私は 愛しています あなたを
この小説は「Arcadia」にも投稿させていただいております。
「今夜は月が綺麗だな」
似合わなっという言葉を呑み込んで私は「うん」とだけ言った。
そうして二人とも再び口を閉じて、また冷たい沈黙が降りた。
空を見上げると月は雲に隠れて、頭のてっぺんを覗かせるだけで、綺麗かどうかは分からない。
何を見て綺麗と言ったのだろうか。
二人の足音だけが不規則に響いて、段々と空気に溶けて、気にならなくなって、気が付くと相手の背中を見つめていた。
はっきり言って気まずい。
そもそも高橋とはほとんど話した事が無くて、ただ同じ学校の同学年、それから同じバスケ部だというだけの関係だ。クラスも違う。
流石に突然暗がりに連れ込まれてなんて事は無いだろうが──その時はこっちの方が足が速いはずなので全力で逃げれば大丈夫なはずだけど──あまり男子と二人で居た事の無い私としては、こんな月の出た(雲に隠れてるけど)何だか幻想的な夜道を男子と二人っきりで帰るというのは、慣れないというか、気恥ずかしいというか。
高橋も高橋で、何時も傍から見ていると煩い位に騒いでいるのに、どうした事か今だけは静かに重々しく、私の前を歩いている。
何か喋れー、何か喋れーと念じてみても、喋り出す気配も無く、こちらから話す事も特に無くて、仕方無しに相手の歩調に合わせて歩いていると、自然と視線は足元へと下がっていった。
せめて誰か友達が同じ方面に居てくれればと、本当に今更な事を考えていると、学校から帰る時に何時も味わっていた寂しさを思い出して、一人でないだけましかと思えてきて、ふと言葉が口を衝いて出た。
「家、こっちなんだ」
「ん? ああ」
高橋は歩く足を一時も緩める事無く、それだけ言ってまた黙った。
私が少し横に逸れて斜め後ろから高橋を見上げてみると、闇に沈んだ短い黒髪の向こうに神妙な表情をした白い顔が月の光に映えている。
こんな顔も出来るんだなぁ。
思い出に残る高橋の顔は馬鹿笑いをしている砕けた表情ばかりで、今日の様に締まった表情は初めてだ。
そうしていればカッコ良いのに。
そんな些細で新しい、そして余りにも今更な発見が今日はとても物悲しかった。
「今日は一緒に帰ってくれてありがとう」
「あ、ああ、別に、同じ道だし」
「どうして今日は残ってくれたの?」
「そりゃあ、部活同じだし」
ふと高橋がこちらを見た気がした。
ほんの一瞬、顔が動いただけで、幻だったかの様に今はまた前だけを向いているので、私の事を見ようとしたのか、それともただの気まぐれだったのかは分からない。
「それに教科書貸してくれたし」
「教科書?」
高橋に教科書を貸した憶え何て無かった。
勘違いしているんじゃないだろうか。
「ずっと前に」
ずっと前、ずっと前、記憶を巡っていると、漸く光明が見えた。
確か今年、まだ入学したての四月に、友達へ教科書を貸したところ、その日は返って来なくて、次の日に返って来た事があった。
まさか、あの時か?
後は幾ら考えても思い浮かばない。
「数学の教科書?」
「ああ、裏に名前書いてあって」
何処まで渡り歩いていたんだ、私の教科書は。
っていうか、恥ずかしい。
私の名前入りの教科書が市中引き回しに遭ってたなんて。
こんな事ならもう少し綺麗に名前を書いておくべきだった。
それもまた今更だけど。
「ああ、そっか。いやでもそんな、大した事じゃないのに」
「いや、ありがたかったから」
まあ、お役に立てたのなら、様々か。
そんな一年越しで思われる様な事でもないと思うけど。
また静寂の帳が下りた。虫の音もこの季節には聞こえない。
凍える冷気と硬質な靴の音だけが私の耳へと入ってくる。
けれど不思議と不快な気分は消えて、穏やかて温かい気持ちが心に生まれていた。
私の家はもうすぐだ。
さっきまでならそれを喜ばしく思っていたのだろうが、今はもう少しだけ話していたい気分だった。
でも、もう終わり。
足音は規則正しく、緩む気配はまるで無く、終わりの時を正確に刻もうと、こつこつと辺りに響く。
今夜は月が綺麗だな。
高橋の言った言葉が何故だか気になって、私は空を見上げた。
空に浮かぶ月は相変わらず雲に隠れていて頭だけが僅かに見えている。
風流と言えば風流と言えるのかもしれないが、月が綺麗かどうかは分からない。
そこで思い至った。
そういえば、どこぞの誰かが『I love you』を「今夜は月が綺麗ですね」と訳したんだっけ。
まさか。
いやいや、そんな事は無いだろう……とは思うけど。
高橋を見ると、先程から変わらず月の光を浴びながら神妙な顔をして歩いている。
勿論、その顔に『あなたが好きです』なんて書いてある訳が無い。
その顔に私への愛情が入り混じっている様にも見えない。
そもそも、ただ単に月が綺麗だと言っただけかもしれない。
月は隠れて見えないけれど、何となく綺麗だと思って、そうして何となく、それこそ翻訳のエピソードなんて知らないのに、ただ何となく口に出しただけかもしれない。
だって、今夜、月、綺麗の何処に愛の要素が入っているというのか。辛うじて綺麗という部分だろうか。それすらも月に対してであって私に言った訳では無いだろうし。
言葉は言葉で、あくまで後ろ盾があってこそ意味があるのだろうけど、私と高橋がそんな関係になった事も、今までそんな雰囲気になった事も無いのだし。
悩んでいると、自分が高橋に見惚れている事に気が付いて、私は咄嗟に顔を逸らした。
そうしてまた恐る恐る顔を戻してみると、やっぱり前を向いたままの何処にも愛なんて文字の書いていない高橋の無表情がそこにあった。
やっぱり真剣な顔をしているとそれなりにカッコ良い。
何やら周りが騒いでいた事にも頷ける。
普段は只の馬鹿なお調子者で、そして中学校の時にはサッカーでかなり活躍をしていたのに高校に入ると突然バスケ部へ転向した変人というイメージしか無かったけれど。
だから何だろう。
例えば突然告白されたら?
今までほとんど関係無くて、相手の事だってほとんど知らない。
だから拒否する?
そこそこカッコ良いし、別に好きな人も居ない。
だから承諾する?
どちらも選べない。
だから時間を掛けてなんてそれこそ無理だ。
いや、そもそも告白だってされていない(と思う)んだけど。
何か暴走しているなぁと自分自身に呆れていると、突然高橋の足が止まった。
驚いて私も立ち止まり、高橋を見上げると、こちらを見下ろしていた。
一体何?
「俺は……」
それだけ言って、また沈黙。
一方私はその言葉だけで、体が跳ねた。
何を言おうとしているのか。
その続きは何だ。
私はそれに何て答える。
私は。
沈黙が続いた。
月の光を駆逐する街灯の強い光に照らされて、高橋の体は何処までも白く塗りつぶされていた。
白い顔は無表情で、やっぱりその奥の感情は見通せない。
白く塗られた内側は、余りにも隙が無く、私を拒絶している様にも見えた。
やがて沈黙して固まっていた高橋は突然時間が再び動き出したみたいに動き出し、時間をもう一度繰り返す様に同じ事を言った。
「俺は」
もう街灯のペンキは剥がれていて、恥ずかしそうな、疲れた様な、飽きらめた様な──というのは私の偏見か──表情を浮かべると、安堵の息と共に言葉を吐いた。
「もっと先だから」
それだけ言って、駆け去っていった。
後ろ姿を見送りながら、呆然としていると寒風が吹いた。
それに正気付いて横を見ると、自宅の明かりが灯っていた。
そっか、終わりか。
残念な様な安堵した様な、見ていた物語が終わってしまった後の細く息を吐きたくなる様な気持ちだ。
家のドアを開けようとして、そういえば何で私の家を知っていたんだろうと思い立って、後ろを振り返って空を見上げると、月は完全にその身を雲に隠していた。
「ただいま」
「おかえり。遅かったね」
「うん、みんなが集まってくれて」
「そう良かったね」
「まあ、ね」
「荷物は纏め終えた?」
「もう少し」
「早く纏めちゃいなさい」
「分かってる」
今夜の月は綺麗なのだろうか。
その答えはきっと一生分からない。




