第34話「滅びなかった国で」
第34話「滅びなかった国で」
数年後の春。
ローレン川のほとりに、市が立っていた。
かつて偽旗事件が仕組まれかけた、国境の村ミューレン。
今では、両国の商人が荷を並べる、平和な交易の地になっている。
ライエルの織物と、ヴェルゴの細工物。
果物の甘い匂いと、子どもたちの笑い声。
雪解けの川を挟んで、両国の言葉が、賑やかに飛び交っている。
(……ここで、戦が始まるはずだったのよね)
露店の間を歩きながら、わたしは、ふと足を止めた。
原作では、この土地が、すべての始まりだった。
ここで火種が焚かれ、開戦の号砲が鳴り、一年で国土が焼け、三年で——国が滅びた。
その未来は、もう、どこにもない。
書き換わった。
「開戦」の二文字が、「交易」に。
「滅亡」の文字が、「平和」に。
わたしと、彼の手で。
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ライエル王国は滅びなかった。
宰相オスヴァルトの失脚のあと、王国の政は、大きく変わった。
穏健派の貴族連合が力を持ち、その要には、わたしの父コンラートがいる。
重い軍税は撤廃され、民の暮らしは、少しずつ、穏やかさを取り戻した。
ローザが教えてくれた。
パン一斤の値段が銅貨三枚に戻ったと。
あの、火薬庫のように張り詰めていた民の不満は、いつのまにか消えていた。
ベルントは、財務の中枢にいる。
「数字は嘘をつきません」が口癖の、あの生真面目な文官は、今では国の財政を立て直す、なくてはならない人になっている。
フローラは——市井の子どもたちに読み書きを教える、小さな学び舎を開いた。
「誰かの旗印」ではなく、彼女自身が選んだ、彼女自身の道を。
先日、嬉しそうに手紙をくれた。
「ヴィオラ様のおかげで、わたし、わたしのままで生きられます」と。
ヤコブの商隊は、両国を行き来する交易で、すっかり羽振りがよくなったらしい。
「お嬢様のおかげで、もう休む暇もないほどに、商売大繁盛で」と、相変わらずの軽口を叩いている。
みんな生きている。
エリアスと会ったあの夜、煌びやかな広間で笑っていた人々。
三年後にはいなくなるはずだった、あの人たち。
老いた伯爵も、孫娘も、初々しい騎士も、楽団の少年も。
——みんな、生きて、笑っている。
焼け落ちた王都の、灰色の絵は、もう、どこにもない。
(……間に合った)
胸の奥が、じんと熱くなる。
一人で抱え込んで、消耗して、倒れて死んだ前世のわたしへ。
今度は、間に合ったよ。
一人じゃ、なかったから。
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王都ヴァイスハイトは、変わらず、賑わっている。
先日、久しぶりに帰った王都で、わたしは、あの広間にもう一度立った。
あの夜、シャンデリアの光が目に刺さって、すべてが始まった、あの広間に。
光は、相変わらず、美しかった。
けれど、もう、目に刺さりはしなかった。
あの夜、灰色の瓦礫が重なって見えた窓の外には、今は、明かりの灯る平和な街並みが、どこまでも続いている。
楽団が、軽やかな曲を奏でていた。
若い令嬢たちが笑い、騎士たちが花を渡し、老貴族が孫の手を引いて踊っている。
誰も、自分たちの足元で「終わり」が始まりかけていたことを、知らない。
それで、いい。
知らないまま、笑っていられること。
それこそが、わたしが守りたかった、ただ一つのものだったのだから。
ローザは、王都の屋敷で、今も働いてくれている。
「お嬢様が皇妃様になっても、わたくしは相変わらず口うるさい侍女のままですからね」と笑いながら。
彼女が最初に、わたしの変化を信じてくれた。
あの朝の、たった一つの問いかけから、すべてが始まった。
父コンラートは、あれ以来、見違えるように、わたしを誇ってくれるようになった。
「無関心だった頃のわたしを許してくれ」と一度だけ、不器用に頭を下げた。
わたしは、笑って首を振った。
間に合ったのなら、過去は、もう、どうでもよかった。
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「ヴィオラ」
低い、聞き慣れた声に、振り返る。
エリアスが、人混みの向こうから、こちらへ歩いてくる。
黒髪に、琥珀の瞳。
そして――あの外套を、羽織っている。
相変わらず、表情は乏しい。
けれど、わたしを見つけたその瞬間、彼の目が、ほんのわずかに和らいだ。
それを見抜けるのは、たぶん、世界でわたしだけだ。
「探した」
「すみません。市が、楽しくて、つい」
ヴェルゴ帝国は、エリアスが——いいえ、今は、新しい皇帝が治めている。
病床のラインハルト二世が崩御したあと、帝位を継いだのは、第一皇子マクシミリアンではなかった。
軍権を失い、大義を失い、民の信を失った彼に、玉座は回ってこなかった。
帝位を継いだのは、エリアス。
「冷酷な侵略者」と噂された、第二皇子。
その実像は、誰よりも民を想い、戦を憎む、誠実な為政者だった。
そして、わたしは——その隣にいる。
ライエルの公爵令嬢が、ヴェルゴの皇妃に。
二つの国を結ぶ、橋として。
原作では、決して交わらないはずだった、二つの国。
冷酷な侵略者と、断罪される悪役令嬢。
記号でしかなかった、二人。
その二人が、今、並んで、平和な市を歩いている。
(……我ながら、ずいぶん遠くまで来たものね)
「何を笑っている」
エリアスが、わたしの顔を覗き込む。
「いいえ。ただ——幸せだな、と思って」
正直に答えると、彼は一瞬、虚を突かれたような顔をした。
それから、ふいと、目を逸らす。
その耳が、ほんのり赤い。
(……あら。可愛い)
寡黙で、皇帝で、誰もが恐れる人。
その人が、わたしの「幸せ」の一言に、こうして照れている。
これも、世界でわたしだけが知っている、彼の顔だ。
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露店で、エリアスは、わたしのために、小さな細工物を買った。
銀細工の、薔薇の飾り。
「……薔薇?」
「庭園で、お前の髪に、薔薇の花弁がついていた」
彼は、ぶっきらぼうに言った。
「あれが、始まりだった」
枯れた薔薇のアーチの下で、わたしの孤独を言い当てた、あの夜。
彼の指先が、わたしの髪の花弁に、ほんの一瞬だけ触れた、あの夜。
(……覚えて、いたんですか)
胸が、いっぱいになった。
行動でしか気持ちを示さなかった、この不器用な人。
その人が、あの夜の、たった一つの小さな出来事を、ずっと胸に仕舞っていた。
「ありがとう、ございます」
わたしは、その銀の薔薇を、そっと受け取った。
エリアスの手が、わたしの髪に伸びる。
あの夜と同じように。
けれど今度は、花弁を取るためではなく——銀の薔薇を、わたしの髪に、飾るために。
不器用な手つきで、彼は、それを留めた。
「……似合う」
ぽつりと、彼が言った。
その一言に、わたしの頬が、また、勝手に熱を持つ。
何年経っても、この人の不意打ちには、慣れそうにない。
「あなたは、本当に」
わたしは笑った。
「ずるい人ですね」
「覚えておく、と言った」
「……もう」
エリアスとの暮らしは、静かで、温かい。
彼は、相変わらず寡黙だ。
一日に交わす言葉は決して多くない。
けれど、その分、彼は行動で、すべてを伝えてくる。
冷えた朝には、わたしが起きる前に、暖炉に火が入っている。
執務で根を詰めていると、いつのまにか、温かい茶が、肘のそばに置かれている。
夜会で疲れていると、人目のない回廊で、そっと手を引いてくれる。
言葉にはしない。
けれど、彼の溺愛は、暮らしのあちこちに、さりげなく、隠されている。
それを見つけるたびに、わたしの胸は、何年経っても、温かくなる。
周りの者たちは、口を揃えて言う。
「皇帝陛下は、皇妃殿下の前でだけ、別人のようになられる」と。
冷酷だと恐れられた、あの琥珀の瞳が、わたしを見るときだけ、ほんのわずかに和らぐのを、宮廷の誰もが知っている。
(……隠しているつもりみたいですけど。とっくに、ばれていますよ。エリアス)
そのことを本人に言うと、彼は決まって、ふいと目を逸らして、耳を赤くするのだった。
雪解けの川が、二つの国の間を、穏やかに流れていく。
かつては二人を隔てた境界線。
今では、二つの国を結ぶ、一本の道。
その道を渡って、両国の人々が、笑いながら行き交っている。
子どもたちが、川辺で水切りをして遊んでいる。
商人たちが、互いの国の言葉で、値段を交渉している。
老夫婦が、川を眺めながら、何か穏やかに話している。
誰も知らない。
この平和な光景が、一度は、灰色の瓦礫になるはずだったことを。
知っているのは、わたし一人。
——いいえ。
隣を見上げると、エリアスが、同じ景色を見ていた。
知っているのは、もう、わたし一人じゃない。
この景色を守るために、共に戦い、共に駆け抜けた人が、すぐ隣にいる。
「エリアス」
「なんだ」
「この国を——この景色を、守れて、よかった」
エリアスは、しばらく黙っていた。
それから、わたしの手を、そっと握った。
剣を握り慣れた、硬い手のひら。
けれど、その握り方は、どこまでも、優しかった。
「ああ」
彼は、短く頷いた。
「お前と、守れて、よかった」
雪解けの川の上を、春の風が吹き抜けていく。
亜麻色の髪に飾った銀の薔薇が、陽の光を受けて、きらりと光った。
滅びるはずだった国は、滅びなかった。
焼け落ちるはずだった王都は、今も、笑い声で満ちている。
そして、決して結ばれないはずだった二人は——こうして、並んで、同じ景色を見ている。
(……これで、いい)
繋いだ手の温もりを感じながら、わたしは、そっと目を細めた。
砂時計は、もう、ない。
ひっくり返ることも、落ちることもない。
ただ、穏やかな時間だけが、二人の前に、ゆっくりと、流れていく。
——どうか、この時間が、いつまでも続きますように。
雪解けの川のほとりで、わたしは、隣にいる人の手を、もう一度、強く握り返した。
その願いは、きっと、叶う。
だって今度は、わたしは、一人じゃないのだから。




