私と結婚するはずの勇者が妹の恋人になって戻ってきたので、あなたへの加護はもう祈りません
ポン! ポポン!
王都の上空に次々と花火が打ち上がる。
「見えたぞ。魔王討伐軍の凱旋だ!」
「勇者さま、万歳!」
「〈聖剣の乙女〉、万歳!」
家々の窓から色とりどりの花びらが降り注ぎ、沿道の人々が歓声を上げる。
そんな中、勇者の一行は粛々とやってきた。
先頭を行く白馬に相乗りしているのは、巨大な聖剣を背負った勇者と、聖衣に身を包んだ金髪の美少女。
笑顔で人々に手を振り返しつつ、折に触れては互いに見つめ合ったり、顔を寄せて何事か囁き合ったりしている。
そんな彼らの様子を、私は群衆の背後から、目深に下ろしたフード越しに見つめていた。
(よくぞ……よくぞご無事で)
討伐軍が王都を発って丸二年。
その間、一日たりと祈りを欠かしたことはない。
戦地から報告が入るたび、地図の上に印をつけて、彼方で戦っているだろうあの方に思いを馳せた。
どうか無事に戻ってきて、と。
再びあの方をこの胸に抱く時を、待って、待って、待ちわびて――。
(ああ、でも、あんなに傷ついてしまわれて)
王都の外で湯浴みをし、煌びやかな礼装に着替えていても。
私には見える。背に負った幾筋もの傷痕が。聖剣の柄頭についた凹みや欠けのひとつひとつにいたるまで。
こうして帰還するまでに、一体どれほどの死線を潜り抜けてきたのだろう。
(戻ってきたら、うんと甘やかしてさしあげなければ)
その時、白馬に乗った金髪の少女が、ふと目を上げてこちらを見た。
(……っ!)
しまった。気づかれた。
あの子は昔から、私を見つけるのがうまいのだ。
少女の唇の両端がきゅっと吊り上がったかと思うと、彼女は私に見せつけるように勇者の胸にぴたりと身を寄せた。
勇者が微笑み、少女の額に口づける。
それを見た群衆が「わあっ!」と盛り上がる、その声を背中に聞きながら、私は逃げるように踵を返した。
◇◇◇
「よくぞ戻った、聖剣の勇者アルヴァイン。そして我が娘ジュリアよ」
――王城、玉座の間。
帰還した勇者と、この国の第二王女ジュリアが王の御前に跪いている。
両脇に居並ぶのは、宮廷の主だった家臣たち。
それらの様子を、暗色のローブに身をつつみ、フードを深く下ろした私は、いつものように壁際からひっそりと眺めていた。
「勇者アルヴァインに褒賞を与える。魔王を見事討ち果たした功績により、約束どおりそなたを第一王女ウィノナに娶せ――」
「畏れながら、陛下」
アルヴァインがすっと立ち上がった。
輝く銀髪に銀色の瞳。整った顔に引きしまった体つき。さながら名匠の手になる彫刻のごとき美丈夫だ。
その姿には、二年前、私と初めて出会った時の純朴そうな青年の面影は欠片も残っていなかった。
多くの魔物と戦い、斃し、遂には魔王さえも下したという自信は、若者の顔に尊大さを、瞳に傲慢さを与えていた。
「私はウィノナ王女ではなく、ジュリア王女に求婚したい」
家臣たちの間からざわめきが起こる。
――陛下のお言葉を遮るとは、なんと無礼な。
――しかし、気持ちはわからんでもない。
――何しろウィノナ殿下はあのとおり……。
――さよう、さよう。
私はあの方をひたと見つめたまま、唇をきつく噛みしめた。
『そうしていると、まるで色違いの人形のようね』
母は生前、私たちを並べてはよくそう言ったものだった。
私、ウィノナと妹のジュリアは一つ違いの姉妹だが、双子と言っても通るほど背格好も顔立ちもよく似ている。
――ただし色合いを除いては。
黒髪に灰色の瞳の私に対し、ジュリアは華やかな金髪と鮮やかな青い瞳を持って生まれた。
違いはたったそれだけなのに、並べて見ると、真っ先に目に入るのはいつだってジュリアのほう。「こちらへおいで」と両親に声をかけられるのも、侍女たちに競って可愛がられるのも、夜会で貴族たちに取り巻かれ、口々に褒めそやされるのも――。
だから魔王の復活とともに、「王家の血を引く娘から〈聖剣の乙女〉を差し出すように」と神殿から神託が届いた時も、両親は迷わず私を選んだ。
――〈聖剣の乙女〉とは、文字通り聖剣の護り手となる乙女のこと。
勇者が現れるその日まで神殿に籠って聖剣を護り、勇者に聖剣を委ねた後は、魔王が斃されるその日まで、一日も欠かさず聖剣の加護を祈り続けなければならない。
当然、その間は世俗の楽しみから切り離され、神殿から一歩も出られない。
何年、いや何十年かかるかもわからないそのような苦行を、甘やかされて育った妹が受け入れられるはずもなく――。
『嫌よ。そんなことをしていたら、私おばあさんになっちゃうわ』
『ウィノナ。そなたは王女だ。我が国のためにも、ここはそなたが神殿へ行ってくれぬか』
口々に勝手なことを言う妹と父王に、さすがの私も腹を立てた。
『王女というならジュリアもそうでしょう。それに私は第一王女です。いずれは婿を取ってこの国を継ぐ私に、神殿で朽ち果てよとおっしゃるのですか』
『そうは言っておらぬ。……ではこうしよう。古の勇者アルヴァインの再来が現れ、見事魔王を討ち果たした暁には、その者とそなたを娶せ、そなたを女王に、その者を王配にしようではないか』
『それでは何の解決にもなりません。そもそも、勇者がいつ現れるのか、魔王が斃されるのかもわからないのに』
『黙れ。これはもう決まったことだ。ウィノナ、そなたは今日より〈聖剣の乙女〉として神殿へ行け。これは王命である!』
――唯一の救いは、神殿での暮らしが存外悪くなかったこと。
俗世を捨てた神官たちは、私を馬鹿にすることも、口さがない噂話をすることもなく、必要なことだけを淡々と教えると、後は好きにさせてくれた。
閉ざされた神殿の中で、私は生まれて初めて「自由」を知ったのだ。
〈聖剣の乙女〉になって三ヶ月。
一人の若者が神殿にやってきた。
辺境伯の血を引くものの、庶子で平民とさして変わらぬ暮らしをしていたという彼は、聖剣を膝に横たえて座る私を見たとたん、茹で上がったように首まで真っ赤になった。
『す、すみません。こんなに綺麗な女の人を見たのは初めてで』
『お世辞は結構です。あなたはなぜ勇者を志したのですか』
『ひと言では言えません。……いろいろです』
『いろいろ?』
彼は語った。
魔王の棲み処に最も近い辺境では、すでに魔物の被害が出始めていること。
母親と二人で住んでいた家も魔物に襲われ、畑が駄目になったこと。
幸い母は生き延びたものの、辺境伯の城に避難した今は、日々肩身の狭い思いをしていること。
『俺が勇者になって魔王を倒せば、母ももう城の奴らにへいこらしなくて済むと思って』
『それはまたずいぶんと個人的な理由ですね』
これまでに来た勇者候補たちは、いずれも『国のため』『民のため』と御大層な大義名分を掲げてきたのに。
『すみません。でも俺、国とか民とかあんまり想像できなくて。わかるのはせいぜい、母ちゃんと住んでた村くらいで。でも自分の故郷がなくなるのは嫌です』
『そう』
少なくともこの人は正直だわ。
その時、私はそう思った。
そして、ふと意地悪をしてみたくなったのだ。
『これは、あくまで仮定の話です。仮にあなたが勇者になったとして。もしも魔王を斃せたら、あなたは私と結婚することになるけれど、そのことについてはどう思いますか?』
どうせ困った顔になるだろう。あるいは気まずそうにするだろう。
という私の予想に反して、彼は一瞬、信じられないというように目を見開いてから、ぱあっと顔を輝かせた。
『えっ! ……いっ、いいんですかっ!? すげえ! 嬉しいなあ!』
そのあまりにあけっぴろげな喜び方に、すっかり毒気を抜かれた私は、
『か、仮定の話だと言ったでしょう』
と言うのが精一杯だった。
――そして、若者は勇者になった。
◇◇◇
「そうか。勇者はウィノナではなく、ジュリアを望むか」
父の――王の声で私は我に返った。
「はい」
はっきりと頷く勇者の傍らで、ジュリアが懇願するように両手の指を組む。
「お願いします、お父様。そして、お姉様」
妹の眼差しにつられるように、人々の視線が私に集中した。
「ごめんなさい。アルがお姉様と結婚することはわかっていたの。だけど〈聖剣の乙女〉として、長い旅の間、辛いことも苦しいことも分かち合っているうちに、私たち、お互い愛し合うようになってしまったの!」
ほろり、真珠のような涙が一粒、青い瞳から零れ落ちる。
(そう。結局、こうなるのね)
私の脳裏に、二年前の夜が蘇った。
討伐軍が王都を発つ前夜。ジュリアが神殿に現れた夜。
妹は純白の衣に身を包んでいた。
〈聖剣の乙女〉である私が着ている聖衣とそっくり同じ衣に、私は思わず眉を顰める。
『……どういうつもり』
妹はにっこり微笑んだ。
『明日、私も討伐軍と一緒に発つの。〈聖剣の乙女〉として、ね』
『まさか! ありえないわ。だって』
〈聖剣の乙女〉は、神殿から一歩も出てはならないのに。
『そうね。でも、それを知っている人が何人いるかしら』
『……っ。ジュリア!』
『古の勇者アルヴァインの再来、ですって? 素敵よねえ、彼』
お姉様にはもったいないわ。
うっとりとそう呟くと、妹はくるりと身を翻した。
『安心して。勇者様の面倒は私がちゃんと見てあげるから!』
妹が立ち去った後も、彼女の笑い声の残響は長いことあたりに漂っていた――。
「ウィノナ」
父の声に、私はそれまで控えていた壁際から玉座の前に進み出た。
相変わらず暗色のローブを身にまとい、フードは深く下ろしたままで。
「勇者殿もジュリアもこう言っておる。しかもジュリアは勇者殿と共に魔境に赴き、共に魔王を斃した〈聖剣の乙女〉だ」
「いいえ。〈聖剣の乙女〉は私です」
私の声はざらざらと掠れ、耳障りに広間に響いた。
多くの貴族たちが眉を顰め、聞こえよがしに囁き合う。
――図々しい。
――戦場に行くのを嫌がり、神殿にずっと引きこもっていたくせに。
――今さら、ジュリア様の功績を横取りしようというのか。
手柄を横取りしたのはジュリアのほうだ。
私がそう言ったところで、誰が信じてくれるだろう。
唯一、私を擁護してくれそうな神殿の関係者はこの場に一人もいない。
「ともかく!」
父が声を張り上げた。
「魔王討伐の功績は、勇者殿とジュリアのものである! ここに二人の功績を讃え、聖剣の勇者と王女ジュリアの婚約を宣言する!」
万歳、と誰かが言った。
その声は瞬く間に広間中に広がり、つづいて割れんばかりの拍手が起きる。
万歳、万歳、国王陛下万歳。
万歳、万歳、聖剣の勇者万歳。
おめでとうございます、ジュリア殿下。どうぞ末永くお幸せに!
永遠に続くかに思われた人々の声がようやく収まるのを待って、私は静かに口を開いた。
「承知しました。それでは私は本日この時をもって、聖剣の加護の祈りを終えさせていただきます」
本当は、魔王が斃されたと知った時点で、祈りを止めてしまってもよかった。
けれど魔王が斃されても、配下の魔物は残っていると聞いたから。
私の待つ王都まで、無事に帰ってきてほしかったから。
あの日、まだ勇者になる前の、純朴な若者の言葉を信じていたかったから、私は今この時まで祈ることを止めなかったのに。
「嫌だわ、お姉様。これまで〈聖剣の乙女〉としてずっと祈っていたのは私よ。お姉様の祈りなんて、何の意味も……」
ふいに、勇者ががくりと床に膝をついた。
まるで、耐えがたい重みが突如その背にのしかかったかのように。
「アル? アル、どうしたの。大丈夫?」
「……あ……が……っ!」
両手と両膝をついたその顔から、ぽたぽたと汗が滴り落ち、色を失った唇から苦悶の呻きが漏れる。
「剣が……聖剣が」
勇者の背に斜め掛けされた巨大な聖剣。
戦場で幾たびも魔族を退け、多くの人々を救ってきたその剣は、くたびれた黒革の鞘におさめられ、凹んだ柄に嵌めこまれた宝玉が燭台の光に鈍く輝いている。
「頼む。誰か……誰か、この剣をどけてくれ……っ!」
護衛の騎士たちが勇者に駆け寄り、慌ただしく剣帯を解いた。
けれど、屈強な騎士たちが数人がかりで持ち上げようとしても、聖剣はびくともしない。
「な……何だ、この重みは」
「まるで巨大な岩のような……」
その間も聖剣は重みを増しているらしく、勇者は遂にべったりと床に倒れ伏した。
「……リア。ジュ……リア」
「アル。アル、しっかりして! 私はここよ。〈聖剣の乙女〉はいつもあなたの側にいるわ!」
「い、祈りを……。頼む。加護の祈り……を……っ!」
妹は勇者の傍らに跪き、両手を組んで目を閉じると一心に祈りだした。
燭火に照らされたその顔は美しく、誰もが見惚れるほどだったが――……。
「ぐっ! ぐあああああっ!」
勇者の体内で、ごきりと鈍い音がした。
ごほっ、と咳込んだ唇から、真っ赤な飛沫が床に飛ぶ。
「きゃあっ! アル、アルしっかりしてっ!」
「…………」
勇者は渾身の力を込めて首を捻じ曲げた。
その目が玉座の前に立つ私に向けられる。
「ラ……〈聖剣の乙女〉………」
縋るような瞳の奥に、一瞬、かつて私が聖剣を授けた純朴な若者の姿がちらついた。
「お願い……です。俺に……祈りを……」
私は無言で一歩踏み出した。
倒れ伏す勇者に近づけば、聖剣をどけようとしていた騎士たちが揃って一歩下がり、私の前に道ができる。
私は祈りはしなかった。
役目を終えた勇者に、加護はもはや必要ない。
私はただ彼に歩み寄り、聖剣の柄に手をかけて、それを持ち上げただけだった。
自分の背丈よりも長い剣を、食卓でナイフを扱うくらいやすやすと片手で持ち上げた私に、人々から驚嘆の声が上がる。
床にうつ伏せに伸びた勇者が、ほっとしたように息をついた。
「役目を終えた聖剣は、確かに返していただきました」
聖剣を鞘ごと胸に抱えると、柄頭の宝玉が応えるようにちかりと光った。
広間のざわめきは依然として続いている。
――どういうことだ。
――〈聖剣の乙女〉は、ジュリア様ではなかったのか?
――いや、待て。二年前の神託では、確か「乙女」に選ばれたのはウィノナ様だったような……。
――では、やはり真の〈聖剣の乙女〉はウィノナ様……。
私はため息をついて踵を返した。
神殿の奥の、あの静謐が恋しかった。
「ま……待ちなさいよっ!」
まるで鋭い短剣のように、ジュリアの声が背中に突き刺さる。
振り向けば、妹が憎悪に燃える眼差しで私を睨みつけていた。
「お姉様。一体何をしたの? 聖剣を使って勇者を傷つけるなんて、どんな汚らわしい術を使ったのよ。この魔女! 悪魔っ!」
途端に広間を覆う空気が一気に冷える。
――魔女。ウィノナ王女が?
――なるほど、そう考えれば頷ける。
――邪悪な姉が、美しい妹に嫉妬して……。
「は。聞くに堪えんな」
その声は静かだったが、不思議と広間の隅々までよく響いた。
「な、何奴!」
父が気色ばむ。
その人は私のすぐ側で、護るように私の肩に手を回して立っていた。
輝く銀髪に銀色の瞳。整った顔に引きしまった体つき。さながら名匠の手になる彫刻のごとき美丈夫だ。
「ゆ、勇者……アルヴァイン……? だが……」
広間中の目が、私の傍らに立つ人物と、玉座の前に倒れ伏した若者の間を行き来した。
「み……見て。勇者様のお髪の色が!」
倒れていた若者が、痛みを堪えるようにゆっくりと身を起こす。
その動きにつれて、銀色に輝いていたその髪が、根元から赤錆のような色に変わっていった。
体は一回り小さくなり、煌びやかな礼装の肩が片方ずり落ちる。
のろのろと顔を上げた若者の、銀色だった瞳はありきたりな焦げ茶色に、すっと通っていた鼻筋はそばかすの散った団子鼻に――。
そこにいるのは、赤毛で鼻の頭にそばかすの散った、純朴そうな若者だった。
「どういうこと……」
呆然と呟くジュリアに、
「簡単なことさ」
と私の傍らに立つ人物が肩を竦める。
「聖剣は、自らの乙女が選んだ勇者にのみその力を貸し与える。乙女が祈り続ける限り、いかなる武器も、いかなる魔法も彼を傷つけることはない」
「つまり……つまり、あなた様は聖剣に宿られた精霊……?」
喘ぐように言う父に、銀髪の男は妙に人間くさい仕草で頬を掻いた。
「精霊? 違うな。俺はかつてこの剣を振るい、先代の魔王を討った者。その代償にこの身を剣に封じられ、我が乙女の祈りに応えて、聖剣に意志と力を与えていた者だ」
――先代の魔王を討った……?
――まさか、古の英雄伝に謳われる伝説の勇者……。
アルヴァイン。
それは元々、古の勇者の名前だった。
先代の魔王を討った後、彼は忽然と姿を消し、そこには彼の名が刻まれた聖剣だけが残っていたという。
以来、聖剣を授かった勇者には、称号としてその名が与えられる習わしだった。
「まあ! では、あなた様が私の真の婚約者ということですわね!」
ジュリアがぱっと顔を輝かせ、滑るように私たちのそばにやってきた。
青い瞳を潤ませ、薔薇色に上気した頬でうっとりと銀髪の美丈夫を見上げる。
「だって、あなた様こそ真の聖剣の勇者、そして私は〈聖剣の乙女〉ですもの」
「ジュ……ジュリア?」
取り残された赤毛の若者が、あっけにとられた顔でジュリアに手を伸ばす。
けれどジュリアはそれを一顧だにせず、居並ぶ人々に向かって呼びかけた。
「皆様もお聞きになったでしょう? 先ほど父上が――陛下が、聖剣の勇者と私、王女ジュリアとの婚約を宣言されたのを!」
(ああ、まただ)
全身が冷えていくような感覚と共に私は悟った。
この妹は、また私から奪う気だ。
大好きだった人形も、お気に入りのドレスも、侍女も、友達も――。
そして今度は、二年間の祈りの日々も、ただ一人、私が魂の奥底から愛したこの方さえも。
(嫌よ)
神殿の奥深く、聖剣が安置されたあの部屋で、初めてこの方と出会った時のことを思い出す。
膝の上に横たえた聖剣が、突如、見たこともないほど美しい銀髪の男に変わった日の驚愕を。
『待ちわびたぞ、我が乙女』
その言葉と共に、私に向けられた眩い微笑みを。
勇者が見つかるまでの三ヶ月、二人きりで過ごしたあの日々を。
(お願い。他には何も要りません。この方だけは――この方だけは私から奪わないで!)
祈るように目を閉じる私をよそに、妹は澄んだ声を張り上げた。
「皆様、どうぞ今一度お答えになって。聖剣の勇者の真の花嫁には、私ジュリアこそがふさわしいと!」
(ああ……)
今度だって、きっとそう。
人々は再び声を上げるだろう。先ほど喝采したように。
万歳、万歳、ジュリア殿下。聖剣の勇者と、どうぞ末永くお幸せに!
けれど。
いつまで経っても、人々の方から歓呼の声はしなかった。
代わりに聞こえてきたのは、ざわざわという不穏なざわめき。
――一体何をおっしゃっているのかしら、ジュリア様は。
――〈聖剣の乙女〉は、ウィノナ殿下のほうでしょう?
――というか、あの変わり身の早さ。薄情に過ぎないか。
「え」
とまどったようなジュリアの声。
記憶にある限り昔から、人々が彼女の願いを聞かなかったことはない。
なのに――。
「ああ、おまえの邪眼なら封じさせてもらったぞ。我が愛しき乙女に祈られたからな」
邪眼。
聞き慣れない、けれど禍々しいその響きに、私も含め、その場にいた全員が首を傾げる。
「まあ、気づけという方が無理な話か」
銀髪の男――アルヴァインはやれやれというように肩を竦めた。
「この娘、ジュリアとやらは生まれついての邪眼持ちだ。己の利になる者たちを魅了し、障害となりそうな者には嫌悪の情が向かうように人々の目と心を操作する。その証拠に……そら」
ばさり、と私が目深に被っていたフードが脱がされた。
その拍子に結い上げていた髪が解け、長い髪が肩に流れ落ちる。
物心ついた頃から見慣れていた黒い髪――。
ではなく。
燭火に輝く金髪が。
「ジュ……ジュリア? いや、ウィノナ! ウィノナなのか!?」
玉座の父が張り裂けんばかりに目を見開いた。
――信じられない。ジュリア様に生き写しだわ。
――いいや、もっと美しい。
人々の声を聞きながら、私は呆然と自らの髪を見下ろしていた。
「どうして……。私はずっと、自分の髪色は黒だとばかり」
「違う」
そう言ったのは、相変わらず床に座り込んでいた赤毛の若者だった。
「初めて神殿で会った時から、あなたの髪はお日様みたいな金色だった。目は見たこともないほど深い青色で……俺は、俺は何てきれいな女の人だろうって……」
「おまえが神殿に来た時は、まだ邪眼持ちの王女に会う前だったからだ」
とアルヴァイン。
「もっとも、その後すぐにジュリアの邪眼に惑わされたおまえは、ジュリアこそ〈聖剣の乙女〉だと思い込んでいたようだがな」
若者の顔が、今にも泣きそうに歪んだ。
「俺は……旅の間中ずっと、神殿で会ったあの人に話してるつもりだったんだ。星がきれいだとか、帰ったら母ちゃんに会わせたいとか……全部、全部あの人に……なのに」
その顔が、ゆっくりとジュリアの方に向けられる。
「……おまえ、誰だ」
ジュリアは汚いものでも見るように、床に座り込んだ若者を見下ろした。
「はあ? 何を言っているのかしら。平民風情が、王女に向かって偉そうに」
居丈高に言い放ち、ぷいと顔を背けたジュリアは、その時初めて、広間中から自分に注がれている視線に気づいて眉を顰めた。
――まあ、ご覧になって。あのお顔。
――あれが本当のジュリア様?
――同じ姉妹で、どうしてああも違うのかしら。
――美しい姉に、邪悪な妹が嫉妬して……。
――なんと浅ましい。
「え。ちょっと、何? 何で皆、そんな目で私を見るのよ?」
ジュリアの長い金髪は、根元から黒インクを流されたように、急速に色を変えつつあった。
同時に、瞳の青色も、鉛のような灰色に沈んでいく。
そこにいるのは、黒髪に灰色の瞳をした少女だった。
物心ついたころから、私がずっと鏡の中に見てきたのと同じ――けれど、似て非なる顔。
黒い髪に艶はなく、手入れを忘れた古い筆の穂先のようにぱさついていた。
灰色の瞳が落ち着きなく左右に走る。誰が味方で、誰が敵か。誰に縋れば、まだ取り返せるか。
その口許は、片側だけが癖のように持ち上がっている。
人を見下す時、ジュリアはいつもそうして笑った。私から人形を取り上げた時も、ドレスを奪った時も。二年前のあの晩、神殿で私に別れを告げた時も。
邪眼がその表情を愛らしい微笑みに見せていただけで、彼女はずっと、あの顔をしていたのだ。
そして、その身を包む純白の聖衣。
〈聖剣の乙女〉の正装が、今はまるで、他人の衣装簞笥から盗み出した借り着のように浮いていた。
忙しなく周囲を見回すジュリアの瞳が、その時、玉座に座る父に向けられた。
途端に、安堵の表情がその顔に浮かぶ。
「お父様ぁ」
甘ったれた声でジュリアが言った。
「ひどいのよ。皆が私に意地悪するの」
玉座に駆け寄ったジュリアが、いつものように父の膝に縋りつこうとする。
けれど、その手が届くより早く、父はさっと立ち上がった。
「衛兵! この者を捕らえよ!」
ジュリアの動きがぴたりと止まる。
父の指が、真っ直ぐに彼女を指していたからだ。
「お、お父様……?」
「王国を長年謀った邪眼持ちの娘だ。捕らえて地下牢に放り込んでおけ!」
ひゅ、とジュリアが息を呑むのと、騎士たちがばらばらと彼女に駆け寄るのが同時だった。
「ちょっと、何する……痛いっ! 放してよっ! お父様! 助けて、お父様ぁ!」
泣き叫ぶジュリアが引きずられて行き、広間の扉がばたんと閉まる。
おもむろにこちらに向き直った父の顔には、阿るような笑みが浮かんでいた。
「おお、ウィノナ。我が娘よ」
――我が娘?
物心ついてから、父が私をそう呼んだことが一度でもあっただろうか。
「余は信じておったぞ。真の〈聖剣の乙女〉はそなたであると。だからこそ二年前、余はそなたを神殿へ送ったのではないか」
満面の笑みで両手を広げるその姿は、私の目には、一国の王でも父親でもなく、ただの調子のいい中年男にしか見えなかった。
「先ほどの宣言は撤回する。あれは邪眼に惑わされてのこと、無効である。――皆の者、聞け! 余は約束どおり、魔王を討った聖剣の勇者アルヴァイン殿と、第一王女ウィノナを娶せ、ウィノナをこの国の女王とする!」
「お断りします」
思うより先に、言葉が出ていた。
しん、と広間が静まり返る。
「い……今、何と?」
信じがたいという顔で、父が私を凝視する。
私は小さく肩を竦めてみせた。
「女王にはなりません。私は〈聖剣の乙女〉ですから。今も、これからもずっと」
私の背後で、アルヴァインがにやりと笑う気配がした。
「安心したぞ、我が乙女。最前の言葉では、俺との結婚まで断る気かと思ったからな」
「まさか」
私は笑い、アルヴァインの前に跪く。
「あなたとの結婚は、王に命じられたからするのではありません。私がそう望むから――あなたと一緒にいたいからするのです。勇者アルヴァイン、私と結婚していただけますか?」
私を見下ろす銀色の瞳が、面白そうに細められた。
「おいおい。普通は逆だろう」
差し出された手を掴めば、ぐいと引かれて一動作で立たされ、そのまま胸に抱きこまれる。
「もちろん、答えはイエスだがな」
◇◇◇
――その後。
かつて勇者だった赤毛の若者は、傷が癒えるとひっそりと辺境の村へと帰っていった。
「故郷へ戻ったら、母ちゃんとまた二人で畑を耕して暮らします」
そう言う若者の顔は、まるで憑き物が落ちたようにすっきりしていた。
「おかげさまで、魔物が出ても前よりは戦えるようになりましたし」
彼の外見や驚異的な膂力は確かに聖剣がもたらしたものだったが、苛酷な旅で鍛えられた足腰や、剣を振り続けて身についた筋肉や技術までなくなったわけではない。
「それで、あのう――」
若者はもじもじと両手をこねくり回し、上目遣いで私を見た。
「何かしら」
「俺の名前、トマスって言うんです。最後に一度だけ、呼んでもらってもいいですか」
私は微笑んで頷く。
「ええ、トマス。道中の無事を祈っているわ。お母様とお幸せに」
初めて会ったあの日と同じ、ぱあっと輝くような笑顔を浮かべ、大きく手を振ってトマスが旅立っていったその日――。
薬で視力を奪われたジュリアが、遠くの修道院に送られた。
王女を二人とも失った父はがっくりと老けこみ、枢密院は現在、王位継承者を誰にするかで揉めに揉めている。
「――で? 俺たちはこれからどこへ行く?」
あの日、勇者一行を出迎えた王都の城門を、暗色のローブにフードを目深に下ろした二人連れがゆっくりと通り抜けていく。
「そうね――」
城門を出れば、青空の下、石畳の街道が見渡すかぎり遥か先まで続いていた。
望めば、この道をどこまでも歩いていけるのだ。
柔らかな光に目を細め、私は古の勇者と共に、旅の最初の一歩を踏み出した。
〈Fin〉




