第十三章 令子・夕子・麻由香
昼休み、食堂には先に来ていた令子が、向かいに夕子の席を確保して値段の安いAランチを食べていた。月曜日にはいつも、令子の隣には麻由香という女子学生が座っていた。彼女も令子と同じ経営学部で、この町の女子高からただ一人の入学者だった。
麻由香は、令子が通学電車で眼にしている彼女たちと、同じ高校の出身だとはとても思えない程、地味な出で立ちだった。中学生と見間違えるくらい子供っぽい容姿の麻由香は、装飾や化粧にはまるで縁がなく、小麦色に日焼けした顔と真っ白い歯が印象的だった。可愛い服を着て笑顔で秋葉原へでも繰り出せば、夕子と言えど影が薄くなってしまうだろう。しかし、麻由香はいつもいたって無表情でむすっとしているばかりだった。
夕子はBランチのトレイを持ったまま麻由香に「こんにちは」と軽く挨拶して席に着いた。麻由香はおずおずと「こんにちは」と挨拶を返したが、それは相手が夕子だから物怖じしているという訳ではなかった。
麻由香にとっては、令子以外の人間は皆、変に大人びて近寄りたくない存在なのだ。夕子には、自分もその他大勢に過ぎないということが、面白い経験だった。
麻由香は自宅から自転車で通学していて、昼食も家で食べているが、月曜日は母親が留守ということで、学生食堂で食べている。
入学してすぐ、令子は忙しい身の上なので、意識して友達を作らないようにしていた。それがいつの間にか、月曜日の昼に麻由香に付き纏われることになっていたというのだ。
本来、麻由香は独りが好きらしく、普段は令子に近付いたりしないのだが、食堂へ行くときだけは、一人では心細いらしい。だから食事中も滅多に言葉を交わさない。
「これ、貸したげる」
夕子が令子のトレイの横に置いた本を見た麻由香は、フォークとナイフを持ったまま、団栗をほおばり過ぎた仔栗鼠が周囲を気にするときにするようなしぐさで「モスラが好き」と夕子とを交互に見た。
令子はそんな麻由香の様子には気付かず「今朝言ってた本ね、何だ持って来てたんだ、ありがとう」と言ってショルダーバッグの中に入れた。
「朝渡せば令子にリポート読ませる時間なくなっていたからね」
「そういうことか……。ちゃんと提出した?」
「ええ、でも教育論単位落としてもいいような気がするの」
「まあ好きにすればいいことだけど、それにしてもたかが授業じゃない。夕子が演技する余裕ないなんて珍しいこともあるものね」
令子は少し意外そうに言った。
「教授や学生のことはどうでもいいんだけど、みんな子供にフィードバックされて行くと思うとやりきれないの。黙殺するって共謀者ってことじゃん。教育論なんて選択しなきゃよかった。令子の言うとおり日本では成り立たない学問よね」
「ええ、連綿と受け継がれて来た戦前の歴史を、否定することから始まった教育だもの、所詮は骨抜きってことじゃない。ミイラ取りがミイラって感じ?大切な役割に気付きもせずに、どうでもいいような二重構造の是正なんていう罠に落ちて、三重構造を助長するだけだもの。しかも、仮に是正なんてものが上手く行ったとしても、誰も幸福じゃないなんて空し過ぎるわ。でも、夕子いつも言ってるじゃない、私には本来百年後の子供たちへ果たすべき義務はないって、それなら他人事でいいじゃない」
「まあそうだけど」
言われてみれば、夕子の生涯設計には結婚も出産も含まれていないので、末裔を慮るのは老婆心と思えた。
麻由香はすでに食事を終えようとしていた。皿の上には人参グラッセだけが、手を付けないまま残されていた。
「あら、もう食事終わりなの麻由香?」
夕子の呼びかけにびくっと反応した麻由香は、まるで母親に注意された子供のように下を向いた。
「人参ちゃんと食べようね」
夕子にそう言われると、麻由香はしばらく躊躇するように皿を見詰めていたが、意を決したように全ての人参グラッセにフォークを突き刺し、口一杯にほおばったままトレイを持って席を立ち、そのまま戻らなかった。
「あーあ、夕子が苛めるから」
令子はまたかと、咎めるように夕子を見た。
「ごめん……ふーんだ、どうせ私なんて口うるさい母親ですよ」
夕子はわざとふてくされたような言い方をした。
「悪いと思ってないくせに。麻由香にはいつもそうなのね、何故なんだろう」
麻由香の嫌いな食べ物は、人参、ピーマン、セロリとかの子供じみたものばかりで、昼食のたびに残していた。令子は、まだ麻由香と二人で食事していた時から気付いていたが、何も言わなかった。
相手がいくら子供っぽいといっても、余計なお世話と思っていたからである。それをまた、よせばいいのに夕子は、同席するようになって一カ月もたたない頃から、ずっと指摘し続けているのだ。夕子が言うと麻由香は、ピーマンでもセロリでも残さずに食べてしまうのだ。
「麻由香も、言われてから食べるのなら、最初から食べておけばいいのに」
令子は大人気ない二人に、呆れたというように言った。
「麻由香がそうして欲しいのよ。これでもあの子には結構気を遣ってるのよ私」
「へえ、そうなんだ、全然見えないけど」
「私が麻由香に食事のマナーの駄目出しをするまで、麻由香は食後お腹が痛いとか、購買部に行くとか言って、先に席を立ってたじゃない」
「ええ、二人で食べてた時も、いろんな理由を付けて、先に席を立ってたわ」
「だから私がきっかけを作ってあげてるの。もし一緒にいたいなら、人参食べればいいだけだもの」
「ふうん……あなたたちの関係ってまるでメビウスの輪ね。表か裏か全く見当付かないもの」
「ま、彼女のことを子供扱いしたい向きには、とんだ食わせ物ってことね」
「夕子は麻由香が実際はそんなに子供じゃないと言いたいのね」
「そうよ」
「週一回食事のマナーをとやかく言ってるだけで、彼女のことが解るっていうの?」
令子は夕子の麻由香についての印象が独善的に思えてならなかった。
「あんた、私に初めて出会ってどんな印象を持った?」
令子は少し考えて「どんなって、生まれてこの方あんたみたいな美人見たことなかったもの……」と答えた。
「どんな人間だと思ったってことよ」
夕子は具体的な質問に切り替えた。
「一般的な美人に輪を掛けたような人間かなって……」
依然として令子の答えは具体性に欠けていた。
夕子は自ら答えを用意して「美人に輪を掛けた性格ってつまりは、わがまま、高飛車、冷淡の極みってとこね」と問い詰めた。
「まあそうと言えなくもないけど……確かにそうね、それに加えて何か特別な才能や霊感の類を持ち合わせているやも知れないなどと……私としたことがステレオタイプな見方をしててごめんね。でも逆に夕子からすれば、麻由香以外のほとんどの人間は似たもの同士ってことね」
「それで、今は?」
夕子は矢継ぎ早に質問を浴びせた。
「意外に普通……」
「私はまあこんなだから、麻由香のようなそれに類する人間の、意外とつまらない考え方なんかが見えるの。超資産家のご令嬢なんかと同じように、美人とか可愛いとかいうのも、その子が置かれている環境だと解釈すると、社会との係わりの中で利用出来るものは利用しようとする者もいるってだけのことよ。もう一つ言わせて貰えば、利用出来るものを利用しないということは、利用出来るものを持たない者よりも、ある種の覚悟が必要になるの」
夕子の親友を自負している令子にとって、その発言には身につまされるところがあった。
「それじゃ、麻由香は子供っぽく見えることを利用していると?」
「その逆よ、あんたこの前ディベイトのときの麻由香の様子話してたよね」
「ええ、英語の講義でディベイトをするときなんか、誰とチーム組んでも陰に隠れて、でも…でも…しか言わないし、他の課題はトップクラスだから、麻由香は引っ込み思案ということでみんなは黙認してるけど、もちろんアメリカ人の講師も含めてね……あれで大人なら誰が子供って感じだけど」
令子が納得できない風なのを遮るように、夕子は「あんたもメディアでのディベイトに危機感を抱いている割には、前向きに取り組んでるのね」と言った。
「うーん…だけどたわいもない内容だし、英語力が付けばまあいいかと思って」
令子は以前夕子とメディアリテラシーについて議論したとき、夕子がディベイトも槍玉に揚げたことを思い出していた。それにもやはりメディアが深く係わっている。
ちっぽけな問題に関しては、どちらに転ぼうと支障ないように思えるし、仮に争うのであれば、とりあえず裁判というディベイトの場があるのだ。それがメディアを利用しての国家レベルの問題に関するディベイトの場合、対立する意見を述べ合っていても、最終的には必ず最初からの決め事に落ち着くのである。
要するに、ディベイトの方法を学び、効用を信じる者が、国家の予め決められている政策を、プロパガンダを駆使したディベイトにより、国民の総意であると誤認させられる可能性があり、民主風ファシズムを助長する。憲法や核や経済について、テレビのディベイト番組を見ながら、自分も参加しているように錯覚し、あっちへふらふら、こっちへふらふら、最後にはメディアを操作している者の思惑に賛同するくらいなら、貧しい生い立ちから来るハングリーなお笑いに郷愁を掻き立てられ、涙している方がまだましというのが結論だったように思う。
ディベイトに参加するには、正しいリテラシーが必要で、正しいリテラシーがあるのなら、ディベイト以前に答えは出ているはずなのだ。ただ、裁判員制度での量刑の決定のように、元々正しい答えがないものには、ディベイトで責任をあやふやにするというのも、ストレスを回避するには良策のように思える。殺人など日常茶飯事となりつつある時代、見せしめとしての死刑を増やそうとすれば、みんなで決めたという言い訳があるほうが好都合だろう。本来、個としての(本来は多数であろうと)人間には人間を裁くほどの尊厳は備わっていないのだから。
「私にとっては、英語のお勉強以外の何ものでもありません」
令子はやや開き直りとも取れる発言をした。
「麻由香は英語の講義でもディベイト以外では的確な発言をしているのよね、それがディベイトの時だけ、でも…でも…としか言わないのは、気おくれとかで発言出来ないのじゃなくて、周りの学生たちが相手をやり込めようと躍起になっていることに、不安を覚えたのよ。でも…でも…は警鐘のつもりよきっと」
「何故そんなに自信たっぷりに言えるのよ、ちゃんと話をしたこともないのに。もしそうだとすれば、私がすごく無責任みたいじゃない。子供がいる大人たちの義務を肩代わりする必要があるって言うの?」
令子は、夕子が直感だけで麻由香を自分の同類としていることに、置き去りにされたような気分になっていた。
「でも…でも…が根拠なんだけど、ある意味で麻由香は大人過ぎるのよ。ただでさえ子供っぽく見られて、大人びたことを言っても説得力がないことが歯がゆくて仕方ないの。今日の麻由香を見て、自信は確信になったわ。危うい仮説だったけど、やっと真実となり得たって感じ」
「何の説明もなしに、納得する訳ないじゃない」
「今日渡した本を読めば分かるわ」
「夕子の言ってる意味、全然分からない」
令子は力が抜けたように肩を落とし、ため息をついた。
「麻由香があの本を読んでいるということよ。令子は気付かなかったと思うけど、さっき令子に本を渡したとき、表紙を見て目が点になっていたのもあの子。それともう一点、子供もいないのに未来を危惧する老婆心は、あの本のせいだということよ」
「じゃあ読んでみる。解るかな私に……」
令子は、自信なさ気に夕子の顔を見た。
「ただの娯楽小説よ。それに、あんたは案外ニュータントに近い存在だし」
「何それ、モスラの敵?怪物?」
「いえ、むしろ味方って言うか、ニュータントがいなければモスラは繭から出ることすら出来ないわ。小説の中で、未来の夢に出てくる子供たちの中に混じって暮らしている、洗脳されていない子供のこと……でも、いつも独りぽっちなの」
「なしてー!それってそんなに珍しい人種?私のような人間なんて、履いて捨てる程いるじゃない」
「今の世界ではまだしもね。未来は違っているの」
令子には喜ぶべきことか悲しむべきことなのか、判断が付かなかった。
「今日も取材よね」
「六時からだけど。今度はちゃんとした会社の社長だから、問題ないと思うけど」
令子は、陽平のことがあったので、夕子が売春斡旋のことを心配しているのかと思った。
「そのことなんだけど、もういいわ。あんたにも重荷になってるみたいだし」
「えっ!もう斡旋しなくていいってこと?」
令子は、大きな声を出してしまったので慌てて周囲を見回した。食堂にもう学生は殆ど残っていなかった。午後からの講義の時間が迫っていた。
「英国で尼になるの?」
「ならないわよ」と夕子は笑って答えた。
「相手のことを知りもしないで直接交渉は絶対やめてね。夕子の場合、金額が金額だから特に危険だし、私のことなら大丈夫だから」
令子は、声を潜めながら懇願するように言った。
「心配いらないわ。四年生になればフリーメイスンへの根回しとかで忙しいでしょ。だったら今から卒業設計に向けて準備しておこうと思ってさ」
「えーっ!こんなに早くから?まあ、そのほうが私は嬉しいけど、そんなこといつ決めたのよ」
「ついさっき。私思い出したの、『モスラが好き』の中で女の子が見る未来の夢の中に、廃墟と化したオフィス街みがあったのを。しかもそれらのビルディングは、現在最も未来的と思われる新丸ビルクラスの建築物よりも、遥かに環境への負荷に配慮していたにも拘らずよ…。どのような配慮がなされているかと言うと、設計段階で既に解体に至るまでの間に考え得る全ての合理的方法が取り込まれていたの。建設材料のモジュール化及び単純化、外周部の柱を組柱に集約し、リニューアルを容易にするスーパーフレーム、損傷制御による耐震、コアスペースの合理化、スケルトン・インフィルの徹底、CASBEE(環境評価システム)により評価した環境性能はSプラス超になっていたのよ…。もちろん建築物の環境破壊への影響以上に、考えなきゃいけないことは多いけど、私の専門じゃないし……この時代の技術を最大限に駆使したところで結果がそれなら、元々適当に選んだ学部だけど、一応最先端を自負して勉強していたことが腹立たしくなったの。『モスラが好き』で、まだ足りない何かがあることを示唆しているんだったら、本腰を入れて未来建築ってのはこれだ、みたいなあーってのを設計したくなっちゃったのよ。いかに頑張り屋さんの私でも、さすがにこればかりはちょっとねえって感じ…かな」
「そんな大変なことを、そんなすぐに決めれるの?」と令子は呆れて尋ねた。
「はーい!社会的な方へと向かうときは、行き当たりばったりでいいのよ。四カ月集中して無理だったらよすわ。そのときはよろしく」
「はっやーい!四カ月ってなによ?」と令子は呆れて尋ねた。
「私のサイクル」
「そうですか……講義に遅れるから行くね」
夕子と別れた令子は、足早に歩きながらショルダーバッグの中に手を入れ、よれよれになった娯楽小説「モスラが好き」に触れてみた。それは子供の頃からずっと探し続けている、不思議というものの形のようだった。