1.何もない闇
秋は白い家の前に立っていた。
時刻は深夜に近い。
今も胸に留まる不安は消えなかったが、その正体が微か見えた気がしていた。
この数日、漠然としたそれに感情を掻き乱され続けていた。抱き続けた畏れを取り去る希望を感じながらも、その思いを持ち続けていた。
自らの中に巣くう畏れを見抜いた男の存在に、頼ろうとしていたのは確かだ。しかしそうしながらも、全てを見透かす瞳を持つあの男に疑義とは別の何かを感じていた。
その何かはもしかしたら自分が畏れるものと似ていたのかもしれない。畏れから逃れることが自分の願いだったが、その願いを叶えるために全てを放り出してまで縋ろうとしたものこそが、それと同義のものであったかもしれなかった。
「……秋」
届いた声に顔を上げ、秋は隣にいるその姿を目に映した。
彼女がいることで心を強く持てるが、この場に一緒に来たことを少し後悔していた。
自分の弱さが招いたこの問題に彼女を巻き込もうとしている。事態を改善するには、本来なら一人で向き合わなければならないはずだった。
守りたいと言ってくれた彼女の思いを無下にはしない。でも同様の思いは自分にもある。
もしこの先予期せぬ事態が起きれば、その危機から彼女を遠離けるのが自分の役目だった。今夜の目的を果たし、彼女の思いに応えるためにも、この場でいつまでも迷っていては何も始まらなかった。
秋は扉に歩み寄ると、呼び鈴を鳴らした。
だが応答はなく、次は声をかけてみるがやはり返事はない。
扉を確かめると、鍵が掛かっていない。
そのまま押し開けば、来訪者を出迎えたのはその先の暗闇だった。
玄関にも廊下にもその先にある部屋にも、明かりが灯っていない。
不在も考えたが、こちらを呼び出しておきながらそれはあり得なかった。何より家の中に何者かがいるのは確かだった。
「……なぁ……これは何の音だ……?」
隣にそう問いかけたが、彼女も疑問の表情だけを返す。
玄関に足を踏み入れた時から、家中に異質な音が響き渡っていた。それはまるで木材を切断する時の音のようと言えばいいだろうか。
秋は玄関に立って、暗い家の中を見通した。
前回訪問した時に大体間取りは把握していた。正面の扉の先には前回招き入れられたリビングがある。左手側には二階に続く階段、右手側にはキッチンやバスルームなどの水回りが集結していた。
音は右方向から響いてくる。
現在所在の知れない家主は、水回りのいずれかにいるのかもしれなかった。
「俺は音がする方に行ってみる。櫂はここで待ってるか?」
「ううん、一緒に行く」
返事に一瞬惑ったが、秋は相手に頷き返すと暗い廊下を先導した。
奈津川の家は広かった。ここで彼は一人暮らしをしているようだが、一人で住むにはこの家は大きすぎる。リビングには数年前に撮ったらしき写真が飾られていた。写っていたのは奈津川とその両親と思われる初老の男女。彼らの姿はその時もなかったが、以前はここで三人で暮らしていたのかもしれなかった。
壁伝いに無人のキッチンを通り過ぎ、唯一照明が灯るバスルームが近づくと音はより大きくなった。
秋は辿り着いたバスルームの前に立ち、扉に触れた。
不穏すぎる予感が足元から駆け上るようにやって来たがそれを振り払い、一気に開け放った。
「あれ? 秋君?」
扉の開く音に気づいたのか、奈津川が顔を上げる。
同時に鳴り続けた音も止んだ。
刺すような照明の明るさに右目が眩んだが、それをも上回る勢いで視界に入り込んできたのはバスルーム中に散った赤い色だった。
男が身に纏うビニールエプロンも赤く染まり、その両手も同様だった。
異様な状況であるにも拘わらず、そこにある男の笑顔はいつもと寸分変わりがなかった。
「随分来るのが早かったんだねぇ。僕の方はまだ作業が終わってないんだよ。これを使うのが初めてで、ちょっと手間取っちゃって」
奈津川は笑顔のまま、手にした電動ノコギリを掲げる。
猟奇映画の一場面のようなその光景には言葉も出ないが、相手に気にする様子は欠片もない。
「だけど何事にも初めてってあるものだよね。緊急用に用意してたけど、やっぱり準備不足だったみたい。でもまぁ、これも今後に生かさないとね」
男が纏うエプロンからは血が滴っている。バスルームの壁や床も血で染まり、男の足元には血に濡れた包丁やナイフが散乱している。
その光景は惨劇の様相でしかなかったが、それよりも秋は男の背後にあるバスタブから目を離せないでいた。
白い壁を染める血や肉片。
それらが滴り落ちるバスタブに無造作に放り込まれた華奢な腕や脚が見える。
生気のないそれらに紛れて、血に濡れたピンク色の髪が覗いていた。
「……嘘、だろ……?」
思わず零れた呟きと共に一歩出た足は、バスタブの中にある真実を確かめるべく進んでいた。
だがそうする必要がないことは既に分かっていた。
そこにいるのは間違いなく〝自分の片割れ〟だった。
でもだからこそ自分のこの目で見て、確かめなくてはならなかった。
「……秋、駄目」
「櫂、止めるな……」
「秋、駄目だよ。見ちゃいけない。秋はこれからも彼女が覚えていてほしい彼女だけを覚えてなきゃならない」
強く握られた相手の手に拒絶を顕しても、その力は弛むこともない。
振り返って見たその表情は、深い哀憐に染まっていた。
その手は氷のように冷たかったが、冷たくともそれは生きている者が持つ強い意思と力強さに溢れていた。
「ねぇ、お話し中のところ悪いけど」
話に割り入るように歩み寄った男は「これ」と言って、猫を形取った携帯ライトを掌に載せて差し出す。
「これがさっきの電話で言ってたプレゼントだよ。僕ね、このライトを雑貨屋さんで見つけた時、思わず周囲に人がいるのも忘れて歓喜の声を上げちゃった。あー、こんな可愛いお供がいれば、秋君も少しは闇が怖くなくなるかもしれないなぁって。あっ、ごめん、秋君。つい汚れた手で触っちゃったから、血がついちゃったかも……」
その顔には未だ消えない笑みがある。
秋は信じられない思いで男を見返した。
混濁する感情は混沌を極めようとしている。だが物事を俯瞰する余地は僅か残っていた。
この男は自分が畏れる闇とはまた別の〝得体の知れない何か〟でしかなかった。
何も気づかず関わり続けようとした自分は無邪気な痴れ者だった。
「あれ? 秋君、なんか機嫌が悪い? それってプレゼントに血がついちゃったからじゃなくて、もしかしてコレのこと……?」
「……コレ、だと……? お前……そこにいるのは俺の……」
「ああ、そうそう、そうだったよ。ごめんねぇ、秋君。僕、自分の中でどうでもよくなっちゃったことは、どんどん頭の中から薄れていっちゃうんだよねぇ」
「お前……」
「あー、あのさぁ秋君、さっきから君、感じ悪くない? 僕、猫ちゃんのライトのお礼もまだ言われてないし。ま、でもここは場所が悪い。出ようか」
奈津川は外したエプロンをその場に放り出すと、バスルームを出ていく。
その後を追ってキッチンに向かえば、男は早速石鹸やブラシを使い、血に染まった両手を丁寧に洗い始めている。鼻唄が届き、一瞬耳を疑ったが相手のその横顔には微笑さえ浮かんでいた。
「秋君、僕ね、昔からとても地味な少年だったんだ。傍にいても苦にならないけど、いなくても苦にならない。そんな感じだね。だから僕は自分を変えたくて、他人ともっと関わりを持とうと努力を始めた。けど元々どうでもいい存在でしかなった十四才の僕は、結局みんなのパシリ以上の存在にはなれなかったんだ。その現実に僕は心底がっかりして落胆したけど、そんな時にあの事件が起こったんだ。僕が親しくなりたいと常日頃から憧れていた華やかな同級生達が、ある日仲間の一人を死に追いやってしまったんだ」
手を洗い終えた男は振り返ると、指の間まで念入りにタオルで拭っている。
向かい合うその目には何も見えない。
でも元よりそこには何も無かったかもしれなかった。
「昨今は他者への批判が一気に拡散するご時世だよ。同級生達には当然抗議が向けられて、それは彼らの末端にいただけの僕にも向いた。中傷や隠しもしない疑いの目。何も知らないくせにそんなことができるなんて、人ってすごいんだなぁって何度も実感したよ。だけど事件の真相はね、死んだ彼が仲間に疑いが向くように仕向けて自殺した。そんなのだったんだよ。その真実が明らかになれば波が引くように状況は変わったけど、前々から僕に関心のなかった大学教授の父さんと専業主婦の母さんは、世間体を気にして二人して田舎に引っ込んでしまった。今も自給自足の生活をして毎日を過ごしてるらしいけど、作物の心配はしても、僕の心配はしないんだよね。でもそんなことはもういいんだ。僕はこの一件の後、自分の中にあった素晴らしいものを発見することができたんだからね」
男はその後も時間を忘れたように滔々と語った。
鏡の中にいるもう一人の自分への憧れ。
そのもう一人への強い憧れから、より自らを磨こうと他人を観察し続けた結果、あることができるようになった。
「他人の心の中身っていうのかな、その人の好きなものや弱点なんかが段々見えてくるようなったんだ。それはもうびっくりするほど不思議なくらいみるみるとね。それを踏まえて相手に近づくと、向こうの心の内側までとてもよく入り込めるんだ。それって秋君も実感したよね?」
男は変わらぬ笑みを浮かべてみせる。
幾度も目にしたはずのそれは今夜この場でおぞましい形を作っていた。
「だけどね、そのうちにそれだけじゃ物足りなくなって、僕は一歩前に進むことにしたんだ。相手をもっとよく見て、もっと内側まで観察したい。言わば目標のアップグレードだね。僕はこの一年の間に五人の人間を観察してきた。今考えてもどれもいい体験だったし、いい成果を生み出すことができた。結果的に連続殺人犯って呼ばれることになっちゃったけど、うん、どれも素敵な経験だったと今でも感慨深く思ってるよ。だからねぇ秋君、君にもできれば分かってほしいんだ。このことは僕の思いが強く発露してしまっただけ、たったそれだけのことでしかないんだよ。でもまぁ……例外も確かにあることはあるね。君の妹に関しては少しは悪かったと思ってるよ。だけど彼女、いつかきっと僕に害を及ぼすと思ったんだ。だから仕方がないね」
長い話を語り終えた男を秋は見ていた。
しかし全てがどうでもいい話でしかなかった。
この男がどんな人生を歩んでいようが、これからどうやって生きようが、自分には何の関係もない。
まともじゃないまともじゃないと言われ続けて自分でもそう思っていたが、この男とは同列に語られたくなかった。
長いクソ話はキ×ガイ男のただの与太話だ。
でもそんな中でも一つの確信が持てた。
今自分の中にあるのはこの男に対する殺意だけだ。
この男を今ここで殺す。
こんなことはいつもやっていることの延長線上にあるものにすぎない。
過剰な暴力で人を殺めても、僅か何かが行きすぎてしまっただけだ。
そう思い込みたい自分がいるのも確かだが、この意思決定に間違いはないはずだった。
「ああ、喋りすぎて少し喉が渇いたよ。君達も何か飲む?」
男はそう問いかけて、こちらに背を向ける。
秋は傍のナイフ立てから一本奪うと、その背後に忍び寄った。
この行いの結果次第で相手と同列になったとしても構わない。
その先を考えることなど、今は必要なかった。
「秋」
「櫂、やめろ、今度は止めるな」
届いた声に拒否を示すが、ひやりとした手が手の甲に触れる。
そこから伝る力強さは先程のものとは全く異っていた。
「秋、あなたはこんなことしなくていい」
「しなくていい? じゃ一体誰がやるんだ? 俺がやらなきゃ留可が……」
「秋にはそんなことやらせない」
谺するようにその声が響いた。
内耳まで響き渡るそれが消え去ると、目前にあったのは何もない闇だった。




