最終話 地獄行きコインランドリー駅
深夜のコインランドリーは静かだった。
耳に届くのは洗濯機の回る音と、ボリュームを絞ったテレビの音。
古びたブラウン管テレビが映し出すのは、やや情報が飽和状態になりつつもある事件のニュースだった。
『……精神鑑定の結果、被告には充分な責任能力があると診断され、この痛ましく目を覆いたくなるような残虐な事件はようやく終結へと……』
この街で『目を覆いたくなるような残虐な事件』を巻き起こした男は逮捕され、現在は裁判が執り行われている。
複数の被害者、被告の親が用意した優秀な弁護士、事件に関わった人々の様々な人権問題。事件の性質上、裁判は長期間に渡ると思われたが、被告の男は弁護士達の助言に従って無罪を主張することもなく、検察側が示した罪を全て認め、判例も前例もない被害者人数分の終身刑が下されるのは時間の問題だった。
「よー、久しぶりだな」
開いた扉から初冬の空気が滑り込んできた。
秋は新たな客に呼びかけると大して見ていなかったテレビを消し、ベンチで足をぶらつかせた。
客の男は無言で洗濯機に洗濯物を放り込むと、いつもの如く完全無視を決め込んでいる。それには一言言いたくもなるが、時間の無駄であるのも分かっていた。
「仕事、相変わらず忙しいんだ」
再度の呼びかけにも、返事はなかった。
この街一番の富豪の死。
国を代表する大企業の代表でもあった男を殺したのは、彼が密かに援助していたドラッグの売人だった。富豪を殺害後、売人も自死。このスキャンダラスな出来事に新聞もテレビもこぞって連日扇情的な見出しを踊らせた。
富豪が生前どれだけ功績を重ねていようと関係なかった。私生活は曝かれ、得体の知れない都市伝説もどきの憶測まで飛んだ。だが狂騒的とも言えるこの出来事も先の事件と同じく、収束に向かおうとしている。
街を大きく成長させた男の会社は血縁のない重役が引き継ぎ、変わらず国一番の業績を叩き出している。浮いては沈み、留まることなく流れ続ける。一連の顛末はこの街の無情さも顕すものだったが、それが変わらぬ現実だった。
秋はベンチに腰を下ろした男を見遣った。
その事件を担当したのが、この男だった。
ちなみに殺人犯を逮捕したのは彼の相棒で、要は二人してこれらの重要事件に関わったことになる。
忙しい毎日を送っているのは想像できる。それに一定の理解もしている。
しかし二番地区の外れ、鬱蒼とした森の向こうにある集団墓地にハカマイリに行く時間ぐらいは取れるだろうと、秋は思う。
「あんたって、思ってたとおりの薄情な男だな。慕ってた相手が死のうが、自分が何とも思ってなけりゃ、どうでもいいってか?」
「……それは……お前の妹のことを言ってるのか……?」
「ああ、ちゃんと分かってんじゃねーかよ」
「……たとえ俺が墓前に行っても、彼女は喜ばないだろうよ」
「はぁ? あのな、こんなのは喜ぶ喜ばないの問題じゃない。行く、行かないの問題なんだよ」
妹の死は今も癒えることがない。
人の身体は脆い。
思いがけないこと、思いがけない出来事で人は死に至る。
普段意識していてもその死が突然訪れたものであるなら、それは本当に享受できる範囲のものなのだろうか。
妹の遺骨は両親の墓の隣に葬られた。彼女は母親とは親しかったが、反りの合わない父親とはほとんど口を利いていなかった。
彼女がその場所に満足しているか分からない。
兄の冬人が仕切った豪華で見知らぬ人ばかりの葬儀、その後の弔い。彼女がいたらそれらの状況にどんな顔をするか想像できるが、その彼女はもういない。自らの死を享受できずに今も辺りを彷徨っていない限り、その声を聞くことはこの先もなかった。
「なぁ、あんた、今日は一体何をしてきたんだ?」
「別に……いつもの職務だ」
男に声を向けると、相手はこちらも見ずに返事を寄越す。
秋は男の背後を見通した。
そこに何かが見える。
それはぼんやりとしか見えないが、血に濡れた何かだった。
男か女かも分からないものだったが、何かがいるのは確かだった。
あの日以来、闇に怯えることはなくなった。
彼女が言ったとおりに、無い方の目は闇に潜むものを見通すことができた。
だがありもしないものは見えなくなったが、代わりにこれまで見えなかったモノが見えるようになった。
しかしこの目に映るその全てが、確実にそこにある現実だった。
あり得ないものが目に映ったとしても、以前のような畏れはなかった。
あの日、彼女は消えた。
失踪届けは彼女の身内によって出されたが、彼女がどこに行ったかは知っている。
そこにいる彼女の兄も何も言わないが、彼も彼女がどこに行ったかを知っているように思う。
彼女が消え、それでも変わらず日々は続いている。
彼女の望みどおりに自分の中の闇は消えたが、彼女が消えたことによって、消えない虚無を感じている。
そんな日々はこれからも続くだろうが、苦痛は感じていなかった。
それらの日々を自分の一部として受け入れ続けることが、彼女を感じていられることと同等のように思っていた。
「秋」
顔を上げれば、いつの間にか男が傍で見下ろしている。
青白い蛍光灯の下、男は死人を思わせる様相で立っていた。
「なんだよ」
「……お前、前に地獄はどこにでもあるって言ってたな」
「地獄? ああ、まぁ言ったかもな」
そういえば言ったかもしれないと思いながら、秋は男の足元を見る。
そこには血溜まりがある。
それはまるで呼吸をするかのように広がり、汚れたリノリウムの床を侵食していく。
突然ちかちかと、天井の蛍光灯が点滅した。
異様な気配と目眩を引き起こす引力を背に感じる。
男は自らの足元を見下ろし、その顔を上げた。
「ああ、地獄かもな」
男はそう呟いて、店を出ていった。
地響きのような耳鳴りが、鼓膜の奥で続いている。
点滅を続けていた蛍光灯は、力尽きたようにその明かりを消滅させた。
店内は闇の中に沈み、全ての音を消す。
地獄かもな。
秋は男が言った言葉を繰り返した。
この街には消えない闇が存在する。
しかし彼女が示した光も、きっとどこかに在り続けている。
何かを盲目的に畏れ、失ったものもあるが、彼女が残したものに寄り添いながら自分はこれからもこの街で生きていく。
再び蛍光灯が点滅を始めた。
次に訪れるのは、闇だろうか光だろうか?
誰もいなくなったコインランドリーで、秋は暫しその目を閉じた。
〈了〉




