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第十六章  昭和の戦争

 令子が下宿に帰り着いた時には、午後十時を過ぎていた。社長秘書の件は大学三年になったときに返事をするということで妥協した。

 令子はベッドの中で夕子に借りた「モスラが好き」を開いてみたが、睡魔に襲われそのまま眠りに就いた。帰りの電車の中で読んだ冒頭の何ページかが、夜明け前の夢に現れた。それは陽平が見た夢のシーンだった。


 第二次世界大戦も終わりに近付いた夏、日本の何処かでの物語。その海岸線は小さな漁港がある以外は自然そのものだったが、MARINEWINDからの景観と良く似ていた。砂浜を小学生くらいの子供が何人か裸で走り回っていた。泳いでいる子供もいたが、近くに大人の姿はなかった。

 海岸から少し離れて一本の短い道路が眼に入った。横に粗末な建物があり、近付いてみるとそれは兵舎で、道路のように見えたのは急ごしらえの滑走路だった。格納庫らしきものはなかったが、良く見ると滑走路の奥には木の枝や草でカムフラージュした戦闘機が数機あった。

 間もなく兵舎の中から兵隊が出て来て、教官らしき者が五人訓練生らしき者が十人戦闘機の前に対面して整列した。敬礼が終わるとすぐに教官の中心にいた人物が話し始めた。兵隊たちの顔ははっきり認識出来ないにもかかわらず、声だけは鮮明に聞き取れた。遠い潮騒が通奏低音のように、過去に小さな世界で起きたささやかな瞬間を調和していた。教官の決して威圧的ではない重く透明な声は、戦争という現実を超克して海底で呼吸する音楽だった。

「君たちには今更隠し立てなど無意味なことであると思えるので、私の率直な考えを述べる。戦況は非常に深刻であり、首都は壊滅的打撃を被っている、にもかかわらずいつ果てるともなく戦争は続いている。我が国の人民が絶えるより早く、石油が絶えることを願うのみである……。早朝軍部から指令があった」

 訓練生の列に一瞬緊張が漲った。

「北上している敵航空母艦を攻撃せよということだ……護衛はない。往路の燃料を積んだあの五機で明日の早朝に出撃する」

 教官は振り向き、木の枝に覆われた機体を指差した。

「出撃する者はくじ引きで決定することとしていたが、私が決めることにした。異存はあるか?」

「異存ありません」

 ほんの短い逡巡のあと、訓練生たちは一斉に返事をした。

「それでは発表する。攻撃機には私を含む教官五名が搭乗する……以上だ」

 暫くの間波の音だけが響いていた。十五人の兵隊は風の中で静止したまま、命の重さを推し量るように、ただその音に身を預けているようだった。

「そんなことが許されるのですか?教官がいなくなって、この先やって来る訓練生はどうなるのですか?それに教官には奥さんや子供がおられるではありませんか」

 訓練生の一人が発した言葉には少年のような一途さが残っていて、やり場のない憤りに震えていた。

「短い期間ではあったが、君たちには操縦技術を始めとして、人生の先立ちとしてのささやかな教訓じみたことまで伝えて来たつもりだ。君たちがどのように思っていたかは知らないが、我々は君たちのことを自分の子供と思って指導して来た。気に沿わぬことも多々あったと思うが許してくれ。操縦技術に関して言えば君たちはもう教官としても十分通用するだろう。君たちが私の妻や子供のことを慮ってくれたことに感謝する。そこで君たちに質問したいのだが……君たちは何のために命を賭して戦っているのか?」

「日本国民のために……」

 別の訓練生が答えた。

「その中には私の妻や子も入っているのかね」

「当然であります」

「非日常で構築された時代の声に惑わされてはいけない。子供を助けるのは親の役目だ」

「守るべき者には私たちの親も含まれております」

「自分を守るために子供を死なせてまで、生きていたいと思う親がいるかね……回れ右!」

 訓練生は一斉に身体を反転した。彼らの前にはいつもと変わらない海があり、空にはかもめが群れていた。

「アメリカとの戦争に至ったロシアの影響を初めとして、君たちに伝えるべきことは伝えて来たつもりだ。君たちが私たちの指導方針に疑問を抱いていたことは知っている。この非常時に何を悠長なことをと思っていただろう。私たちは操縦にしても戦闘機に搭乗させるために指導していたのではない。いつかあのかもめたちのように、自由な空で羽ばたいてくれることを願っている」

 翌朝五機の戦闘機は朝焼けの空へ飛び立って行った。十人の訓練生は敬礼をして見送っていた。機体が水平線の彼方へと消えたあとには、波の音が静かに別れの時を刻んでいた。


 場面が変わり、終戦後の長崎で、GHQ三人と日本政府高官らしき者が五人、会話を交わしながら歩いている。

「原爆投下について、将来においては合衆国の責任に言及することもあるかと思われるが……」

 GHQの一人が、慎重な面持ちで切り出した。

 別の一人が「これ以上この戦争を長期化させれば、本土の非戦闘員をも巻き込むこととなり、そうなれば戦争責任を国民総意に転嫁することは非常に困難になるだろう。仮に現在をやり過ごせたとしても、将来において誤魔化しきれる保障は全くと言っていいほどないだろう。天皇を擁護する限りにおいて、原爆投下は日本国民の犠牲を最小限に抑えるための最終通告である。このことは未来永劫において普遍の真実とする」と、見解を述べている。

 天皇擁護なんてソビエトの台頭を警戒する、アメリカの都合だったということは、今の日本では誰もが知っていることだ。そのときの世界が現在の状況であれば、本土決戦が首都に及び天皇制は崩壊していたかも知れない。

敗戦国日本の責任は、戦勝国の言い分であることにして、問題なのは、まるで自分たちが天皇制を擁護したかのように、臆面もなく戦後の日本に君臨し続けている者たちだ。アメリカによる支配を同盟という言葉にすり替え、永きに渡り自治国家であると幻想を抱かせて来たことが、幸福であったのか不幸であったのかはどうでもいいことだが、少なくとも戦前の歴史を否定し続けたことは、彼らの犯した最も大きな罪悪の一つであり、日本国民にとっての不幸であったと言える。

 日本民族唯一のアイデンティティーの拠りどころであった神話を否定しながら、天皇制を存続させるパラドクスに陥った日本人は、リベラリズムを誇張する教育を受けた占領軍の兵士により洗脳され、ギヴミー・チョコレートと口にすることに馴らされたまま、大人への階段を上って行ったのである。それにも拘らず誇りを失わなかった者があるとすれば、沖縄やアイヌの人々であろう。彼等はそれまでもマイノリティーとしての境遇に耐え、民族共通の確固たるアイデンティティーを持ち続けていたからである。

 その後の日本人は、金と肩書き以外のものにアイデンティティーを見出せない国民に成り下がってしまった。同時にそのことこそが、アメリカの占領政策が目指したところであったのだ。許されないのは、ドルが弱いときも、強く見せ掛けているときも、アメリカに有利な「構造改革」「規制緩和」等を実行する者たちである。ドル安になってからの郵政民営化は、アメリカにとっては全く魅力のない出来事である。郵貯の株式が上場された後しばらくすると、アメリカは全ての日本の株式を売り抜けて、ドル安へとシフトするのである。そのとき、強いドル政策を敢行する上で、苦渋を舐めさせられていたアメリカ自動車産業が、世界市場を席巻することになるのである。

 強大な通信情報産業を武器とするアメリカは、体力を消耗する競争を回避しながら世界に君臨するシステムを完成させた。それは日本の功績に拠るところが大きいのであるが、現在国を挙げて新しい燃料やエンジンの開発に邁進しているアメリカは、アメリカ自動車産業への穴埋めの準備を完了しつつあり、ドル安に突入した途端に日本の自動車産業は壊滅の憂き目を見ることになる。


その日通学電車の中で、令子は夕子に明け方に見た「モスラが好き」の中の陽平の夢の話をした。

 夕子は、これから陽平が見る夢は、張作霖事件、南京事件、ロシア革命、アメリカ独立戦争へと遡って行くことになると言ってから「ネタばらしちゃいけないよね」と肩をすくめた。

「革命や戦争ばかりね」

 令子がそう言うと、夕子は「お国の事情や、ファシズムの形成されて行く過程のようなものが中心になってるの。南京事件後のイギリスのクリスマス・メッセージとか……。私なんか『モスラが好き』を読んだせいで、中学生だというのに思想やら古典経済やらの本を読むことになったんだから……。まっ、娯楽小説だけどね」と言って笑った。


 下宿へ帰って自転車に乗りパチンコ店へ向かいながら、令子は陽平と夕子が並んでパチンコをしている姿を思い浮かべていた。

パチンコ店には令子はもとより、陽平の姿さえなかった。その日は「有り金摩っちゃったかな?」などと考えていたが、翌日も陽平は来ていなかった。「風邪でもひいたのかしら?それとも……」令子の脳裏に「デートしてホテルでご馳走してもらったよ」と言ったときの夕子の笑顔がよぎった。

 木曜日、金曜日と過ぎて、土曜日も日曜日も、陽平は姿を見せなかった。令子は陽平からもらった「ポンポコリンクラブ」の名刺を取り出し、意を決して電話した。

「先方の都合により……」と応えたきり、電話は繋がらなかった。


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