第二十二章 子供同盟
その週の金曜日、令子と夕子は最終の講義をさぼって麻由香の家へと向かった。
麻由香は金曜日は午後の講義を入れていないので、子供同盟の準備をするため、一足先に帰っていた。令子と夕子が麻由香の家に着いたとき、時刻は既に三時を少し過ぎていたにもかかわらず、階段で地下室へ降りてみると麻由香しかいなかった。
「三時からって言ってたよね」と、確認するように夕子が言った。
「三時から六時までの間で、随時なの」と、麻由香が釈明した。
「なあんだ、正規の会議って訳じゃないんだ。どの席に着けばいいのかな?」
夕子は、部屋の中央のオーディオの前にロの字型に並べられたテーブルを見回した。三人掛けのテーブルが二脚ずつ、合計八脚並んでいて、各テーブルの上に、それぞれ二人分のレジュメが用意されていた。
「私の隣のテーブルに座れば?」
麻由香が、自分の座っているテーブルの横のテーブルを指差した。
「麻由香の隣は?」と夕子が言うと、麻由香は「この前言ってたサスティナブルアースのリーダー二人が来るから」と言った。
令子と夕子は席に着きレジュメを手に取った。レジュメと言ってもA4のペーパー二枚の右肩をステープラーで閉じた、簡単なものだった。内容はと言えば、先月の第二金曜日の会議録だった。
「何故ひと月前の会議録なのよ?」と、夕子が尋ねると、麻由香は「会議は第二、三、四金曜日だと言ったでしょ。第二金曜日は小学四年生と中学一年生、第三金曜日は小学五年生と中学二年生、第四金曜日は小学六年生と中学三年生限定になってるの」と答えた。
「じゃあ、今日は小学四年生と中学一年生の会議ってこと?」
令子が聞き返し「そうよ」と、麻由香が答えた。
「会議録なんて親切なことね。普通はノート取っているはずなのに」
夕子が首を傾げながら言った。
「会議と言っても随時だから、最初からいなかった子には分からないし、必要ならバックナンバーもプリントアウトしてあげてるの」
「あっまあい!」と夕子が言った。
「会議録を読んでみてよ、会議と言ってもカウンセリングとコンサルテーションにシフトしているから、何か相談ごとがあれば、随時に顔を出して、解決すれば随時に帰っても構わないの、その方が保護者の受けもいいしね」
「そっか、そうだよね、時間の制約があれば、批判的な意見も出て来るし、必要のない秩序よりも効率を尊重するって訳ね」
夕子は感心したように、頷きながら言った。
「へえっ、子供同盟って答えを出すんだ。単なるお喋りの場でないところが面白いわね。面白いなんて失礼…」
会議録に目を通した令子が言うと、麻由香は「子供たちも含めて、結構みんなでワイワイ面白がってやっているのよ。ただ、答えを出さないんじゃ、父も含めて私たちが参加している意味ないし」と真剣な顔をして言った。
「ほんと、麻由香すごいよ」
令子の隣で会議録を読んでいた夕子も賛辞を送った。
「ありがとう、指導員も間もなく来るから、褒められたと言ったらきっと喜ぶわ」
夕子に褒められた麻由香は、照れ臭さを隠して素っ気なく振舞った。
ピンポーンと鳴った後、玄関の方で賑やかな笑い声が響いた。
「お邪魔しまっす」と言いながら、スタジオへ入って来たのは、通学電車で既に顔なじみになってしまったガングロ二人組みだった。
「わあい!やっぱりそうだ。田所令子さんこんにちは、塩屋夕子さんこんにちは」
二人組みは、令子と夕子のをちゃんと見分けて、慇懃に頭を下げた。
「えっ?そ、そうだけど、どうして知ってるの?」
いきなり名前を呼ばれた令子は、明らかに動揺していた。
「昨日の夜麻由香先輩から電話があって、友達が見学に来るからと知らされました。その時にフルネームを聞かせていただきました。私は神島恵と言います。友達はメグって呼びます。アイドルはジェニファー・バトゥンです。よろしく」
麻由香と似ている方の女子高生が、令子に説明を兼ねて挨拶してくれた。
「でも、どうして私が令子だと?」
「通学電車の中で、名前で呼び合ってられましたから。私は津田涼子です。ここでお会いできて嬉しいです。よろしくお願いします」
「こちらこそよろしくです。あの、私、通学電車の中であなたたちにマークされているように思えてならなかったんだけど、気のせいかしら?」
令子は、以前から気になっていたことを、思い切って尋ねてみた。
すると涼子は、床に置かれた令子のショルダーバッグを指差して「モスラのストラップにビビッと来ました」と答えた。
「モスラか…。そりゃそうよね、麻由香の後輩なんだもの」
令子は、今更ながらにモスラの導こうとしている未来を思い描いた。そこで自分は、夕子は、麻由香は、メグと涼子は、どのような役割を担っているのだろう。未来を見ている麻由香の眼には、既に私たちのあるべき姿が、現実のものとして映っているのだろうか。
そんな令子の思いをよそに、夕子は「モスラだモスラだ、やっぱりモスラだ」とはしゃいでいた。
「このまえの会議で、小学四年生のまりちゃんが、いつも独りぽっちでいる子と友達になりたいけど、なれないって言ってたじゃないですか。風景をシミュレーションするうちに歌詞が出来たので曲を付けたんです。やってみませんか?」
涼子が麻由香に楽譜を手渡したのを見て、令子は今日の朝ガングロ二人組みが、楽譜を見ながらリズムを刻んでいたのを思い出した。
「やってみようか」
麻由香は楽譜を読みながらロッカーの方へベースを取りに行った。メグもその後に続き、自分のロッカーからギターを取り出した。涼子はキーボードの前で楽譜を広げて既にスタンバイしている。
「出だしの部分だけ、二人でやってみますね。優しい歌なので、テンポはゆっくりです。3・2・1」
涼子の掛け声と共に、メグのギターと涼子のキーボードによる演奏が始まった。
「オッケー!」と麻由香が言うと、演奏は中断した。
「タイトルはtearsです。じゃあ、行きます。3・2・1」
tears 夕映えに肩をすぼめ
何故 そんなにも悲しい
smile 友達になりたいのに
うつむく瞳でさよなら
帰ろうとしたつま先に
ポツリと涙が落ちた
自分の弱さに気付いたとき
できることって なに?
暮れなずむ空には ほら茜雲
あなたの背中を見つめてる
誰かのせいにする気持ちのままじゃ
なおさらみじめになるだけ
迷っているうちに今日が終わって
夜空を星座がうずめても
涙をためている気持ちのままじゃ
きらめく明日に会えない
tears 振り向いた想い出には
何故 笑顔だけたりない
smile あなたならなれるはずね
優しい眼差しあるから
つぶやきかけた唇が
かすかに震えているね
素直になろうと思ったとき
邪魔するものは なに?
迷っているうちに今日が終わって
朝陽が背中を押したって
涙をためている気持ちのままじゃ
きらめくあなたになれない
寂しかった夢の涙を拭いて
まぶしい季節へ飛び出そう
いつだって私がそばにいるから
あなたの勇気になりたい
「ブラボー!」
演奏が終わったときスタジオ内はスタンディング・オヴェイションの嵐だった。と言っても騒いでいるのは令子と夕子と、まりちゃんの三人だった。
「ちょうど良かったわ。まりちゃん、この歌いいでしょ?はい、楽譜ね」
涼子が、演奏が始まってすぐにスタジオに入って来たまりちゃんに、楽譜を手渡しながら言った。
「はい、ナナちゃんにも見せて、子供同盟へ誘ってみます。今日も誘ったんだけど来てくれなかったの」
ナナちゃんと言うのが、まりちゃんが友達になりたいと思っている、いつも独りぽっちの子らしい。まりちゃんは楽譜を四つ折にして、大事そうにポシェットの中へしまった。小学四年生のまりちゃんは、立ち居振る舞いから優しさと活発さが滲み出しているような、愛くるしい女の子だった。
「ということは、もう友達になっているってことね。まりちゃんのお姉さんはゆかちゃんだったかな?」
「はい。ゆかちゃんと三人で遊園地に行ったの。ゆかちゃんがナナちゃんを笑わせてくれたから、帰る頃にはいっぱい話ができるようになったの」
「今日はゆかちゃんまだ来てないね」
「もうすぐ期末テストだから、来れないの」
「そっか、だったら今日はあまり来ないみたいだね」
まりちゃんはまだ、席に着いていなかったので、夕子が手招きして令子と夕子の間に座るように促した。それは孤高の夕子にしては珍しい行為だった。まりちゃんはといえば、にこっと笑ったかと思えば、なんのためらいもなく、二人の間にちょこんと収まった。
涼子とまりちゃんが話をしている間に、二人の男の子が並んで席に着いていた。一人は小学生で、もう一人は中学生だった。
「まあ君、先月の内緒の話は上手く行った?」
メグが小学生の男の子に尋ねた。
「うん。シュウ兄ちゃんが僕のことは内緒にして、その子と話をしてくれました。その子も僕と同じで兄弟がいなかったので、中学生のお兄ちゃんと遊んだんだって自慢してたよ。それで、その日からその子は誰も苛めなくなったんだよ」
「そう、良かったね、バンザーイ!」
メグがそう言うと、まあ君は嬉しそうに笑った。
「どういうこと?」
小学生とのやり取りを聞いていた令子が、麻由香に尋ねた。
「今に始まったことじゃないけど、中学生や小学生には、一人っ子が多いじゃない。だから、子供同盟は兄弟を体感する場でもあるの。中学一年生と小学四年生という風に、三学年離れた者同士でパートナーになるの。小学一年生から三年生までは、弟、若しくは妹のみで、中学一年生から三年生までは兄、若しくは姉のみの役回りだけど、小学四年生から六年生までは両方をこなさなければいけないの。例えばまあ君は、今回は中学一年生のシュウ君の弟だったけど、小学一年生の男の子が、何か問題を抱えていると気付いたら、子供同盟へ持ち寄り、相談するの。小学一年生から三年生までは、ここへ呼ぶ訳にはいかないから」
「小学生と中学生を連携して機能させているということか。形式として九年制を実施している学校はあっても、学年ごとに孤立しているのなら意味ないものね。今は統合されて、ほとんど消え失せてしまったけど、小学校の全校生徒が十人とかで、一クラスで授業を受けているのを見ると、みんな兄弟みたいで、喧嘩はあっても苛めの影すらないよね。サスティナブルアースの理念は省事省物だけど、子供同盟の理念は、ずばり近世代交流による子供の連帯感育成でしょ?」
令子が言うと麻由香は、またしても「省事省物」とつぶやいた。
二人の会話を、まりちゃんの赤ん坊のようにふわふわとカールした髪の毛を、櫛でとかせながら聞いていた夕子が言った。
「三世代交流の是非が問われるところね。少子化で妹や弟がいない家族には、上から下という姉の立場のリレーションが存在しないのが問題なのに、何処かからおばあちゃんやおじいちゃん、それに両親の代役を見つけて来たって、果たして何の意味があるのか?親のいない子供にとってなら、意義のあることだと思うけど、そうでないなら、本当の親が頑張れば済むことだもの。方向を間違えれば、親の義務放棄に繋がる恐れすらあるよね。」
「おねえちゃん、いいこと言うね。りれーしょんって何のこと?」
まりちゃんが、夕子のことを褒めた。令子はまりちゃんの話し方が、幼い頃祖父に
質問ばかりしていた自分と似ていると感じていた。
「ごめん、繋がりのことよ。一人っ子でも親からの愛情は受け取れるけど、妹がいなければ、誰にも愛情をあげることが出来ないでしょ。まりちゃんは一人っ子なの?」
小学四年生のまりちゃんに褒められた夕子は、すごく嬉しそうな顔をして言った。
「良く分かりました。はい、私一人っ子です。子供同盟に来るようになってからは、小学一年生の子とお話するようになって、愛情をあげているかどうかは分からないけど、その子が何か困っていて、お母さんにも相談できないとき、話を聞いてあげています。難しいときは子供同盟に来て相談するけど。私もお母さんに相談出来ないことは、中学一年生のゆかちゃんに聞いてもらうの」
「私にも相談してくれる?」と夕子が言うのを聞いた令子は、心の中で「おいおい、お前はそんなことする柄じゃないだろ」と野次っていた。
「わーい…。でも、ゆかちゃんが本当のお姉さんのようにしてくれているし、ゆかちゃんのこと大好きだから……」
まりちゃんは少し困った顔になった。
令子は心の中で「そらみろ、その場の気分で適当なこと言うから、純真な子供まで悩ませてしまったじゃない」とつぶやいていた。
「そっか……。気にしないでね、私は夕子と言うの、よろしく。まりちゃんのこと好きよ」
夕子が、そんな殊勝なことを言っているということは、あながち口から出任せではなかったんだと、令子は心の中で野次ったりしたことを、少しだけ反省していた。
「わーい。私もゆうこちゃん、だーいすき!」
令子は、まりちゃんが令子の年齢になったとき、夕子のような友達が出来ればいいなと思った。