6.九条坂 その3
血まみれの拳で扉を何度も叩くと、しばらくして明かりが灯る。
四番地の外れにある小さな診療所は、仄暗い街灯の下に潜むように建っていた。
色褪せたカーテンが僅か開き、くすんだガラス向こうに不機嫌そうな顔が覗く。
扉は開けられたが、望まぬ来訪者を出迎える不機嫌な声が響いた。
「こんな時間にうるさいよ、久吾」
「先生、頼む。怪我人を診てくれ」
「頼むだって? どうせ嫌だって言ったって診させるんだろ? 早く連れてきな」
深夜でも白衣姿の相手は煙草を咥えると、燐寸で火を点けながら暗い廊下の先に消える。
車に戻り、久吾はケイラを抱きかかえて建物の奥にある処置室に向かった。咥え煙草の相手の指示に従って寝台に寝かせると、再度不機嫌な声が届いた。
「久吾、あんたいつまでそこにいるつもりだ。私は構わないが、碌でもない記憶しか残らないよ」
四番地の外れにこの『火華診療所』を構える火華百合は、久吾が十五の時から知る相手だった。今はもう六十に手が届く歳のはずだが、その頃から相貌は変わっていない気がしていた。
「ほら、とっとと行きな。そっちの待合室で暇潰しでもしてろ」
手早く準備を終えた彼女はこちらも気に留めず処置を始め、久吾は追い払われるように部屋を出ると非常灯の灯る待合室の長椅子に腰を下ろした。
百合は表向きはただの町医者だが、訳ありの怪我人や病人を治療することで一部の者に有名だった。
腕は確かだが、彼女が表の道で真っ当な評価を得ることはない。
彼女と知り合うきっかけになったのは、まだ幼かった櫂が風邪を酷くこじらせた時のことだった。高熱の櫂を医者に診せたくとも、十五の自分には金がなかった。
困り果てた時に知り合いの路上生活者から百合の噂を聞き、櫂を背負って彼女の元を訪ねた。「金はいつでもいい」そう言って百合は診てくれ、それ以来関わりは続いているが高額でなくとも診療代は当時からきっちり取り立てられていた。警官になってからはそれが密かに割り増しされている事実さえある。
「終わったよ」
しばらくの後、凝り固まった首を回しながら百合が処置室から出てきた。
疲れた顔をしているが、「あんた酷い顔してるよ」と逆に言われ、自分の方がその指摘対象であると知る。
「……容態は?」
「まぁ、手放しで喜べるほどよくはないが、最悪でもない。彼女は若くて丈夫だ。運が味方してくれれば回復は大きく見込めるだろうよ」
そう答えた百合は煙草の火を点け、大きく煙を吐く。暫しの休憩を堪能する相手に久吾は伏せたままの視線を向けた。
「先生……彼女のこと、頼めるか?」
「ああ? どうせ嫌だって言ったって、あんたはお願いするんだろ?」
そう言って笑いもしない相手は、本当にうんざりといった表情を浮かべる。
職業柄彼女は多くを聞かない。初めて関わりを持った時も親のいない自分達の詮索もしなければ、それ以上関わってこようともしなかった。
医者としての彼女しか知らないがそれだけの関係性であるからこそ、彼女とのこの距離感が今も保たれているのかもしれない。だがそれが今後も続くかは分からなかった。
「久吾、あの子、なんて名だ?」
「……ケイラだ、蔓橋ケイラ……」
「あんたの恋人か?」
「……いいや、多分違う……」
「多分? 多分って一体どういう意味だよ。なんだか有耶無耶ではっきりしないね」
「……彼女の方がそう呼ばれるのを拒否するはずだ」
「はぁ? 彼女に嫌われるようなことでもしたか?」
「……彼女に憎まれるようなことをした」
伝えると、馬鹿だねぇ、と呟く声が聞こえた。
それに対しては何も言えない。
百合の言葉どおりの事実しかない。
このことについて考えることすら、自らの不実へと繋がる気がした。
「先生、悪いがもう一つ頼みがある」
久吾は立ち上がると、隅の公衆電話に備えつけられた紙に記憶する番号と名を記した。
「夜が明けたら、この男に連絡して彼女のことを伝えてくれないか?」
「呉……? この人にかい?」
渡したメモを見て訊ねる相手に久吾は頷き返す。
あの男ならケイラを助けてくれるはずだ。多くを伝えずとも彼は察し、判断するはずだった。
「じゃ、後は頼む、先生」
「ああ、本当は嫌だけどね」
再び笑いもしない相手に背を向け、去ろうとしたが呼び止める声が届く。
「久吾、あんたちょっと待ってな。その格好少し酷すぎるよ。一応警官だろ」
そう告げた百合は診察室に消え、その言葉に久吾は自身を見下ろす。
シャツもズボンも血で染まっている。
今まで気が回らずに気づかなかったが、街でこんな姿を見かければ間違いなく職務質問の対象だった。
「ほら、どこぞのやくざものが置いてったヤツだ。ちょっと臭うが、それよりマシだ」
戻った百合が皺になったシャツを差し出していた。確かに言葉どおりの代物でしかなかったが数段マシであるのも確かだった。礼を言ってそれに着替え、今度こそ診療所を後にする。
「久吾、今日の金、必ず払いに来いよ」
閉まる扉の隙間からいつもと変わらぬ声が届いた。
それはどこかに向かう自分への彼女なりの餞の言葉だと久吾は思った。




