第八章 援交斡旋協定
陽平は窓の外を見ていた。正確には見ているように見えた。うろこ雲の形がさっきとは少しだけ違っているように思えた。空気は正常だった。依然として、とてつもなく平穏だった。
「あのー……」
令子は再びパスケースから、今度は名刺判の写真を取り出し、DVDの上に置いた。
「ちょっとよろしいでしょうか」
令子は少し大きめの声で言った。陽介は令子の方へ向き直った。
令子は今置いた写真を指差して「その人、汐屋夕子といって私の友人なんですけど、一度会っていただけませんか」と早口で一気に言い終え、安堵のため息をついた。
二度もたこ焼きを落とした日、二人の間である協定が結ばれた。内容はといえば、夕子が英国あたりで尼にならない代わりに、令子が取材した相手を紹介するというものである。その日、夕子に「行くよ、英国に行って尼になっちゃうよ。明日にでも大学なんか止めて、英国に行っちゃうよ」と脅迫され、承諾せざるを得なかった不平等協定である。はっきり言って売春の斡旋を請け負わされた訳だ。相手は、大企業でないにしろ、優良企業の経営者なので社会的信用に関しては問題ない。令子の目から見て余程問題があるか、女性の場合を除いて、全て紹介する決まりである。
もちろん令子も、はいそうですかと引き下がった訳ではない。
「夕子自身がゲージュツみたいなものなのに、それを売りものにするなんて、矛盾してるよ」と食い下がってはみたが「容姿なんてスーパーフラットの範疇でしかないわよ。等身大のフィギュアに負けてるし」と切り捨てられ、ぐうの音も出なかった次第である。
令子はまた、消費者や利用者にも取材しているが、協定では例外を除き全て女性と見なしてもよいと謳われている。例外とは言うまでもなく資産家のたぐいである。
「会う」と、即座に良平が答えたことは、令子にとって以外だった。陽平の人となりから類推して、「会わない」と答える筈だと高をくくっていたからだ。協定を結んで日も浅いが、既に令子は何人かの男性を夕子に紹介してきた。彼らは写真を見ただけで全てを察し、また紹介者が令子であることに安心したので、後は夕子の援助交際用電話番号を伝えるだけでこと足りた。特に名刺のようなものを用意しなかったのは、その方が秘密めいた匂いがして楽しいからという夕子の提案だった。
夕子は、中世以降のヨーロッパにおけるフリーメイスンの活動について、令子に話してくれたことがある。そこにはシャボン玉なんて存在しなくて、例え夕子が自由奔放に振舞ったとしても、周囲の空気は微動だにしないということだった。
「将来二人してフリーメイスンの世界に侵入することになったら、決して私から離れちゃ駄目よ。立場がまるで逆転してあんたなんかきっと窒息するか、さもなきゃせっせとシャボン玉をこしらえることになるから」と言うときの夕子は母親の顔をしていた。
果たしてそうだろうかと令子は思った。仮にダヴィンチやモーツァルトの時代に夕子がいて、共にフリーメイスンの活動をしていたとすれば(もっとも、ダヴィンチの時代にフリーメイスンは誕生していなかったはずだが)モナリザの顔が夕子で、世界遺産になっている。ピアノ協奏曲代二十七番が、夕子のせいで姿を変えオゾン層を突き抜け、宇宙と交信している。そんなことを空想する令子の頭の中で、この世のものであり得ない音楽が響いて消えた。令子はピアノのレッスンを三年間で放り出したことを、初めて後悔していた。
しかし、その音楽を令子自身が欲している訳ではなく、今の日本はモーツァルトが持て囃される条件が整い過ぎているので、一儲け出来るかもというような、姑息な考えでしかなかった。
令子が中学生になり勉強を強要され始めてからしばらくの間、夕食時には母の好きなモーツァルトが流れていて、ストレスの表層部分を解消する音楽として機能してくれた。しかし彼の音楽は、勉強することによるストレスの全てを相殺するものではなかった。
高校へ入学してからの令子は、強要されることがなくなったにも拘らず、勉強することで自分自身にストレスを課すようになっていた。その頃には、祖父が聴いていたジャズやブラームスが、令子のストレスの大半を解消してくれるようになっていた。モーツァルトがヒーリングミュージックとして商業ベースに乗る意味を理解できたときには、祖父の部屋にモーツァルトがいないことなど、何ら支障のないこととなっていた。
これは今は亡き祖父の見解だが、大脳皮質にはクオリアが発動るためのステージが何段階かあって、表層から少し進んだ欲望に反応すると第一段階のステージでクオリアが踊り始め、深層の欲望に近付くに連れて第二段階、第三段階と進んで行くということだった。
一体第何段階まであるのかと令子が尋ねたとき、解らないという答えが返って来た。クオリアステージ仮説については、大脳生理学に基く科学的な実験を行った訳ではないが、祖父と令子の大脳皮質が体験した事実であることは間違いない。
体験の中では、面白い現象が幾つかあった。モーツァルトの音楽では第一ステージにも満たないものから第三ステージまでのそれぞれで、クオリアが踊りだすのだ。要するに大脳皮質に第一ステージしか用意されていなくとも、それなりに欲望が満たされるということだ。
音楽においては、ほとんどの場合第三ステージでクオリアが発動するのであれば、第一ステージまたは、第二ステージのクオリアしか持ち合わせのない場合、発動することはないのだ。また、第三ステージのクオリアが発動した場合、第一ステージと第二ステージのクオリアは沈黙しているはずなのだ。そこに、モーツァルトの音楽に神秘性があるとすれば、その一点であろう。クラシック音楽の愛好者や、プロの演奏家に異論がある場合は、すみませんでしたと謝るしかない。
ブ ラッドメルドーを第五ステージで聴いたからと言って、他の第五ステージの音楽や、また音楽以外のもので、第五ステージに位置するものに、クオリアが発動するかと言えば、全くの所そうではない。例えばブラッドメルドーの音楽に限ってみても、令子にして、未だどのステージも発動しない曲があり、それが第五ステージであるか、それ以上のステージであるかは謎である。
祖父の一般クオリア理論によれば、第五ステージが発動するようになったときには、第四ステージまでの全てのものについては、必ず発動するはずである。ただ音楽に限っては、ジャンルが違えばとてつもなく例外が存在する。これもまた祖父の見解であるが(歌詞を別とすれば)音楽に関してのクオリアが最も関連性に乏しい。その理由としては、それ自体メタフィジックスであるからだ。
令子の祖父は、既に資本主義の終焉を迎えた日本の将来に、クオリアが必要であるにもかかわらず、トップに君臨する者(でも操り人形)たちの都合で、未だ排除に腐心している社会システムを指して、クオリアの危機と呼んでいた。
令子はずっと男女共学の学校へ通っていた。小学校の間は全く気にならなかったが、中学へ入った頃から男子生徒の行動が、女子との間で根本的な相違があることを発見した。今振り返ってみるとその理由は以下のようなものだった。
行動を女子に限ってみれば、第一に、勉強(秩序に耐える訓練としての、欲望を満たすため以外の努力全般を指す)のストレスを抱え、発生する欲望をクオリアのステージ(体力を消耗するスポーツ、勉強すること自体に欲望を見出す研究者の立場を含む)で相殺しようとしている子。
第二に、勉強のストレスを抱え、発生する欲望をクオリアのステージ以外(商業ベースに乗ったスーパーフラットなゲージュツを含むマスターベーション)のものに向けてしまい、相殺出来ずにいる子。
第三に、勉強しないで、大したストレスもなく、小さな欲望をクオリアのステージ以外のものに向けている子。
ところが、男子の場合は決定的に異なっている。女子の第一、第二、第三パターンのそれぞれに、望もうと望むまいと性的衝動という非常に大きなストレスが付加されているのである。それによって、男子の行動には女子とどれ程の相違が現れるのだろう。
まず、第一のケースを男子に当てはめると、性的衝動によるストレスが加わった分だけ、クオリアのステージに向けられる欲望が大きくなる。それによって、クオリアのステージが飛躍的に成長する可能性を秘めているのだ。
第二のケースでは、勉強と性的衝動の相乗作用による膨大なストレスを、相殺どころか助長してしまい、資本主義という秩序が生産する何万種類の欲望に翻弄される、典型的なパラノイアと化してしまう。第二のケースに属する人間は、資本主義の公理に基く秩序に生きているので、無理が生じたときには、ノイローゼとなって自分を責めるか、分裂を発症し、社会を含む全てのものを否定することになる。ノイローゼの場合は秩序を肯定しているので、資本主義の秩序を順序立てて正当化することにより、社会に適合した一般的に理想とされる人間となるか、適合出来ずに自己否定の塊となり、自殺することになるかも知れない。分裂を発症するのは、元来資本主義の公理に否定的であったにも拘らず、親の強制などにより、無理矢理良い子になっていたのだから、資本主義の正当化などを説くことは逆効果であり、結果としては精神崩壊となり、殺人も含めた非社会的行動に及ぶことになる。
第三のケースでは、ストレスの質が強制された秩序ではなく、性的衝動であるので、精神的に問題があったとしても、フロイト的な分析で対応することが間違いではないだろう。
社会に出た場合は勉強の部分が社会に置き換わるので、第三のケースだけが問題となってくる。ここでも男子の場合を考えてみると、第二ケースで判断すべきだが、根本的に違った側面が浮かび上がって来る。
中学、高校を通じて社会的秩序に基いた生き方を学んでいないので、社会と対峙した瞬間から分裂を発症し、共存する道はオタク化する以外には残されていない。ストレスに消費行動という麻薬を与え、精神を麻痺した状態に保ち続け、限界になれば精神的な治療を施し(分裂しているので、社会に適合するのは困難であるから、単に休息を取るに過ぎない)
これこそが行き止まりの資本主義にあってなお、過剰な消費を生産するために求められる人材だと言える。休息を取ることで回復しなければ、親の保護から抜け出すことの出来ないパラサイトと化すのである。
これらは学校での生活を無視しているが、仮に勉強でのストレスを与えるものであっても、厳しくすることを避けて悪戯に時間を束縛するだけのものであっても、それでは第二のケースと第三のケースを、より推し進めることになるからである。
クオリアのステージを活用する第一のケース以外に、資本主義の呪縛から解き放たれる道はないのであるが、ほとんどの親がクオリアの第一ステージすら活用していない状況では、望むべくもないことである。
学校の先生にしても第二のケースで育てられ、ノイローゼと分裂の狭間でもがいている状況である。
運良く、第一のケースで育って来た先生がいたとしても、国が定める学校教育の基本方針が極めて資本主義的である。クオリアの磨ける土壌は一家相伝ともいえるのが、消費的欲望の氾濫する情報過多時代における日本の惨めな現状である。
クオリアに関する欲望の数は、過去からのスタンダードなものを含めてもそんなに多くなく、限られた者が生きる証として創造しているに過ぎない、にも拘らずクオリアに関係のない欲望の数は、消費的であるのでスタンダードを無視したとしても、膨大な量が存在し、全ての産業により生産され続けている。このような現代日本社会に生きる子供たちが、偶然クオリアに巡り会い、第一のケースで育って行く機会はゼロに等しい。
夕子に男性を紹介した後のことについて令子は一切関与していなかったし、その必要もなかった。後に厄介な問題など起きるはずがないからだ。それは、社会的信用を大切にする人々をターゲットにすることの、重要なメリットでもあった。
今回も協定どおり任務は遂行された。後は夕子の電話番号を伝えれば、それで一件落着、何の問題もない。令子は、そう心に言い聞かせようとしたが、試みは成功しなかった。
二人は出会ってしまうだろう。そして夕子は……。上手くいこうといくまいと、それはとても不幸なことに思われてならない。きっと夕子は令子のことを責めるに違いない。どうしてそんな人を紹介したのかと言って。
覆水盆に返らず…。令子は携帯電話で時刻を確認した。午後四時を少し過ぎていた。
「もうアルバイトに行かなくちゃ…。申し訳ないんですが、パチンコ店まで乗せていただけますか?」
令子は車窓に浮かぶうろこ雲の形を確かめるように、ぼんやりとカーオーディオから流れる音楽を聴いていた。最初に乗車したときからずっと、浜崎あゆみのイマチュアーが鳴っている。ディスプレイに目をやると、リピートの文字が点灯していた。
「あゆ、お好きなんですか?」
「イマチュアーは好き」と、陽平は答えた。
「あっ、そうなんですか」
令子も大好きな曲だった。
明日からは、もう二度とこの人に声をかけたりすることはないだろう。もしかすると、店からコーヒーを差し入れすることになって、持って行ったときに「お疲れさまです。コーヒーでもいかがですか」というくらいはありかな。そんな取り止めのないことを令子は考えていた。
「これ、さっき紹介した汐屋夕子さんの電話番号のメモです。他のと一緒にしときますね」
令子はDVDと、さっきの名刺を自分の膝の上に置いていた。
「その子美人」
「そうですね」と、半ば投げやりに答えた令子は、気持ちの一部が萎えていくようで妙な息苦しさを覚え、助手席側の窓を少し開けてみた。空気が動き、車内には遠い海の気配が流れ込んだが、心の中までは届かなかった。
パンドラの箱を開けてはならない。全ての箱は邪心という現実に満たされている。人はただ、箱の表面に描かれた幻想を、見ていればいい。そしていつか気付くことだろう、自分も幻想に過ぎなかったことに。
「モスラサークルこれで三人」
令子の耳に、それは遠い潮騒のように響いた。
陽平は汐屋夕子のことを、モスラサークルの片割れであるとだけ認識していたのだ。