリになってしまいましたが何とか提出できてホッとしております。相変わらず遅筆で推敲にも時間がかかりました。危うく自分もゲシュタルト崩壊するところでした(笑)
最後までお読み下さり、ありがとうございました。