第四章 ねえおじいちゃん
悲喜こもごもの小世界の外で、慈愛に満ちた晩秋の夕暮れが放つ光は、パチンコ店にいる客の誰一人にも届いてはいないようだった。パチンコという彼らの欲望は、何も本源的なストレスを相殺する必要から生じたものではなく、パチンコそれ自体に射幸心を煽られ発生したものだ。そして、打ち続け、負け続けることにより増幅するストレスは、パチンコ台の支配下での相殺は不可能である。
「でも世界はまだ続いている、チャンスがなくなった訳ではない」
田所令子は、パチンコ屋でアルバイトをしている最中に、心の中でそんな訳の分からない言葉を呪文のように繰り返していた。祖父が亡くなってからもうすぐ一年が経とうとしているが、亡くなる直前の病院での祖父との会話が、夕暮れ時になると今でも鮮明に蘇ってくる。
「そろそろ夜は冷えてくるね」
令子は、個室になっている病室の窓のカーテンを引きながら、ベッドに横たわっている祖父の顔を見た。窓から差し込む晩秋の夕陽が、頬の肉がすっかり落ちてしまってもなお、柔和さを失わない祖父の表情に彩を添えていた。
「受験勉強は進んでいるか?」
丸椅子に腰掛けた令子に祖父が言った。
「高校生になってからは、勉強のことは言わないんじゃなかったの?」と令子が言うと、祖父は「ああそうだったな」と言って笑った。
祖父は夏の終わりから入院していた。今年八十歳になった祖父は肺癌で、そのことは既に祖父にも告知されていたが、意に介していないようだった。
「相変わらず冴えない格好をしてるな、無理しなくてもいいのに」
祖父は令子のみすぼらしいまでの服装を見て、申し訳なさそうに言った。
「チープな感じが新しいの、おじいちゃんには分からないんだよ」
「そっか、それならいいんだが」
祖父はそれ以上何も言わなかったが、令子の服装は流行などとは無縁のものだということは祖父にも分かっていた。
令子が生まれるずっと以前、祖父が会社を退職して以降、祖父の家族(祖父、祖母父の三人)は祖父の取り決めた「貧乏の勧め」に則って生活して来たのだ。
どのような貧乏かというと、まず持続的な空腹感を抱くことが最優先だった。空腹であれば、食欲に勝る欲望以外に囚われることもないという「正しく欲望する生活」という理念に基いているとはいえ、家族にしてみればさぞ迷惑であったことだろう。広い庭の大部分は、家庭菜園となり、令子が物心付いた頃には既に祖母は亡くなっていたが、祖父、父、母、要するに家族全員が農作業の達人と化していた。令子にしても小学校を卒業する頃には、すっかりその構成員となっていた。
令子は通学するにもみすぼらしい格好をしていたので、家に遊びに来た友達は大きな家と広い菜園を眼にして、例外なく驚き、学校では「令子ちゃんのお母さんはシンデレラに出て来る意地悪な継母に違いない」という風評が立った。
様様な理由で、或いは理由もなく苛められる子はいたが、令子には苛められた記憶というものがなかった(小学生のとき、一度そのような状況はあったのだが、令子は忘れているというより、そのときにすら気付きさえもしていなかった)王子様に巡り会うまで継母から虐げられ続けたシンデレラは、貧しくとも母親の愛情に包まれて育った子よりも、同情を引き易かったのであろう。
家庭での食事は、菜園で取れた野菜料理と、その時々の廉価な魚を様様な方法で調理したものが通常の夕食だった。
もっとも、毎月一度は家族揃ってレストランで夕食を取ることになっていたので、贅沢な料理を知らない訳ではなかったが、令子にはあまり馴染まなかった。
小学生の頃、令子は母から冗談めいた繰れごとを聞かされたことがある。父と付き合い始めて間もない頃、月一の行事であるレストランでの食事に招待され、まんまと引っ掛かって結婚したと言うのだ。
祖父の入院まで続いた月例行事は、シャトー・ラトゥールの好きな祖父が、唯一捨て切れなかった贅沢であった。祖父は、ボルドーのヴィンテージ以外のワインは好きではなく、ロマネコンティーなども飲んだことがなかった。祖父にとってラトゥールは、世界で一番好きな食べ物だった。
おそらく月一回のレストランの費用だけで、一カ月の分の食費の半分以上を占めていただろう。「ハレの日」的な要素を含んでいたと言えないこともないが、令子はその都度「貧乏の勧め」と矛盾しているなと感じていた。だが、祖父が亡くなって一年が経とうとする今では「貧乏の勧め」とは、お金があろうと無かろうと、欺瞞に満ちた資本主義システムに振り回されないことだったんだなと理解出来た。
大手広告代理店に勤めていた祖父が突然退職したのは、会社が空前の成長を遂げていた一九七三年の十二月のことだったと聞いている。その時もちょうど令子の父が高校三年生で、受験勉強の真最中だったそうだ。
「私は家族の受験の邪魔ばかりしているな。」
祖父が申し訳なさそうに言った。
「ねえおじいちゃん。何故会社を辞めちゃったの?」
それは令子が以前から疑問に思っていたことだった。中学生のとき父に尋ねると「その頃ちょうど団塊の世代の若手社員が台頭して来て、リストラされたんだってさ。」ということだったが、令子は全く納得していなかった。
祖父は暫く考え込むように眼を閉じた後ゆっくりと話し始めた。
「一九七三年だったかな、オイルショックで原油の輸入が危機状態になった年だ。トイレットペーパーの買占め騒ぎもあった。コインロッカーに嬰児が置き去りにされていたという報道には驚いたものだよ。光化学スモッグが問題になり始めた時期でもあったなあ。ニクソンショックというのもあって、ドルと金の交換が停止になった年でもあったよ。将来、実物経済が金融に呑み込まれるであろうという危機感が芽生えた時代だった。経済成長の意味が問われると同時に、孫の行く末が心配になったものさ。最も令子はまだ生まれてなかったけどね。そんな時、業界の友人にノストラダムスの予言についての本を見せられてね。ノストラダムスは令子も知っているね。」
「うん、知ってる。」
今では死語だが、世の中が世紀末ブームだった頃「ノストラダムスの大予言」は、小学生の間でも大変な話題となっていた。しかし西暦二千年を通り過ぎると、コンピュータの二千年問題同様、誰も口にしなくなっていた。
「彼は本を開き一九九九年7の月のくだりを指して、ノストラダムスからは予言と警鐘の連鎖を読み解かなければならないというような意味のことを言ったんだ。その時には意味が分からなかったし、一週間後に彼は死んでしまったけれどね。」
「その人って、小学生の頃モスラを観に連れて行ってもらったときに、おじいちゃんが持っていた写真の人?」
他の映画は令子がせがんで連れて行ってもらっていたが、モスラシリーズだけは、いつも封切られた初日に祖父の方から誘ってくれていた。モスラ2を観に行ったとき、祖父は誰かの写真を膝の上に組んだ手に持っていた。
「そうだよ。彼が逝ってしまってからちょうど四半世紀経った日が、モスラ2の封切り日だったのは感慨無量としか言いようがなかったよ。その頃になってようやく彼が言っていた警鐘の意味が分かったよ。今なら令子にも分かると思うが。」
「うん、その人って凄い人だったんだね。」
「今でも鮮明に覚えているが、彼が亡くなる数カ月前、豊かさの側面について私に笑いながら話していたよ。『俺は地球が無限だという条件の下で、流行を追うこと、消費することが豊かさだという刷り込みに加担して来た。
資本主義=マクロなネズミ講だからな。自分が欲しくもないものに魔法の化粧を施してさ。資質として豊かでない人間がターゲット・オーディエンスだった。中でも最も力を注いだのが、ステレオタイプの統合化だ。ジェンダー、年齢、バックボーンなどを細部に渡って考慮すれば、商品を売り込むのも大変だからな。
男・女、大人・子供、巧みにパブリシティーすることで、その程度のステレオタイプの区分で十分な市場環境を整備して来た。勿論一〇%の経済的下層部と、一%の上層部の者を除いてのことさ。しかも、それは予想以上に成功したと思う。まあ、日の出ずる国の神話を喪失した人間なんて、金に任せた贅沢くらいしか拠り所がないから、当然と言えば当然の結果だがな。
ところが、公害やオイルショックで、地球と経済成長は無限ではないと思い知らされて……。それ以上に予想外だったのは、日本国民が金という最悪のアイデンティティーを、世界に向けて叫び始めたことだ。惨め過ぎるよなあ、馬鹿だよなあ俺も……。
この先どうすればいい?最善の方法論を俺は手にしている。それは魔法ではなく真実だ。しかし、昨日まで先頭に立って旗を振っていた俺が、どの面さげて伝えればいいのか。
近い将来俺はリタイアするだろう。謝罪と示唆を込めた、ほんの小さなメッセージに未来を託して』と。
彼のメモはメディアによって公表されたが、リプレゼンテーションされたメッセージは彼が望んだ形ではオーディアンスに届かなかった。時代は何も変わらなかった、むしろアクセルを踏み込むことを選んだ。
他に残された彼の遺品といえば、カメラと数枚のレコードだけだった。葬儀の後、私は彼の母親から一枚のレコードを貰い受けた。それはブッカー・リトルのものだった。その後すぐに私は会社を辞めた。相変わらず彼が開発した戦略に固執するパブリシティーには、私自身も辟易していたからね」
祖父の枕元では、今もブッカー・リトルがスコット・ラファロの奏でるベースに煽られながら、颯爽とトランペットを吹いている。そのCDは令子が、入院して以来レコードが聴けなくなった祖父のために、買って来たものだった。
令子は、物心ついてから今日まで、変わらずに祖父のことが好きだった。物を買ってくれたり、小遣いをくれた訳でもないのに小学生の頃など友達と遊んでいるよりも祖父に付き纏っていることの方が多かった。「ねえおじいちゃん」と言うのが小さい頃から令子の口癖だった。そのあとに「ピーピーエムって?」とか「ポリアンナしんどろおむって?」とかの質問を浴びせるのだ。
「令子はパーセントって知っているね」
「うん。百分率のことでしょ」
「ピーピーエムはパーミリオンと言って百万分率のことなんだ。大気中の二酸化炭素の濃度とかを調べるとき百分率では間に合わないからね」
「今日学校でホームルームの時間に、先生がギターを弾いて歌ってくれたの。パフという英語の歌だったけど、先生が日本語の歌詞カードをくれて、そこにピーピーエムって書いてあったの」
令子が小学校三年生のときの担任は定年間近の男の先生だった。校長先生より年上で、父兄の間では好ましく思っていない向きもあった。親の影響からか、子供たちも先生のことを少し馬鹿にしているようなところも見受けられた。
「先生は何故校長先生にならないの?」などと皮肉っぽく質問する子もいた。
令子は、親譲りと思える狡猾さが覗く眼をしたそんな子の喋り方に寒気をもよおすことが度々あった。
「ねえおじいちゃん。先生は何故校長先生になれないの?」と質問したとき、祖父は「令子はなって欲しいのかい?」と質問を返して来た。
「なって欲しくないけど……」そう答えると祖父は「令子のような子供がいるからなりたくないんだよ、きっと」と言って笑った。次の日祖父が「これは友人の教育長に聞いたんだが……秘密だぞ」と任用試験を受けるのを断っていることを教えてくれたのだ。昔、中学校の校長だった祖父の友人が、いやいやなった教育委員の互選により、教育長をさせられていたのは事実だが、任用試験の話が事実どうかは知らない。
「ああ、それはピーター・ポール&マリーという一九六〇年代のアメリカの男二人女一人のグループの名前だよ。その頃の高校生や大学生は学園祭などでもよく歌っていたよ」
「ふうん。先生がくれた訳詩カード読んだけど、パフって可哀相な歌ね」
パフという歌の歌詞は、少年がパフというドラゴンと友達になり、自由に世界を駆け巡るが、やがて少年はドラゴンのことを忘れ去り、ドラゴンは寂しく眠りに就くという内容だった。
「誰が可哀相なんだい?」
「パフのことを忘れてしまった子が」
「そうか……。令子は賢いなあ」
「どうして?私、遊んでばっかで勉強してないよ」
「視座が自由だということだよ」
「しざって?」
「令子にはちゃんとしたリテラシーが備わっているということだよ」
「りてらしーって?」
「うーん……。もうすぐ学校で習うこともあるかと思うが、方法論としてだから何の役にも立たないだろう。リテラシーの基本はその人の心の資質にあるからね。今はそんな言葉があるとだけ覚えておけばいい」
そう言った祖父は笑いながら令子の頭を軽く撫でた。令子にはりてらしーが何ものかなんて分からなかったが、仮にそんなものが備わっているとすれば、おじいちゃんの孫だからだと思っていた。
「ほうほうろんって?ししつって?」
祖父と令子の会話は、いつもそんな風に際限なく続いて行くのが常だった。
同じ頃令子は、先生から「田所さんのポリアンナシンドロームの影響は凄いなあ」と言われた。三年のとき同じクラスになった、お金持ちで成績が良くて、喘息だったので、体調が悪いと体操を休み、授業中にも咳き込むことがある女の子がいた。その子はよく「病気が移る」とか言われて苛められていた。令子は休み時間にみんなが走り回っているとき、じっと席に付いたままのその子の横で馬鹿話ばかりしていた。その子の家へも学校帰りによく遊びに行ったが、その子の親が先生に勉強の邪魔だからと言い付け、先生から注意されたので行けなくなった。学校でその子とばかり一緒にいたことで、令子もからかわれたり無視されたりした。だが令子はそんなことを全く意に介さなかった。理由は明白だった。令子にとって一番大切なものは、大好きで尊敬もしている祖父だったからだ。令子にとって同級生に苛められることなど、祖父に相手にされなくなることに比べるとほんの些細なことだった。何らかの理由で祖父がいなくなったらと考えただけで、令子は悲しい気持ちになった。
令子にとって祖父はパフだった。あの少年はドラゴンと決別した後どうなったのだろう。いつかドラゴンのことを思い出し、自分が置き去りにして来たものを懐かしく思うことがあるのだろうか。それともドラゴンのことなど忘れ去ったまま老人になっているのだろうか。その老人は祖父とは全く違う人間のように、令子には思えた。
令子は友達やその子の親からの仕打ちにもめげずに、休み時間にその子の横で馬鹿話を続けていた。やがて友達も令子に対抗するように、その子に話しかけるようになり、笑いを取ると自慢げに令子にVサインを出した。先生がその子の親に状況を話してくれてからは、家へ遊びに行くことも認められた。
そんな時、先生が令子にポリアンナ・シンドロームの話をしたのだった。祖父に質問すると「『少女ポリアナ』という物語の主人公の行動が引き起こす波及効果から生まれた、二十世紀初頭の心理学用語で、日本では十年くらい前に流行ったことがあったな。」と言って令子をビデオショップへ連れて行き、十一巻もあるビデオを買ってくれた。祖父も知らなかったようだが、一九九八年は「愛少女ポリアンナ物語」という十年以上前のテレビアニメのビデオがちょうど発売された年だった。
令子が祖父に、そのような高価な物を買って貰ったのはそのときが初めてで、最後だった。令子はそのビデオを喘息の子の家に預けて、学校帰りに一緒に観た。その子は学校以外への外出を止められていたからだ。その子は小学校を卒業すると、両親と一緒に沖縄へ行ってしまった。その子は「愛少女ポリアンナ物語」をすごく気に入って「ポリアンナって令子みたいだね」と言っていた。令子も物語りを気に入っていたが、本当に感動したのは第二部のオープニングテーマ「微笑むあなたに会いたい」とエンディングテーマ「しあわせ」だった。
祖父の前で二つの歌を口ずさみ「ねえおじいちゃん。この歌いいでしょ」と言うと祖父は「令子は歌手は無理のような気がするが、すごい作詞家になれるよ」と言った。それからというもの、中学生になるまでは毎日のように歌詞を作って祖父に見せていた。今から思えば稚拙な歌詞だったと思うが、祖父は添削することもなく「このフレーズ貰ってもいいか?」などと言っていた。会社を辞めてからの祖父は、細々とではあるが作詞を生業としていた。
「明日は学校休みだから、朝から来てもいい?」
「ブラッド・メルドーの新譜、出てたっけ?」
「うん買って来る。一緒に聴こうね」
それからの令子は祖父が亡くなるまで毎日病院を訪れた。令子が最後に祖父と話したのは十二月に入って街にジングルベルが鳴り始めた頃だった。
午後五時に病室に入った令子が、カーテンを引こうとするのを制止した祖父は「今日はそのままでいい」と言った。
祖父の横で令子は相変わらず「ねえおじいちゃん。パフはまだ湖のほとりに住んでいると思う?」などと質問していた。
「パフは幼生のままだし、モスラは繭の中だろう。パフもモスラも子供たちが未来を思う願いから生まれる希望だからな」
いつものように穏やかな表情で令子に笑い掛けた後、祖父は静かで深い眠りに就いた。令子が少し震える手を口元にかざしても、空気は何も答えなかった。その代わりに、エリック・ドルフィーのサックスと、ブッカー・リトルのトランペットが、祖父と令子がいる空間を一九六一年のファイヴ・スポットにタイムスリップさせて、微かに揺らせていた。まるで、令子の祖父へのレクイエムであるかのように。
令子はナースステーションに通報してから、家へ電話を掛けた。両親が病院へやって来るまでの一時間を、令子は窓に映るライトアップされた街を見て過ごした。寂しい気持ちは日に日に募って来るだろう。だがその時令子が流していた涙は、祖父が今日まで側にいてくれたことへの感謝の気持ちだった。「ねえおじいちゃん。……ありがとう」
慌ただしい何日かが過ぎ去り、息を潜めたクリスマスが終わった翌日、令子は久し振りに祖父の部屋に入った。そこは小学生の頃から令子にとっての聖域だった。雨が降る日も風の日も、真夏日も真冬日も、花粉が飛び交う日も友達と喧嘩した日も、祖父と話をしているうちに「今日も一日楽しかった」という気分になれた。
今思い返してみると、令子にとってのパフは祖父だったのだ。祖父のいない部屋、祖父がもう使うことのなくなった机、令子は祖父の椅子に腰掛け眼を閉じた。「ねえおじいちゃん…」と呼び掛けてみても返事はなく、冷え冷えとした空気が祖父の不在を一層確かなものにしていた。
令子は涙が溢れそうになった眼を開け、もう一度部屋の中を見渡した。本棚には祖父が好きだった本とレコードが並び、別の棚にはCDや、令子が修学旅行で買ってきたお土産の置物やらが並んでいた。机の上には時代遅れのワープロとプリントアウトされた何枚かの歌詞、その隣にはA4用の茶封筒が置かれていた。茶封筒にはザヴィヌル様と書かれたその下にパストリアスと書いてあった。令子がなんだろうと思って封筒の中身を取り出すと、それは原稿用紙二百枚分からなるモスラ4のシナリオだった。祖父がいつの間に何のために書き上げたものか、今となっては知る術もない。
モスラ4 二〇二三年、一九九九年の警鐘が「喉下過ぎれば熱さを忘れる」の法則により、単なる寓話と化して以降の最後通告の年、第一に環境破壊が産んだデスギドラ、第二に環境汚染が産んだダガーラ、そして第三には過剰に対する無秩序な統制が産んだキングギドラにより、地球は壊滅の危機に瀕していたにもかかわらず、未だモスラは現れていない。
言うまでもなくモスラは子供たちの見方であり、苛めっ子、苛められっ子、元気な子、おとなしい子、全ての子供たちを助けてくれるはずなのに、二〇二三年の地球には存在していない。モスラは絶滅してしまったのだろうか?否、生まれていないのだ。負の要素から生まれるものを怪獣と呼ぶなら、正の要素から産まれるものがモスラなのだ。
モスラとは、未来の地球に希望を見出すことの出来る、子供たちのリテラシーの総体なのだ。様変わりした地球の上に、相も変わらず子供たちは溢れかえっているが、キングギドラに取り込まれることにより、殆どの子供たちが傀儡化していた。だが、残された未開の地に、正しいリテラシーを持つ子供がいさえすれば、地球上の何処かの島に、既にモスラは存在し、のんびりと羽を伸ばしているのではないか?それならば、地球の未来を憂える必要はないのではないか?否、そんな子供(モスラ4では、ニュータントと呼ばれている)がいたとしても、マイノリティーである限りモスラは永遠に繭から出て来れないのだ。
妖精が三体、旅立ちの準備をしていた。それは、大人たちが忘れてしまった、それ故に子供たちに引き継がれるはずもない未来への意志を、ネイティブ・アメリカンの間ですら、今や昔話でしかない未来との対話を、全ての子供たちの心に蘇えさせるための旅であった。しかしながら、既に子供たちの純真は、希望に満ちた未来を疑うことすらない程に汚染されていた。与えられる現実を拒否し、未来の真実を見つめることなど、デューティー・フリーが信条の彼らのリベラルに、反旗を翻す行為でしかなかった。全ての大人のみならず、大多数の子供に行く手を阻まれることとなる、厳しい旅が待ち受けていた。