第十七章 陽平の失踪
月曜日の朝、電車のドアが開くと夕子が「よっ!」と右手を挙げ愛想を振り撒きながら乗り込んで来た。令子の周囲にいた女子高生全員が、夕子に手を振って笑った。
「この頃本当に調子いいわね。選挙にでも出るつもり?」
「通学電車の中で無償のサービスするくらい別にいいじゃない。それよりあんた浮かない顔してるけど、どうかした?」
令子は陽平の消息が掴めないことを説明してから「心当たりない?」と切り出した。
「知らない……。山へでも籠っちゃったのかな。もうすぐ冬だし」
夕子は、令子が真剣に陽平のことを心配しているにもかかわらず、平然と冗談を飛ばした。
「イノシシや熊じゃあるまいし、そんな訳ないでしょ。本当に知らないの?」
「知らないって!怒るよ本当に」
「怒ってるじゃない。そっか知らないか……」
令子には、夕子と陽平が変なことになっていないというだけでも、不幸中の幸いと思われた。
「まっ、小説家の都合とか気紛れとかじゃないの」
「締め切りに追われて行方をくらましてるって?」
「そのうち『モスラが好き2』なんて小説が出たりして」
夕子はそう言って笑ったが、実際のところ少し動揺しているようだった。
「そうね」
令子は相槌を打ったものの、そんなことはないだろうと思っていた。「モスラが好き」を読み終えた後で、作品の随所にどうしても陽平と結び付かない違和感を覚えたからだ。陽平が見る「過去の夢」のくだりはともかくとして、中学一年生の少女が見る「未来の夢」のくだりは、どうしても陽平のイメージと重ならなかった。
小説とはそんなものだと言われればそれまでだが、令子の胸中では密かに「ゴーストライター」疑惑が芽生えていた。令子はそのことを夕子には話していなかった。夕子は雰囲気だけで人となりを類推する、ステレオタイプな捉え方を極端に嫌っていたからだ。そのくせ、子供っぽい麻由香のことを、まるで逆で訳ありのように言ってるのはどうだろう?
見せかけと実態の相関について夕子はただ天邪鬼なだけかも知れない。ステレオタイプを毛嫌いする余り、幸福や不幸、善と悪、いい子悪い子などの判断基準が真逆になっているのだとしたら…?
令子は自分のこともそうなのかも知れないと不安になった。
「私のこと過大評価してない?」
令子は、つり革に手を通して、気が抜けたように外の景色を追っている夕子を見上げて言った。
「えっ?何よ唐突に……。してるわよ」
令子は「そんなことない」という答えが返って来るのを期待した自分が馬鹿だったと反省した。それと同時に落ち込んでいる夕子が可哀相に思えて来た。
「ねえ、今度モスラ4のシナリオ持って来ようか。読む?」
「えっ、うっそー!そんなのあったっけ、読む読む」
眼を輝かせた夕子はいつものげんきんなやつに戻っていた。
「私のおじいちゃんが亡くなる前に書いてたもので、映画とは全く関係ないんだけど……」
令子は、大学へ入り下宿先が決まったとき、祖父が遺したもののうち、歌詞とモスラ4のシナリオだけを持って来ていた。
「いいなあ令子は、小学校のときに映画館へモスラ観に連れて行ってもらったって言ってたわよね。私にもそんなおじいちゃんがいたら、人生変わっていたかも知れない。弟だってきっとそうよ」
令子は小学生の夕子と二人で祖父を質問攻めにしているところを想像して、夕子にまで付き纏われることになれば、さすがの祖父も音を上げることだろうと苦笑した。
「九条さんは?」
「うーん…。たまたま見たテレビでのインタヴューが面白くなければ、『モスラが好き』も、あんたのことも知らずにいたってことよね。荒れ狂う海を渡る橋は幾つも用意されているけど、どの橋を渡り始めるかというきっかけは全くの偶然よね。たとえ眼の前に最良の橋があっても、別の飾り立てた橋を選んで、途中で海に落っこちちゃったりして。結局選ぶのは自分自身だしね。令子のおじいさんは、最後まで渡り切れる橋として、初めからそこにいてくれたんだもの」
「まあ……、家族だから」
「家族ねえ……。それが家族なら先生はいらないっつうの。まっ、そうでなくても先生はいらないか。今は小学校や中学校で先生が教えてくれることなんか、インターネットが教えてくれるしね。昔の先生には模擬社会のリーダーとしての役割もあったらしいけど、それさえ放棄しちゃってるし」
「現代の模擬社会っていうのもぞっとする響きがあるよね」
「そうそう、実際、学校において子供たちは現代社会を体現していて、先生はリーダーの座からドロップアウトしてしまった。いや、させられてしまったと言うべきかな、誰かの思惑どおり法治小学校や法治中学校が産声を上げているわ。聞こえて来ない?」
令子はつり革に通していない右手をバッグごと耳にかざしてみせた。
「まるでよその国の日常じゃない。世が世なら言論統制でつかまっちゃうよ」
だが、情報過多の上にリテラシーのかけらもない日本で、そんなことを危惧する必要のないことは、令子も理解していた。
「だけど、見えない統制にかけては我が国の右に出る国はないわね。先生にしてみても、気の毒なものよね。能力を発揮する機会を奪われて、無能呼ばわりされて、もうすぐプロパガンダの手先だもの。私立の小中学校の先生には、どのようにして圧力を掛けるのかしら。幾つもの私立の小中学校が潰されて行くんでしょうね」
夕子は、やれやれという表情をしてみせた。
「大部分は楽になって喜ぶはずよ。だって、反抗する生徒には法律を振りかざし、リテラシーを鍛えるまでもなく、たった一つの真実というまやかしを提示していればいいのだから」
令子は小さくため息をついた。ストレスの溜まる話をすると、最後はいつも馬鹿馬鹿しくなってしまう。それにしても、未来に果たすべき義務も責任もないとのたまっている夕子が、こんな話に真剣になるなんてらしくない。もしかすると、将来チャンスがあれば結婚して子供でもと考えているのかも。だがそれはあり得ないことだ。夕子は三途の川を渡る途中で子供を産むほど狂っていない。相手がターミネーターの中に登場する、未来を担うカイルであれば、話は違って来るかも知れないが……。
電車を降りるとき、夕子は愛想を振り撒くのを忘れていたが、女子高生たちは手を振ってくれていた。
「あんたってほんとに王女様だねえ」
令子の口調はちびまる子になっていた。
昼休みの食堂で、令子と夕子は既に昼食を食べ終わり、消息が途絶えている陽平のことを話していた。その横で麻由香は、ハンバーグを口一杯にほおばりながら、令子と夕子とを交互に見ていた。
「ちょっと電話してみるね」
そう言って令子は九条陽平に電話を掛けたが、やはり「先方の都合により……」としか返事がなかった。
麻由香が最後に残ったブロッコリーを食べている。
「あんた、ブロッコリーは嫌いじゃなかったの?」
素早く夕子が突っ込んだ。
「あまり好きじゃないけど……」
「ははーん、何か話があるんだ。しかも私に」
夕子に機先を制された麻由香は、ブロッコリーを突き刺したフォークを手に、しばらく固まっていたが、思い直したように口に運び、食べ終えてしまってから「あの、今日私の家に来れないかなと思って……」と言った。
「えっ!私っ?」
今度は夕子が固まりかけながら、令子の方を見た。
「両方……」
麻由香はそう言うと下を向き、冬眠中の栗鼠のように動かなくなってしまった。
「あんた今日は取材の日でしょ?」
「今日はないんだけど、夕子は?」
「私は未来住宅のための勉強ばかりだから、まあたまには息抜きもいいかなっと……あっ、失礼」
夕子が麻由香の方を見ると、まだ冬眠中だった。
「まーゆかっ」
夕子の呼び掛けに麻由香が顔を上げた。
「行くっちゅうの」
夕子がそう言うと、麻由香は嬉しそうに笑った。夕子も令子も麻由香が笑うところを見たのは初めてだった。
「あの……どうしてって聞かないの?」
「いいわよ。家へ行ったからって別に拉致される訳じゃないんだし。ま、私はそれでもかまわないけど。この先、この国もあの国もどっちもどっちだし……」
夕子の言葉に、麻由香が困ったような顔をしたのを察知した令子が口を挟んだ。
「そんなことを言ってはいけないわ。拉致被害者のご家族のことを考えてご覧なさいよ。ねえ麻由香」
麻由香は小さく頷き、上目使いに夕子を見た。
「そうよね、考えが足りなかったわ。以後気を……って何よ二人して」
夕子に睨まれた麻由香は、逃げ場を探すように眼をキョロキョロさせながら「ごめんなさい。私、人と話をするのが苦手で、というか合わせなきゃと思うと凄く疲れてしまうの。でも、令子さんなら話をしなくとも一緒にいてくれそうな気がして、あの、悪気はないの」と言った。
「分かってるわよ、あんたは他人の土俵で相撲を取れないし、かと言って自分の土俵に上がってくれる人などいないってタイプでしょ、麻由香のことはお見通しなんだから。だけど令子なんか今までの人生で、自分の土俵に上がってくれたのっておじいちゃんだけだしね。まっ、可哀相過ぎるから私が上がってあげてるけど。今日からはあんたの土俵にも上がるから心配しないで。それにしても令子ってくすんでる割には、変なのを引き寄せるオーラだけは持ってるみたいよね」
「可哀相だから私の土俵に上がってくれてるって?……まあいいか。くすんでる割にはって?……まあいいか。麻由香の土俵に上がるから安心しろって?あんた何様よ。麻由香も黙ってないで何か言いなさいよ」
「あのー……」
麻由香が令子のバッグにぶら下がったモスラのストラップを指差した。
「へっ?これって私のオーラ?」
令子はストラップのモスラをまじまじと見ながら言った。
「わーい!一緒だ一緒だ、令子のオーラっていっつもモスラのストラップなんだ」
夕子は秘密を暴いたとばかりに、得意げにはしゃいでいた。
「そもそも夕子の言ってる土俵って何よ。同じ橋を渡っていれば途中に土俵があっても邪魔なだけじゃない」
「あのー……」
麻由香が恐る恐る口を開いた。
「例えば私たちにしてみても、同じ橋を渡ってることなんてあり得ないと思うの。それに、渡ってる橋がちゃんと未来に向けて架かっているか、それとも途中で途切れているかってことも、自分では判断出来ないと思うの。だからたまには海の上の浮遊島、夕子さんの言う土俵に上陸して話をしたり遊んだりすることが大切なんだと思う……刹那的な自己満足で、未来への約束が途切れた橋を渡ってる人は、浮遊島へ上陸して色んな友達と有意義な時間を過ごしているつもりでも、実際は同じ途切れた橋の上でつるんでいるに過ぎないと思うの。例え本人たちは地球の将来なんてことを真剣に考えているつもりでも、全ては不毛の未成熟な意見で、時代の波に呑まれていることにさえ気付けなくなってしまう。自分が途切れない橋を渡っているという確信がある人は、土俵を創って色んな人に上がって貰うように行動する義務があるんじゃないかと……」
麻由香は、熱く語ってしまったことを後悔するように下を向いた。
「途切れない橋を渡ってる確信なんて持ってる人は、途切れている橋を渡っている人の中にしか存在しないんじゃないの?そんな傲慢さを持ち得ない、自省の念を持ち合わせている人だからこそ、途切れない橋を渡れるんじゃない。いつの時代も幅を利かすのは前者だから、世界のシステムは変えられないのよ」
夕子は子供を産む気などさらさらなく、地球がどうなろうと関係ないという立場から、麻由香の発言には否定的だった。
「そうねえ……『モスラが好き』に登場する中学一年生の女の子なら、確信が持てなくもないだろうけど。夕子は麻由香も読んでいると言ってたけど、読んだことある?」
令子の問いかけに麻由香は「ええ…まあ……」と歯切れの悪い返事をした。
令子が首を傾げていると、麻由香が呟くように言った。
「今、私の家に九条さんがいるの……」
「えーっ!」×2