第三章 日常
夢から醒めた麻由香は、目覚めた場所が獄中でないことを確認するために、部屋の中を見渡した。
そこには大学一年生の麻由香の日常があった。
「今日は月曜日で、お母さん病院だっけ」
麻由香は、まだ鳴っていない目覚まし時計のボタンを押し、パジャマのまま机に向かい、パソコンを開くと夢の内容を書き込み、父親が経営する病院へ送信した。それからプリントアウトした用紙を持って、ダイニングキッチンへと向かった。
「おはよう、お父さんお母さん」
麻由香は夢の内容が書かれた用紙を父親に手渡しながら挨拶した。
「おはよう麻由香。ボーイフレンドとは仲良くしてるかい?」
麻由香の父親は、赤パプリカと黄パプリカの入った野菜サラダにバルサミコドレッシングを振りかけながら言った。
「してるしてる、親交してる」
「してるしてる、ボーッとしてるでしょ、早く顔洗ってらっしゃい」
ちょうど、麻由香のトーストを皿に置いていた母親が言った。
「はーい」
麻由香は洗面所で顔を洗い軽くうがいをした後で、鏡に映った自分の顔を確かめるように見た。そこには、夢見る大学一年生の麻由香がいた。
「今日は繭ちゃんどうだった?」
食卓に着いた麻由香にコーヒーカップを手渡しながら母親が尋ねた。
麻由香の夢にいつも出て来るマユカという少女のことを、今田家では「繭ちゃん」と呼んでいた。
「うん、もう近未来じゃなく目と鼻の先の未来になってたよ。でもやっぱりニュータントは繭ちゃんしかいないの。政治は情報規制を敷いたトップダウンファシズムだから、現在のボトムアップファシズムと比べれば、みんながコントロールされることを承諾している分、明快で気持ちいいかも。
幻想にしろ、一つのナショナリズムが維持されているから、繭ちゃん以外の人間には日本人としての保障が与えられているの。今の世の中、政治はボトムアップの形態を取っているけど、それ以上にパブリシティーされているから、やいのやいの言う人間が一億人いたって政治は変えられないわ。
情報に翻弄されて右往左往しているだけだもの……まあ、それがトップの狙いでもあるんだけど。今朝方の夢で謎は解けたわ、要するに日本は私が見ていた夢のシナリオどおり走り続けるしかないみたい」
コーヒーを口にした麻由香は、ひとつため息を吐いてからトーストをほおばった。
夢の中の自分が牢獄に繋がれていたということは口にしなかった。
「アメリカと中国資本の日本車か…いよいよ遥か未来から現代まで遡って来たという感じだな。一応これは、守秘義務ということで……それにしても、近未来の夢においてもだが、お前たちの活動が反映されていないのには、不思議な気がするなあ…」
麻由香の父は夢の内容に目を通してから、少々納得の行かない表情を浮かべ、用紙を四つ折りにして、スーツの内ポケットにしまった。
「きっと尻すぼみになっちゃうのよ、私って小学生の頃から気まぐれだったじゃない。それより陽平おじさんは?」
麻由香は夢から話を逸らすように、母親に尋ねた。
「今日は病院へ行く日だから、先に食事済ませて、オスマン帝国がどうのこうのとか、ぶつぶつ言いながら部屋へ戻って行ったわよ。第二次世界大戦直後から始まって、一体何処まで遡る積もりなのかしら。麻由香の見る夢とはまるで逆なんだから、笑っちゃうわね。しかも近頃は異国の物語りになっちゃってるし、一体どうなってるのかしらねえ陽平さんの頭の中は……そうはいっても、本人の意思じゃないから分かるはずないわね。だいたい遺伝性アルツハイマー発症している身で、前日の夢のことなんかちゃんと覚えているのかしら。この家に来てから外へ出てないし、引き篭もってちゃ余計にひどくなるかも……ねえあなた、小遣い少しくらい渡したほうがいいかしら?」
麻由香の母にとっては、オスマン帝国の台頭などは世界史における偶然の産物であり、日本ましてや自分とは、何の関わりもない存在であった。だが、過去の人物の一生が、現在の人間のテキストと成り得るのであれば、一つの国家の誕生から滅亡までの歴史が、現代国家の未来への指針とならないとは、限らないだろう。何故なら国家も人間と同じく、転換期に対応している理論などなく、過去の様様なケースを検証しつつ、手探りで実践する他はないからである。
「そうだなあ。金がなきゃ、外に出て気分転換も出来ないか」
両親の会話を聞いていた麻由香は「陽平おじさんもだけど、お父さんもお母さんも、能天気さでは負けていないわね。小遣いなんか渡す理由もなければ、渡してもどうせパチンコして五十肩がひどくなるだけじゃない」と言って、小さくため息をついた。
「それもそうよね。でも、引き篭もってちゃ病気の進行が……現に夢だってつじつまがあってないようだし」と、母親が心配そうに言うと、麻由香は「そんなのお父さんに任せておけばだいじょうぶよ、ねえ?」と父親の方を向いて言った。
「まっ、任せなさいって。えーっと、その夢についてはだな……」
麻由香の父は総合病院の経営者兼院長で、元は外科医であるが、麻由香が小学生の頃に自殺未遂をしでかしたのを契機に、臨床心理士の資格を取り、今は発達心理学と教育心理学の見地からのカウンセリングを行っている。
父親の、頼りない言い方に対して、麻由香は「心配いらないわよ。陽平おじさんの夢も、ついにそこまで来たかって感じね。内容を聞かなくとも、フォーカスを絞ってみると、私の夢とすごくシンクロしているもの。ただ、その先は如何に?って思いもあるけれどね」と言ってから、思い出したように「あっそうだ、今日友達二人来るかも知れないから」と付け加えた。
「あら、月曜日なのに珍しいわね。メグちゃんたち?」
「後輩じゃないの、大学の同級生」
麻由香が言うと出勤しようと席を立った父親が「へーっ。ドリーミング・シンドロームの麻由香に同級生の友達が出来るってことは、その友達は余程の親和性を持ってるということだなあ。どうせお前のことだから、男じゃないよな」といかにも、残念であるかのように言った。
「女よ。一人は、確かに親和性を備えているわ。でも、もう一人は全く逆ね、持っているとすれば神代の神話性ってとこかしら」
父親は「そうか、女か……」と見え透いた失意の表情を浮かべた。
「いくら親和力があったって、巫女と女神の二人を相手にしなきゃならないなんて、世の中には司祭のような人もいるもんだなあ。それはそうと、わしも友達連れて来るから合コンしようや」
父親はしゃあしゃあと本音を切り出した。
「友達ったって、どうせ陽平おじさんと祐介おじさんでしょ。罰当たりな人間ばかりじゃない。神罰が下ってもいいんなら挨拶するくらい別に構わないと思うけど…。お酒は控えてね」
「お神酒か赤ワインにするからだいじょうぶだって。よっしゃー!あ、お母さん、今日は大変だろうから、晩飯食って来るわ、ってことでよろしく」
現金な父親は、そう言い残すと意気揚々とエレベーターに搭乗した。しばらくして、マセラティのエンジン音が、いつもより声高に響いたかと思うと、すぐに遠のいて消えた。
「行ってきまーす」
歯磨きを終えた麻由香は、廊下の突き当たりにある階段を下りて、自転車に乗り大学へ向かった。今朝見た夢の後では、朝の陽射しの優しさが、とても大切なものに思えた。