第十九章 サスティナブルアース
夕食後、麻由香たち三人は、まだ食事を終えていない陽平を残し、再度地下のスタジオへ降りるエレベーターに乗り込んだ。
「父があなたたちに会いたいみたいなので、帰って来たらちょっとだけ会ってくれる?」
麻由香が、パソコンの置かれているテーブルの横にもう一台テーブルを追加しながら言った。
「いいけど、夕子は権威に靡かないから、気を悪くさせるかも」
令子が心配そうに言った。
「バーカ、私がそんなつまらないことにこだわる訳ないじゃない」
「冗談よ、まっ、失礼のないようアテンションプリーズということで」
麻由香は、二人がいつものようにつまらない言い争いをしているのを無視して、オーディオのプリアンプをいじっていた。
「多分友達と一緒だけど、何のこともない人だから気を遣わないでね」
「何のことないと言っても、相手は年配なんだし、多少の慇懃さを持って接してあげる必要はあるでしょ」
令子は、風力発電と言われて風車を造ってしまう麻由香の父親の友人が、何のことないはずがないと思っていた。何といっても友人の一人が、陽平なんだから。
「サーフボードって色んな長さのがあるのね。この台の上に置いてあるのは子供用?って麻由香のよね。」
夕子はすでにスタジオ内の探索を開始していた。
「それは父の友達のボードよ、修理するために持ち込んでるの。壁に立ててある左端のショートと隣のセミロングが私ので、あとの父と陽平おじさんのロングとセミロングがそれぞれ一本ずつよ」
「お父様の友達って、子供なの?」
夕子が台の上のショートボードを指差して言った。
「まさか。海へ行ったら知らない子供でも友達のようなものだけど。祐介おじさんは何種類もサーフボード持ってるから、これより短いのもあるはずよ」
「ふうん、何種類もあるんだ。」
そう言いながら夕子は首を傾げた。
「波の大きさや、サーフィンのスタイルによって何種類もね。祐介おじさんは小舟ほどもあるボードも持ってるわ。でも日本では使えないんだけどね。」
「ハワイとかで使ってたんだ、ビッグウェンズデー!なんちゃって」
「カリフォルニアじゃん。まあ、そんなとこね。それに、嘘か本当かは知らないけれど、三〇フィートもある波でトゥインサーフィンしてたんだって……。トゥインサーフィンっていうのは、ジェットスキーで引っ張ってもらうらしいんだけどね。」
「どんだけー!って、三〇フィートってどんだけ?」
訳も分からず驚いている夕子に、令子が「九メートルちょいよ。」と説明した。
「ひえーっ!こっわー!さっすが経営学部、計算高いねえ」
「どこがよ、あんたこそ建築学部でしょ」
「ロッカーには何が入ってるの?」
雲行きが怪しくなったとみるや、夕子の視線は既に別の所へと向けられていた。
「楽器よ、個人の持ち物だけど、どのロッカーにも鍵は掛けてないから、開けていいわよ。左端には陽平おじさんのベース、二番目には父が揃えた物が入ってるから、使ってもいいわよ」
夕子が左端のロッカーを開けると、エレキベースが入っていた。
「わっ、かっちょいいい!パンクジャズ?」
「夕子詳しいのね」
「ロックにフレットレスじゃフニャフニャじゃん」
「まあね、スタンダードなジャズもそれを使ってるけど」
「アコースティックベースは使わないんだ」
夕子は独り言のようにつぶやきながら、二番目のロッカーを開けた。そこには色んな形の黒いケースが入れられていた。
「トランペットとクラリネットとそれにアルトサックスが二本…か」
「バスクラリネットだけどね」
「エリック・ドルフィーもやるんだ。麻由香は何をやってるの?」
「私はベースとキーボードとアルトサックスをたまに使うけど」
「へえっ、多才なのねえ」
夕子は感心したように言った。
「小学生の頃から家族の音楽会に付き合わされていたから。去年造ったこの部屋だって、元々は家族で音楽するために作った部屋だもの」
「へえっ、どんな編成で?」
「母がピアノ、父がサックス、兄がドラムス私がベース…かな」
「レパートリーは?」
「クレオパトラの夢……みたいな、まあ父の好きなもの中心にってことで」
「他のロッカーには何が入ってるの?」
戻って来て令子の横に腰掛けた夕子が麻由香に尋ねた。
「三番目のロッカーに私のベース、その他のロッカーには私の後輩の楽器とかを収納してあるの。ロックバンドやってる人とかのスタジオのようなものね。デモテープも作ってるのよ」
「ここに置きっ放しじゃ不便なのにね」
「高校近いし、ロックバンドなんて親に内緒の子も多いしね。それに騒音なんて気にしなくていいから」
「練習のために開放してる訳?」
「いつもいつもという訳じゃないのよ、そこにスケジュールボードがあるでしょ」
壁の隅には、日付と曜日の下にバンド名が書かれたボードが掛けられていた。どの週も、火曜日から金曜日のスケジュールは概ね埋められていた。
「利用しているバンドは全部で何組あるの?」
「今は四組よ。まあ、それがキャパの限界だと思うけど」
「しょっちゅう訪問者があって、お母様、大変じゃないの?」
「高校が終わってから、遅くとも八時頃までの時間だし、私がいなくても母がいるから大丈夫、ピンポーンと鳴らして、そのまま地下室へ直行だから。父とその一味がここを使うとしても、もう少し遅い時間だし」
「高校生が来たとき、九条さんは?」
「どちらも別に気にしていないようだけど、陽平おじさんヘビメタも好きだし。でも余程やかましければ、ノートパソコンを持って自分の部屋へ退散ね」
「後輩と親交があるって、お母様が言ってらしたけど、何繋がりな訳?」
「サークル活動」
「どんな?」
「サスティナブルアース」
「なにそれ?面白そうだけど、説明が長くなりそうだからもういいや。このスタジオ私も使っていい?」
「ご自由に。あなたどんな楽器を使うの?なんならバンド組む?」
麻由香に誘われた夕子は、少し考えた後で「うーん…私ヴォーカル。令子がキーボードとドラムスとギター」と応えた。
夕子の言葉にオーディオから流れているジャズに耳を澄ませていた令子が口を開いた。
「何言ってるの、そんなに一人で出来る訳ないじゃない。そんな暇もないし。夕子も卒論に取り組むって言ってたでしょ」
「あれっ?そんなこと言ったっけ」
「またまた、あんたって人は…」
「令子さんは色んな楽器を演奏出来るのね」
麻由香が二人の会話に分け入るように言った。
「夕子の口から出任せよ。ピアノ少々、クラリネットは高校の部活で少々…」
「でも出来るんじゃない。夕子さんは本当に楽器は演奏しないの?」
麻由香は夕子にではなく、令子に尋ねた。
「バンドは無理ね、ダンサーだもの」
「かっこいい!夕子さんらしいわ」
麻由香の珍しく取って付けたような賛辞に、夕子は「麻由香は、いつの間に社交辞令が言えるようになったのかな」と、少し不機嫌な顔で言った。
「未だに無理よ、変ね。よく考えてみると誰かにかっこいいなんて言ったの、多分生まれて初めてよ」
「よく分かんないけど、麻由香に褒められると、何だか嫌味に聞こえるのよ」
かっこいいなんて、言われ慣れている夕子にしては、珍しい反応だった。
「まあーゆうーかあー」
夕子が不意に呼び掛けた。
「なに?」
「あんたって、お世辞じゃなく可愛いよね」
「な、な、なによ急に、変なこと言わないでよ」
麻由香は困ったようにうろたえて言った。
「あんたたち、褒め殺しコンビか。夕子はかっこいいし、麻由香は可愛い。そんなの今まで散々言われ続けてたことじゃないの?お互い、自分を超えたものを意識し合っているから、自分の方が褒められると違和感があるのよ」
令子が二人の心理状態を解説した。
「そっか、道理で、あんたに言われたときは、素直にうなずけるわ」
夕子が言うと、麻由香も「うん、そうだね」と同意した。
「どうせ私は、あんたたちと違って平凡な容姿ですって」
令子はそう言うと「ふっ」とため息をついた。
「そうねえ、でもあんたの賢いところは尊敬しているよ」
夕子が言うと麻由香が「うん、私も」と後に続いた。
「そう、ありがとう」
令子はさらりと受け流した。
「あっ、動揺していない。あんたやっぱり私より賢いと思っているんだ」と夕子が言った。
「当たり前じゃない、あんたらと付き合っていたら、せめてそれくらい自信持てなきゃ、やってられないわよ」
「結構せこい考え方してるんだ」
「そんな人を傷つけるようなこと他所で言っちゃ駄目よ。あんたの批判めいた発言は負け犬の遠吠えには聞こえないから、言われた人はショックだと思うよ」
令子が夕子を諭すように言った。
「言う訳ないじゃない、それを老婆心って言うのよ。令子とか麻由香のような価値観を持っている人間になら何でも言うけど。そんな人間に出会ったことが奇跡ね」
夕子に他の友達はいなかったが、令子と麻由香以外には家族に対しても大人に対しても、批判めいた意見をすることはなかった。夕子が言えば致命的な打撃を与えることを心得ていたからだ。
「さっきから聴いてるけど、これって誰の曲?」
令子が麻由香に尋ねた。
「ジョナス・エルボーグ、ベーシストよ。知らないの?」
夕子が即答した。
「えっ、そんなに有名なのその人って?」
ジャズなら令子の方がよく聴いているはずなのに、夕子の知っているミュージシャンを令子が知らないのは意外なことだった。
「そんなこと知らないけど『モスラが好き』に書いてあったから、私も聴くようになっただけよ」
令子は、先週夕子に借りて読んだ「モスラが好き」にそんな名前が出ていて、気になっていたのを思い出した。
「ふうん、麻由香はこんな音楽を聴いているんだ。コテコテのゲージュツ指向ではなく、スーパーフラットでもない、えーっと!という感じ」
「あなたたち、普段どんな音楽を聴いているの?」
ちょうどいい機会を得たとばかりに麻由香が尋ねた。
彼女たちはみんな流行に疎遠であったし、自分の趣味や音楽について人に語ることは、どちらかと言えば避けていた。
「私は中学二年の頃からジョナス・エルボーグを聴いていたわ。好きで聴いていた訳じゃないけど」
夕子が言うと令子が「ジョナス・エルボーグは好きで聴いているんじゃないの?」
と尋ねた。
「もちろん、今は好きよ。パンク・ジャズって言うのかな?こんな感じの音楽、中学生が好きな訳ないじゃない。令子はどんな音楽を聴いているの?」
「私は、おじいちゃんと一緒に小学生の頃からジャズを聴いてたわ。ジョナス・エルボーグはパンク・ジャズと言うより、大御所ドラマー、シャノン・ジャクソンのと同じカテゴリーのレイヴン・ロックよ。どちらがどう影響しているのか知らないけど、ベース中心の都会派とパルス中心の大地派って感じね。」
「あんた、ピアノ弾いてたのにクラシックは聴かないの?」と夕子が言った。
「小山実稚恵のノクターンやラ・カンパネッラとかよく聴いたよ。クラシックは色んな人が演奏してるから、技術的なところがよく分からなければ、どうしても雰囲気が好きか嫌いかってなっちゃうのよね。ジャズはスタンダードを別とすれば、好き嫌い云々よりも、これしかないっていうのがあるじゃない、ピアノで言えばブラッド・メルドーとかさ。麻由香はどんな音楽なの?」
「私の番?不思議だけどみんな同じ方向の音楽を聴いているんだ。クラシックでも聴き方だと思うけど、川のせせらぎを聴くようじゃなく、次から次へと押し寄せる波の音を聴くみたいな、メロディーと言うよりパルスの塊が流星群のように押し寄せる映像を見るように聴くから、モーツァルトとかはピアノソナタ以外はかったるいでしょ。交響曲も指揮者によっては旋律重視のも多いけど。ポップスは聴かないの?」
麻由香が質問した。
「演奏に主眼を置いて聴くことは、ほとんどないわ。ポップスは、歌詞が良ければ、音楽として成り立っていると言えるんじゃないかな。愛少女ポリアンナ物語の主題歌『微笑むあなたに会いたい』とかは、メッセージとしていいなあって思うけど。ラヴソングで好きな人のためにどうのこうのなんて歌とか歌詞だけで愛と平和とかって言うのも駄目。世の中に溢れている偽善を認めないと言いつつ、自分だって同じ仲間ですって暴露しているようなものね。要するに、何のための音楽かってことだけど」
令子の答えに夕子が付け加えるように「奇麗ごと並べて世の中と馴れ合いながら、結局自分のことしか見ていないってやつね。理解出来るものしか知ろうとしなければ、感性なんて磨耗するばかりよね。お年寄りの特徴として、笑ったり涙を流す壷が少ないというのがあるけど、それさえも若年化の傾向にあると思わない?しかもみんな同じ壷だったりして」と言った。
「同じことで笑い、同じことで泣き、同じことで怒る。ファシズムの土壌としては理想的だわ。クオリアが発動するのは第一ステージのみね」
令子が独り言のようにつぶやいた。
「ステージってなんなの?」と麻由香が質問した。
「令子のおじいさんが言ってたことで、シンパシーが第一ステージ、深遠が第二ステージ、センスが第三ステージ、ゆらぎが第四ステージ、そして有頂天が第五ステージなんだって。自分でも体感したから覚えちゃった。それ以上のステージは知らないけど」
夕子が令子に代わって説明すると、麻由香は「具体的にはどんな音楽がどのステージに当てはまるの?」と質問した。
「解らない人には説明しても無駄だし、麻由香には説明しなくともすでに解っていると思うわ。読書にも同じステージがあるの」
令子は、麻由香には詳細を説明する必要はないと思っていた。
「じゃあ自然科学とかにおけるクオリアのステージは?」
「理論を証明しようとしている数学者とかは、次元を超えて思考する時点で第六ステージ以上でクオリアを発動しているかも知れないわ。でも、証明された理論は真理として踏襲されて行くから、ただの知識でしかなくなってしまうの。例えば文学では真理なんてないから、積み上げられた知識として踏襲出来ない。どんなに素晴らしい文学であっても、個人のクオリアのステージの段階によっては、全く意味がなく、つまらないものになってしまうの」
令子の説明を聞いた麻由香は「孔子だったかしら、法によって治めればせこい人間になり、徳によればちゃんとした人間になるっての。あれがクオリアのステージを考慮していない孔子の限界と同時にあらゆる道徳の限界よね」
麻由香がそう言うと、夕子が「法は一般的理性を成文化したものだし、徳は個人的理性の表象だから、徳によるということは眼には眼をも、右の頬をぶたれれば左の頬をであっても、その人の理性次第ということになるわね」と、補足するように続けた。
「クオリアを第一ステージでしか発動しない人は、おそらくはリテラシーにおいても認知的倹約を必要以上に多用していると思われるわね」
令子がそう言うと麻由香が「リテラシーにもステージがあるということね。第一ステージでしか物事を見ない人は、至る所でファシズムを形成する」と念を押すように付け加えた。
「麻由香さっき高校のとき、サスティナブルアースっていうサークル活動していたと言ってたわね」と、思い出したように夕子が言った。
「ええ…」
「それって麻由香の徳の表出?」
「私はルールには従うけれど、いい人でいようなんて理性はないもの。私がいつも夢に見ていた世界が運命なら、何をしようと変えられないと思うの。ただ、事実はこうですよと淡々と告げるだけ。振り返ってみると、今までの活動中にもクオリアの障壁があったように思えるわ」
「そんなサークル、都合良くあったものね」
「私が作ったの」
「やっぱり…。ね、令子、麻由香ってしたたかでしょ」
令子が返事に困っていると、麻由香が「夕子も令子も同類だと思うけど」と言った。
「滅多にいないと思うけど。こんなのばかり一緒にいるって、偶然よね。何か意味があるのかしら」と令子が言った。
「いつかモスラを呼ぶために決まってるじゃない。今の子供にモスラを呼ぶ意志が欠落しているから、喚起するためよ。麻由香がサスティナブルアースなんてサークルを作ったのだって、その一環じゃない」と夕子が言った。
「でも、私なんか何も出来ないよ」
令子は自信なさそうに言った。
「あんたは既におじいちゃんの代から、貧乏の勧めを実践してるじゃない。家族以外への影響力はないけど。『モスラが好き2』に参加しちゃえばいいじゃない。私もそうするけど。ねっ、麻由香」
「別にいいけど…ロハだよ。元々がハーフィクションなので、ノンフィクションのバリエーションが増えるのは、ありがたいわ。陽平おじさんも喜ぶわきっと」