第一章 DREAM IN THE DREAM
十一月のある夜、大学一年生になった今田麻由香は、暖かいベッドの中で夢を見ていた。
その夢は近未来の出来事で、獄中にいる麻由香が最後の夢を見ている設定だった。
朝早い、見覚えのある海辺の町の風景に、麻由香は子供の影を探している。小学生の頃から見続けている麻由香の夢は、遥か未来の冷え切った地球から始まって、臨界温度を越えた海水温度の上昇で、大陸棚全てを覆った動物性プランクトンによる人類存亡の危機へと、徐々に混沌とした現代へと遡っていた。人類が滅亡した地球を別にすれば、麻由香の夢にはいつもニュータントと呼ぶことにしている子供が登場していた。しかしその子供は、麻由香が子供のときそうであったように、いつも独りぼっちだった。
遥か昔、麻由香が大学一年生だった冬に、母親のフォードエスケイプ・アクアフイールのルーフにボードを積んで、ここの海岸へサーフィンに来たことが思い出された。麻由香 を含めメンバーは四人だったが、女の子二人は良く覚えているのに、男の子のことがどうしても思い出せない。名前は…まあ龍之介でいいや。
麻由香はその男の子を龍之介と命名した。
「顔でかーい!顔でかーい!」
後部座席のメグが、お気に入りのアラレちゃんの主題歌を口ずさんでいる。
「ガールフレンドいる?」
メグは思い出したように、助手席で借りてきた猫状態の龍之介の肩を突っついた。
「いないけど……」
「全寮制のフリースクールにも女の子いるんでしょ?」
「いるけど、そんな余裕ないから……」
「一体何がそんなに忙しいのよ?」
「受験勉強とか……」
「大学行くんだ?」
「一応……」
「志望校は?」
「麻由香さんと同じ大学」
「へえっ!麻由香先輩の大学!ってことは私たちの志望校じゃん。ねえ涼子」
「小うるさいメグと一緒なんて、受かったとしてもちょっとねえ」
車窓の波を追いかけていた涼子が笑いながら言った。
運転席の麻由香が(私じゃん!)「だったら、あなたのお姉さんとも一緒だということね。私の父がお姉さんに話したことについて何か聞いてる?」と問いかけた。
「はい、正月に家へ帰ったとき、姉も帰っていたので。中学生の頃から僕に依存していたことで、登校拒否という事態を招いてしまったと言われたと。僕はそんな風には思っていませんが。それと、もう僕に依存することはないので、安心して同じ大学の建築学部へ来るようにと。僕は人と係わるのが苦手なので、大学なんかへ行っても友達も作れないだろうし、それに僕の家貧乏だから学費も出せないだろうと言いました。姉はアルバイトで学費を捻出しているようですが、僕にはそれも無理だと思えるんです」
「ふうん、貧乏ねえ……。あなたのお姉さんを見てると、テレビなんかに出てるセレブとかいう女の子も真っ青って感じだけど。確かに化粧もしてないし、身に着けているものはいたって普通だわね」
「はい。中学校にいたときは、血が繋がっていないだろうとよく言われました」
「そうよねえ…それであなたは大学に行かずにどうする積もりだったの?」
「フリースクールを出てからは、取りあえずアルバイトのようなことをしながら、先のことを考えてみようと思ってたんですが、姉には僕の家のように、将来親を当てに出来ない家庭に育った人間に、モラトリアムはないと言われました。結婚も出来ないし、親がいなくなれば、今の賃貸マンションの家賃すら払えなくなって、一生を最低賃金のまま、ネットカフェかブルーシートで終えるだけのことだとも……」
「言えてるわね。そんな生き方を否定する訳じゃないけど、自分を誤魔化しながら境遇を肯定して生き続けることになるなら、悲惨過ぎるわ。それでお姉さんと同じ大学へ行こうと決めたの?」
「どうせなら僕はIT関連の専門学校へ行きたいと言ったんですが、今どきのコンピュータとかの専門学校のカリキュラムは、クライアントサーバ型ネットワークに終始しているから、苦労して卒業した頃には既に淘汰される運命だと。だったら建築の勉強をしながら、独自にインデックス・ファブリクスの勉強もすればいいと言われました。学費は私が何とかするし、そうすればモスラのご加護もあるからとも……」
(同じ大学の同じ学部を勧める理由がモスラのご加護?夕子ったら……。このところ未来住宅の設計で悩んでいるかと思えば、こんな手があったって訳ね……。思いっきり依存する積もりじゃない。インデックス・ファブリクスなら、うちの大学が一番力を入れている分野じゃん。私が選んだ経営学部では、学長自らが陣頭指揮を執って、来るべきハード・ソフト一体型情報社会の出現に備えているというのに。それがどうして建築学部な訳よ)
麻由香はつぶやきにもならない言葉を頭の中に描きながら運転していた。
「あなたの学費も出せるなんて、お姉さんは個人的に結構裕福なんだ?」
「それが、僕にもよく分からないんです。大学へ行くようになったときも、両親は学費が払えないと言ってたのに、平気な顔をして全部自分で何とかするからと言って笑ってました」
「あなたのお姉さんって、見掛けはこれでもかっていうくらいお嬢さんだけど、生活力あるんだ」とは言ったものの、麻由香には龍之介の姉がどのような方法で、二人分の学費を捻出するのかなどということは、どうでもいいことだった。
「あっ、見て見て!低気圧の位置からいってもあの辺りの波、結構いいんじゃない?」
いい波ウォッチャーの涼子が沖を指差しながら言った。
「おーおー、オンショアーでダンパー気味だけど、他のスポットにはセット入ってなかったしねえ。ちょっと辛いけどがんばろう、ねっ龍之介」
「おっ、おー!」
メグに発破を掛けられた龍之介は、意味も分からないまま同意していた。
いい波を探して海岸線を巡り、辿り着いたのはリーフのサーフスポットだった。
麻由香たち女子三人組は車内でフルスーツに着替え、寒さと怪我予防のためウェットスーツと同じ素材のブーツを履いていた。龍之介は車外で借り物のフルスーツに着替えていた。
ウェットスーツはただでさえ窮屈な素材で出来ている上に、麻由香の知り合いから借りたものは少し小さめなので、龍之介は背中のファスナーを上げるのに手間取っていた。車から出て来たメグが「龍之介は面の皮からして薄そうだもんね」と言いながら、龍之介の首にワセリンを塗ってからファスナーを上げた。
三人は、しばらく波の状態を確認してからサーフボードを担ぎ、小さな岩に足を取られないように注意しながら波打ち際へと歩き出し、龍之介もその後に従った。
「足の裏が痛いってあんた、グローブは持って来てるのにブーツ持って来てないのね。一月にサーフィンするならブーツもいるでしょ。陽平おじさん貸してくれなかったの?十一月に二回連れて行ってもらったって言ってたけど、そのときはどうしてたのよ」
麻由香が問いかけると、龍之介は「足のサイズが合わなかったから、使わなかった。それにビーチだったので、冷たかったけど痛くはなかった」と答えた。
「このスポットはリーフでしかも浅瀬だし、波も頭を超えるのが来ているし、ヘルメットもないし……ワイプアウトしたとき頭を怪我しないようにね。そこまでいかなくとも足の裏を切っちゃうかも……。まあ、今日のブレイクなら海底の状態がいい場所にエントリー出来ると思うけど。陽平おじさんからボトムターンも出来るようになったって聞いたけど、ライディングではあまり海岸に近付かないで、早めにプルアウトするようにしてね」
メグと涼子はエントリーのポイントを決めると、それぞれ別の方向へとゲティングアウトして行った。真っ白なショートボードの上で、胸を反らせパドリングしながら沖へと向かう彼女たちは、水鳥の羽に乗って地球を遊ぶ可愛い小動物のようだった。
麻由香に促され、龍之介は足首にリーシュコードを繋いだ。波のブレイクの状態を見ていた麻由香は「ゆっくりでいいから付いて来てね」と言って、パドリングを始めた。ゲディングアウトしている途中、セットが来ると龍之介は上手くローリングスルー出来なくて、麻由香に大きく水を開けられた。その度に麻由香はサーフボードに跨り、波を待つときのウェイティングの姿勢で、龍之介が追い付くのを待っていた。
龍之介はポンポコリンクラブのおじさんたちに二回サーフィンの指導を受けているが、そのときは波が小さくてプッシングスルーで対応出来たのだろう。だが、今日は波が大きい上にオンショアーのせいでダンパー気味になっているので、水深のあるコースでカレントを上手く使えないと、沖へ出るまでに相当時間と体力を消耗してしまうことになる。
パドリングはスムーズに出来ているところをみると、基本的なことはちゃんと教わっているらしい。ライディングしているサーファーが近付いて来たときの非難の仕方、自分がテイクオフするときのドロップインの禁止など、頭で考えて理解出来ることについては、自称プロサーファーがいるポンポコリンクラブのメンバーが指導したのであれば、何も問題ないだろう。
だが、今日のサーフスポットでは技術的な経験が重要となって来る。どちらかと言えばローカルのサーフスポットなので、初心者同伴の場合は遠慮するのが礼儀だが、幸い今日は他のサーファーはいなかったし、他のサーフスポットの条件が良くなかったのでここを選んだ訳だ。
龍之介はリーフのスポットが初めてで、その上波も軽く頭まであったので、ワイプアウトすれば海底の岩に叩きつけられる恐れがあった。おまけに、波を待っている間も注意しないとカレントが速く、うかうかしていると漂流する可能性がある。
麻由香は、やっとのことでエントリーポイントに到着しウェイティングしている龍之介の隣で、カレントによりポイントがずれて来ると、元の位置に戻るように促した。そして、セットが入ると、何番目の波に乗るようにと助言し、パドリングを始めるタイミングを教えた。
波が途絶ええいる間、麻由香は沖を見ながら歌を歌っていた。その歌は安室奈美恵のものだったが、歌詞はまるで違っていた。
……世界中の星空が 眠りに就いても
忘れないでねいつだって 私が見てる
あなたの笑顔誰にも渡さないわ
I'll follow you
つまずいても
戻る場所は
あなたがいる景色
You never say to me
さよならなんて
If I'll just follow
just follow you
あなたがくれたその優しさ 宝物よ
だから今その涙 隠さずに
心塞ぐときは隣にいるわ
I'll follow you
夜を 夜を越えて
行方を照らす
微かな光届ける
You never say to me
悲しみなど
If I'll just follow
just follow you
世界はあなたを
独りにしない
寂しくて
振り向けば 愛が 愛が
I'll follow you
呼んで 呼んでみてね
必ずそこに
あなたの居場所がある
You never say to me
ごめんねなんて
I'll just
just follow you
just follow you
just follow you
just follow
follow you ……
結局その日の麻由香は一度もテイクオフしなかった。そのことを龍之介は気付いていなかったし、めいめいのポイントで地球と戯れているメグと涼子に至っては、全く気にしていなかった。麻由香は自分では認めていないが、親しい人からは苦労性であると認定されていた。