第六章 夕子との遭遇
今年の六月、下宿生活にも慣れ、経営心理学の取材も開始したある日の朝。電車から降りてキャンパスまでの道のりを、いつもどおりたらたら歩いていた令子の背中をつんつんしたのがモスラで、声をかけてきたのがモスラのぬいぐるみを手にした夕子だった。
「あーっ!あーっ!……。知らない人!」
令子は振り向き様に夕子を指差して、初めて会った人への驚きを表すように叫んだが、実際はそうではなかった。
令子は彼女を覚えていた。彼女は昨日通学電車の中で、人目をはばからずボロボロ涙を流していたのだ。乗降客の多い時間帯なので、二両編成の電車に空席はなかった。とは言っても会社などへ通勤する人はほとんど逆方向なので、電車に乗り合わせているのは大学生か、もう一つ先の駅にある女子高の生徒たちだった。しかもほとんどの女子高生が、自分自身を題材にしたスーパーフラット・アーティストだったので、未だ「貧乏の勧め」を実践している令子には、なおさら居心地が悪かった。
鮮やかに染色された頭髪、個性的な化粧とピアスとネイルアート、同じ制服であるはずなのに、恐るべきアイデンティティーにより、それぞれに全く違ったスーパーフラットの極みともいうべきコーディネイトが施されていた。
中でも令子が眼を奪われたのは、今どきガングロ?と言いたくなるくらい真っ黒な顔をした二人組みだった。しかも、その二人組みは明らかに令子のことを意識していた。どちらも如何にも健康そうで、笑顔が可愛かった。身長は一人が令子と同じ百六十五センチくらいで、もう一人はそれよりも十センチくらい低く、かもし出す雰囲気が、令子が大学に入って最初に知り合った友達と、どことなく似ていた。
彼女たちが目立っているのは、何も色が黒いから、奇抜ないでたちをしているからという訳ではなかった。他の女子高生と違って、あるときはノートに見入って、考え込んでみたり、そうでないときは、譜面のようなものを見ながら、リズムを取ってみたり、時々はお互いのノートを交換して、意見を述べ合っているようであったりと、ガングロ二人組みの周りには、常に何かしら緊張が漂っていた。
そして、時折令子の方に少し挑発めいた視線を投げ掛けて来るのだ。たまに眼が合うたびに、令子は慌てて下を向き、息苦しさに耐えていた。令子は彼女たちの正体を掴んでみたい衝動に駆られたが、もちろん話しかける勇気など、持ち合わせていなかった。
その車両の中で、令子はみすぼらしい服を着たダサいお姉さんと化してしまっていた。だが、そこはポリアンナ効果の継承者を自負する令子であるので、素朴なお姉さんとして注目されているんだろうくらいに考えるようにしていた。ところが昨日は、乗車して一駅過ぎた頃から全く様子が違っていた。ガングロ二人組みはもちろんのこと、他の女子高生たちの視線も、あからさまに令子の方へと注がれていた。
令子の座席の前で、吊革に右手を絡ませている女子学生を見上げたとき、謎は解けた。危うく身震いしてしまいそうに整った顔、その驚くほど大きな眼からは、信じられないくらい大粒の、まあるいダイヤモンドのような涙が、堰を切ったようにこぼれ落ちていた。
女子高生たちは令子ではなく彼女を見ていたのだ。そして、奇跡の証人となってしまった彼女たちは、その幸福あるいは絶望にとまどっているようだった。涙の粒は令子の膝の上に置かれたショルダーバッグにもポツポツ落ちていた。令子が思わず差し出した手のひらにポタリと落ちた涙は暖かくて、少し胸が痛んだ。迷惑だとは思わなかった。ハンカチを貸してあげようかと思ったがやめた。そのままにしておくことが自然だと思えたからだ。その感触は、一日中令子の手のひらに残っていた。
そして翌日、振り向けばそこに夕子がいた。
「それ見して」
彼女は令子のショルダーバッグに恥ずかしそうにぶら下がっているモスラのストラップを指差した。
令子は立ち止まり、ストラップをほどいて彼女に見せた。
「交換して」
そう言うよりも早く、彼女は令子の手からストラップを奪い取ると、モスラのぬいぐるみを差し出した。令子は同じストラップを何個か持っていたので、何ら問題はなかった。ただ、ぬいぐるみを入れた令子のショルダーバッグから、モスラの触覚と頭の一部がのぞいていたこと以外には。
令子は午前中二度の講義をモスラと共に無事切り抜け、待ち合わせていたキャンパス内のラウンジで夕子と昼食を取った。名前とお互いの電話番号やメールアドレスを交換した以外、自己紹介など一切しなかった。ただ、夕子が「ブラームスはお好き?」と冗談のように尋ねたときに、令子が「好き好きだあい好き、マッケラスの交響曲第四番とかさ。」と自己紹介代わりに答えると、夕子は「へーっ、あんたもマッケラス好きなんだ。サーなんて卿付きのおじいさんなのに、若い指揮者に比べても全然重厚じゃないもんねえ。あのウキウキ感って絶対に流行ると思うんだけどなあ。思わない?」と言って、打ち解けたように笑った。
「流行んない。流行っちゃったら困るし」
「それもそうか。みんながいいと言ってるからいいなんてことになると、モスラ、ブラームス、マッケラスの法則は崩れちゃうよね」
「夕子って意外とアカデミックなんだ」
令子がそう言うと、夕子は「モスラのどこがよ」と、反論してから「アカデミックと言えば、今年も梅雨がないじゃない。梅雨入り発表なんてしてるけど、当たんないのよねえ。環境と経済に最早アカデミックなんて通用しないことに一刻も早く気付くべきよ」と言った。
「天気予報も資本主義も末期ともなれば、流動環境学、流動経済学としての解を求めるべきなのに、オーソリティーなんて拠るべきところがないとただの飼い犬だもの。気付いていたとしても、政治とか経済はネオコンの手先に牛耳られているしね」
それ以外は、食事中も食後にアイスコーヒーを飲んでいるときも、会話の中心はモスラだった。ガメラやゴジラが子供の味方なんだといくら主張しても、本質は怪獣であることに変わりはない、モスラだけはモスラという唯一無二の存在だなどと。
その時、僅かばかりの沈黙が流れた。お互いに何か忘れている気がした。
「キングコング」
二人の言葉はシンクロしていた。確かに子供の味方であり唯一無二の存在だ。しかも世界標準ときている。沈黙が流れた。二人は少し悔しかった。
「でも可愛くない」
二人の言葉はマナカナしていた。夕子はマナカナとは全くタイプの違う超美人だった。令子はマナカナよりほんの少しブスだった。
そしてもう一点意見が合ったのは、二人ともモスラが実在することを主張してはばからなかった。大学生にもなってそんなことを本気で言う人間が、自分以外にいたということが、令子にとって不思議であり驚きだった。
程なく、令子は周囲の空気が普段と違っていることに気付いた。ラウンジの片隅のテーブル。令子と夕子が熱く語り合っているその場所だけが、ぽっかり浮かび上がって、まるでシャボン玉の中にいるようだった。遠巻きに観察しているような、男子学生の好奇に満ちた視線。少し妬ましそうな女子学生の視線。おかしなことに、女子学生の視線の先にいたのは令子の方だった。そうか、みんな夕子とお近づきになりたいんだ。令子は改めてその端整な顔立ちを見つめていた。芸能人でもないのに、一挙手一投足注目を浴び続ける日常ってどんなだろう。そんなことを考えていると少し気が滅入った。
「なによ」
夕子は重くなった空気を察知して、少し苛立ったように令子を睨んだ。
「友達になってね」
笑いながら令子が言うと、夕子は平然と「あんたは親友」と言ってのけた。
親友という言葉の裏に潜む夕子のはかりごとに、素直な令子が気付く由もなかった。
令子の下宿は夕子の下宿より一駅遠くにあったが、令子は出来る限り時間を合わせて夕子と一緒に通学するようになった。夏休みが近くなる頃には、昼食中にもシャボン玉現象は起きなくなっていた。
あるとき夕子が言った。
「あんたのくすみパワーってすごいよね。そのみすぼらしい格好のせいもあるけど、何かそれとは別の天性の素質のようなものを感じちゃうわ」
令子は「えっへーん!」と胸を張り、テレビの宣伝でゴジラの真似をして口から放射能を吐き出す、キッスキッズの真似をして見せた。
夕子は笑っていた。令子以外観客のいないステージで、けらけら笑っていた。賑わうラウンジの中にあって、二人は今や普通の女友達に過ぎなかった。とんでもなく華やかな夕子と、対極にいる令子。霊感というものを持ち合わせた人間がいるとしたら、夕子の放つ全てのオーラが、まるで宇宙のガス状星雲がブラックホールに飲み込まれるように、令子に吸収されている現象を目の当たりにすることだろう。
しかし、ラウンジにも通学電車の中にも、街角の雑踏にもそんな人間は存在しない。もしいるとしたならはっきり言える、その人間はきっと腰が抜け、救急車で病院送りになることだろう。