7.九条坂 その4
夜明けには、まだ少し遠い。
今夜二度目となる高層ビルは夜空に霞んで、幻のように見えた。
藤堂の車を正面に乗り捨て、一度目と同じくエレベーターで上階に向かう。
何度も歩いた長い廊下が、訪れる者を静寂の中で待ち受けていた。
あの男との対峙は今夜避けられなかった。これまでの関係性を破壊することにもなるが、他の選択肢はもうなかった。
廊下を歩き始めると、何かが足元に落ちた。
拾い上げたそれは自分の携帯電話だった。
診療所に置いてきた上着に入れていたはずだが、無意識に身に着けていたのだろうか。
その時誰かに呼ばれた気がして周囲を見回すが、誰の姿もない。
気を取り直して確認した履歴には櫻木からの着信が並んでいた。
他にも同様の履歴と音声伝言が一件。その送り主の名を見れば溜息が漏れそうになるが、とりあえず再生してみる。誰それが変だ、怪しい、と綴る聞き覚えある声が届くが、全体的にはよく分からない伝言だった。
「櫻木、俺だ」
『あ、九条坂さん、すみません、こんな時間に』
櫻木に電話を繋ぐと、相手は待ち構えていたように出た。
背後の音から署内にいると分かるが、家に戻って休めとはもう言えなかった。
「……手紙の指紋の件か?」
『はい。まず封筒の方ですが、そこからは被害者と沙織さんの指紋しか見つかりませんでした。中の便箋についても大半は二人のものでしたが、その中に一つだけ、別の指紋が検出されました。鮮明でない上に部分指紋だったので期待薄でしたが、犯歴者と照合したところ、六年前に少年犯罪の容疑者だった現在二十才の男と一致しました。氏名は奈津川葉月。被害者との関係は現時点で不明ですが、何もない中でやっと浮かび上がった手がかりです。夜明けを待って男の住居に向かうつもりです』
簡潔な報告が電話越しに届くが、久吾は最後まで聞いていなかった。
今聞いたその名を今程耳にしたばかりだ。
《名前は奈津川葉月。久吾、言ったよ。必ず確かめて》
いつもとは違う明瞭な声で告げられたその言葉が、耳の奥で蘇っていた。
「櫻木」
『はい』
「今すぐその男の家に向かえ。俺もすぐ行く」
『えっ? 一体どうした……いえ、分かりました!』
惑うも直後に了承を寄越す相棒の声が届く。
不穏な予感がしていた。
だがそれは既に予感ではなく、現実となっているかもしれなかった。
唯一捜査線上に浮かんだ男。
時を同じくして、別の所からもその名を聞くこととなった。
何度もかけられた電話。無視続けた自分。
漂う不穏はその相手だけではなく、彼女といつも一緒にいる相手にまで及んでいるかもしれなかった。
電話を切った久吾は、再びエレベーターに向かった。
今自分が優先すべきは、ここにいることではなかった。
長い廊下をもどかしく感じながら先を急ぐが、不意に足が止まる。
何かに引き止められたように振り返れば、背後にある藤堂の部屋の扉がゆっくり開いていくところだった。
開き切った扉向こうからは、赤い何かが床を舐めるように流れ出てくる。
止めどなく溢れ出るそれは、大量の血液だった。
「……これは……一体……」
続く言葉を失いながらも、足は扉の方に向かっていた。
血に濡れた部屋、血に塗れた両手。
周囲にはあの幻覚と同じにおいが漂っていた。瞼の裏には幾度も幻覚の残滓がちらつき、抗おうとも消えることもない。
扉の先に足を踏み入れれば、血溜まりと、その中に倒れ込む男の姿がある。
男は藤堂だった。
見開かれた目の眼球にまで血が飛び散っている。喉を深く切り裂かれ、息絶えているのは確かめなくとも分かった。
「長かったわね、久吾」
その呼びかけに顔を上げれば、女がいる。
決して忘れるはずのなかった相手だが、久吾は己の目を疑う。
死んだ男の傍らには、十三年前と何ひとつ変わらぬ姿の雨宮美怜が立っていた。




