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5.九条坂 その2

 久吾は夜空にそびえるビルを仰ぐと、数十分前を思い返していた。


 今夜『宵』に到着したのはいつものように遅い時間だったが、扉を開ければ変わらぬ相手が出迎えてくれると思っていた。

 だが扉の先にあったのは予想外の光景だった。

 店には客の姿もなく、主の姿もない。

 椅子は倒され、割れたグラスや皿が床に散乱し、倒れた瓶から零れた酒の匂いが強く香っていた。

 その直後携帯電話が鳴り響いていた。『クソ野郎』からの電話を初めて急かされるように出ていた。


『九条坂、失望だな』

「藪から棒に何のことだ、藤堂」

『私はお前に川西を捜せと命じた。なぜ報告しない』

「するさ、じきにな。まだその時じゃないだけだ」

『もう遅い。その理由は胸に手を当てなくても分かっているはずだ。だが私は浅薄で憐れなお前に一度だけ機会をやることにした』

「一体何を言ってるんだ、藤堂。お前が何を言っているのか、俺にはさっぱりだ」

『痛々しい足掻きは既に滑稽でしかない。よく考えてみろ。そんな余裕が果たして今のお前にあるか? 蔓橋ケイラはここにいる。お前が彼女に〝預けたもの〟もここにある。ここに来て私に許しを請え。他の選択肢がないのは分かっているな』


 通話はそこで途絶え、そして数十分後の今、久吾は夜空にそびえるビルを無言で見上げていた。

 川西の所在とドラッグの行方。

 慎重に行動したつもりだったが、足りなかったようだ。自らに向けた悔いは消えないが動向を見張られていたなら、藤堂は川西の居所も知ったはずだ。あの男がこれから何をカードに使い、どう出るのか。この先を進むには、より慎重な判断が必要だった。


「今日は時間を守れたようだな。でもまぁそれも当然か。元々子供にもできることだ」

 最上階に辿り着けば、藤堂の声が出迎えていた。

 しかしその姿を捉えると同時に目に映ったものには異論を唱えるしかなかった。


「何の真似だ、藤堂」

「これは単なる保険だよ。か弱い一市民の私が刑事のお前と丸腰では対峙できないだろう?」


 鈍色の銃口がこちらに向けられていた。

 この国では申請すれば銃の所持は可能となる。無論審査は厳格だがこの男が正規ルートで資格を得るのも、裏ルートでそれを手に入れるのも、どちらも容易いことであるのは確かだった。


「久吾……」


 届いた微かな声を辿るとケイラの姿がある。

 椅子に座らされた彼女は、両腕を背後で拘束されている。

 殴られたのか頬には痣が残り、唇が切れている。

 男を強く見据えると、相手は呆れたような仕種を返した。


「あらぬ疑いだな。お前の女に手荒な真似をしたのは私じゃない。それにこれはお互い様だよ。私の部下も引っ掻かれたり股間を蹴られたり、相応の被害は被っている」

「ふざけるな」

「ふざけるな? ふざけているのはお前の方だよ、九条坂。なぜお前はいつも私の指示に従わない? 私に抗えない事実も、お前が私の下僕である事実も常に明白だ。それなのにお前はいつも予測にない行動を取って、私を失望させる」


「話にならない。そんなことよりケイラを解放しろ。彼女はこの件に関係ない。川西の行方なら今すぐに教える。元より俺には奴の命運がどうなろうと、どうでもいいことだ」

「あの男の命運など、それは私にとってもどうでもいいことだ。ドラッグ売買に手を貸したのも面倒を見たのも、単なる戯れにすぎない。親にコンプレックスを持ち続けた子供がどんな末路を辿るか見たかっただけだが、案の定、彼は面白くも愉しくもないものを提示してくれたよ」


 届く言葉を聞きながら、久吾はここにある現実を直視していた。

 川西と引き替えに秘密を聞き出すなど、とうに不可能だった。

 この男を謀るには、自分はまだその闇深さを理解し切れていなかった。しかしこの窮地を脱すれば今後も機会はある。今はケイラを解放させることが最優先だった。


「藤堂、川西の居場所は……」

「九条坂、そんなことはどうでもいいと言ったろう? いいか、私は今からお前に二つの選択肢を与える。この女を今すぐこの場から解放する。それが一つ目だ」


 藤堂はケイラの背後に立ち、今度は銃口を彼女の頭部に向ける。

 掌で彼女の頬を撫で上げるその顔には、露悪な笑みが浮かんだ。


「彼女のことは知っている。昔懇意にしていた店で一番の稼ぎ頭だった。請われればどんなことでもしてみせる子供だったからな。私も不可思議で魅力的なこの身体を幾度も愉しませてもらったよ」


 ケイラの表情は強張り、怯えが張りついてた。彼女のそんな表情を久吾は見たことがなかった。

 いつも陽気で強気で自分を強く持っていた。その彼女が暗闇を怖れる子供のように怯えていた。


「もう一つは、以前からお前が欲しいと願っていたものに関してだ」

「俺が……?」

「私が隠し持っていると、お前が疑義を持ち続けたその秘密を教えよう。それは間違いなくお前が知りたかった真実だ。どうする? 九条坂。お前はどちらを選ぶ? 彼女を解放するか、その秘密を私から得るか、二つに一つだ。選べ。私はどちらでも構わない」


 突きつけられた二つの選択肢を久吾は無言で眺めていた。

 長年知りたかったこの男が知る秘密。

 それは何に代えてでも得たいものだった。

 だがそれを選べば、彼女(ケイラ)がこの場から解放されることはない。


「この二つの選択肢、お前が秘密を選べば、この女は私が貰うとしよう。お前にはもう必要がないということだからな」


 久吾はケイラを見る。そこには縋る表情があるが、その中を微かな失望が過ぎる。それは自分がどちらを選び取るか、彼女が予感しているからだった。


「藤堂、選べば本当に秘密を……」

「勿論だ。お前と違って私は嘘はつかない。どうした九条坂、お前の選択はそちらでいいのか?」

「ああ、藤堂、俺に……その秘密を教えてくれ」

「了解したよ。それではこの女は不要ということだな。私が貰うとするよ。どうもありがとう」


 その言葉が終わると銃声が響いた。

 突然の発砲に何も反応することができなかった。

 視線を走らせた先には、声も上げずに血が溢れる腹部を見下ろすケイラの姿がある。


「藤堂!」

「どうした? 何をするのかとでも言いたいのか? この女は私のものだ。どうしようと私の自由だ」


 ケイラに駆け寄った久吾は彼女の腹部に自分の上着をあてがった。出血を止めようとするが、こんなことでは埒が開かないのは分かっていた。ここにいては何の術もなく終わるのは誰の目にも明らかだった。


「九条坂、そういえば地下に私の車がある。シルバーのメルセデスだ。使うか?」

「寄越せ!」


 笑みながらキーを揺らす相手に殴りかかる暇もなかった。

 キーを奪い取り、拘束を外したケイラを抱き上げて部屋を横切る。


「なぁ、やはりお前は落胆に足る男だったよ、()()


 届いた声に一瞬足を止めるが、記憶に留める必要もなかった。

 廊下を走り、エレベーターに乗り込んで地下駐車場に向かう。その間も痛みに喘ぐケイラの呻きは止まらなかった。


「久吾……」

「ケイラ、喋るな」

 力ない声に不穏が増す。

 だが自分がここでできることもない。


「久吾……」

「なんだ? ケイラ」

「……あんたって、やっぱりひどい男……」


 そう呟いて目を閉じ、彼女はそのまま気を失う。その言葉には何も答えられなかったが、彼女が再び目を覚ましても自分が伝えるべき言葉はもう何もなかった。

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