4.秋 その2
向こうから会いたいと言われたのは、初めてのような気がしていた。
いつも自分の方からやや強引に約束を取りつけ、会っていた気もする。
夜も深まる時刻、秋は後ろを歩く櫂を時折気にしながらも、少しの苛立ちを感じていた。
今日の彼女は珍しく制服姿ではなかった。いつもは学校帰りに会うことが多いからそうなるのは必然なのだが、今夜の櫂は白いシャツにチェックのスカートと制服とあまり変わらない服装であるものの、秋にとっては初めて見る彼女の私服だった。
「……秋」
「なんだよ、櫂」
呼びかけに応える声が、ついぶっきらぼうになる。
会えたのはうれしいが、手放しで喜べない事実もある。
昨日の留可との一件、それを彼女は気にしている。
会いたいと言われた理由がその関係修復を願ったものだと思えば彼女の優しさを感じるが、こういったことでもなければ会いたいと言われないことには、もやもやした感情が残る。
「秋、昨日の留可とのこと……」
「ああ、分かってるよ、櫂が何を言いたいかは。だけどあんなの珍しいことでもない。だから櫂が特別気にすることでもない」
相手の言葉を封じる自分に器の小ささを感じる。しかし今日は色々と気が回らなかった。
でも気が回らないのは今日だけではなく、ここ数日の自分はいつも苛々して、より不安定だった。
「なぁ、九条坂とは喧嘩したりすることはあるのか?」
あてもなく歩き続ける一番地の大通りは、こんな時刻でも多くの人がいた。自分とは無縁な高級ブランド店が通りに並び、どれも目にはきらびやかに映るが興味も意味もない。
向けた質問は彼女とあの男との日常に関心があった訳でも、それを知りたかったからでもなかった。黙ってしまった相手が気になったのと、沈黙の間を持たせるためだった。
「……久吾とはしないよ」
「……へぇ、あいつと仲いいんだな」
返事は戻るが、会話はすぐに途切れる。
先程は関心がないと自分には言ったが、嘘だった。
櫂のことをもっと知りたかった。それは鬱陶しいほどに切実な願いでしかなかった。
今だって戻った返答から彼らの親密度を勝手に深読みして、嫉妬にも似たものを沸き立たせただけだ。自分から漂うそのささくれ立った感情は、背後を歩く相手にも伝わっているはずだった。
かける言葉は何も浮かばず、何気に見たショーウインドーには通りを歩く二人の男女の姿が映っている。
自分とは反対の目に眼帯をしただらしない服装の輩と、その背後で俯く少女。
お前さ、もっとうまくやれよ。好きな子にそんな顔させないでさ。
心内でそう呟きが漏れるが、現実のこの光景に変化をもたらせられる訳でもない。
秋は足を止めると、振り返った。
今夜の彼女は一段と透けるような白い肌をしていた。それは顔色がよくないとも言い換え可能なものだったが、その心配を敢えて口にしたくなかった。
自分は櫂のことが好きだが、彼女の多くを知っている訳でもない。
自分が九条坂に絡むのは、櫂との関係にいつも嫉妬しているからだ。
櫂はいつも自分の心を惑わす。
今もきっと誰かの心を惑わしている。
決して手に入らない相手であるのに、彼女はいつもこちらの範疇内で自分を翻弄し続けている……。
「秋……」
「なんだ?」
「私……秋が何に悩んでいるのか分からない……だけど秋の力になりたい……どう力になればいいかも分からないけど、もし秋の悩みの理由がこの前助けた人、あの奈津川って人だっていうなら、私……」
「なぁ、ちょっと訊くけど、櫂はどうしてそう思う訳?」
「えっと……どうして……か?」
「ああ、櫂はどうして俺の悩みの原因があいつだって思うんだ?」
通りの向こうでは車のクラクションがけたたましく鳴り響いている。
神経を逆撫でるその音が途切れると、微かな声が届いた。
「私……あの人と初めて会った時からよくない感じがしてた……訳も分からずこんなことを言ったら駄目なのは分かってるけど……」
「けど?」
「秋があの人と一緒にいるのは、きっとよくないことだと思う。私、秋のことを」
「俺のことを?」
「守りたいから」
目の前には固い意思を秘めた表情がある。
力強くも感じるその表情に秋はなぜか苛立ちを覚えていた。
何も言わずに自分の傍にずっといてくれる可愛い女の子。
櫂のことを自分はそんなふうに見ていたのかもしれないと、秋は思った。だからこのように自らの意思を持つ彼女を目にすれば、齟齬のような苛つきを覚える。その上守ってやらなければならないと思っていた相手に「好きだ」と言われることもなく、逆に守ってやると言われている。
「ああ、分かったよ櫂、それならさ、こっちに来て俺のこと、守ってくれよ」
「えっ? 秋?」
秋は強引に櫂の手を取ると、路地に向かった。
高級店が建ち並ぶ通りだが、一歩裏に入れば他と変わらない。
握った手からは戸惑いが伝わってきたが、秋は気にせず奥に進んだ。路地の行き止まりまで行き着くと、その場で相手の背を壁に押しつけ、当惑する両手を握り取る。
先程から同じ感情が心の中で渦巻いていた。
本当の彼女を見ていなかった自分は、ただの間抜けなクソ野郎でしかない。
だったら間抜けなクソ野郎の自分は、もっとクソ野郎でもいいんじゃないか?
「櫂……」
強引にキスしようと顔を近づけるが、驚いた相手に当然拒まれる。それは当たり前の反応でしかなかったが、クソ野郎の脳味噌は思わずカッとなることしかしない。
「ヤラせろよ」
相手を見下ろしながら、自分でも呆れるほど最低な言葉を吐いていた。
向かい合う相手の表情が、当然悲しそうなものに変わる。
本当にクソで最低でクズだ。
自分自身にそう吐き捨てて、やけくそな思いでもう一度手を引き寄せると、なぜか彼女は拒まなかった。
瞳を閉じ、微かに手を握り返してくる。
再度顔を近づければ、何度も夢見た櫂の唇がすぐ目の前にある。
……俺、ホントーにクソでサイテーでクズだ……。
だがそんな呟きが心で漏れると、滅茶苦茶で下降しかしない感情はどこかに消えていった。
「秋……」
手を離して背を向けると、その声が届く。
静かに歩み寄った相手は、クソでサイテーでクズな男の手をもう一度取る。
それには自己嫌悪と止まらない悔恨しか繰り返されなかったが、言葉は何も出なかった。
「何も言わなくていいよ、秋」
暗い路地に彼女の声が響いた。
湿った暗がりに、仄かな明かりが灯った気がした。
でもそれを遮るように携帯電話の呼び出し音がポケットの中で鳴り響いていた。
表示された名を見ても秋はもう無視しなかった。
心にある澱みは自分自身で臨まなければ、誰にも取り除くことはできない。
ずっとそれから目を逸らし、これからもそうしたかったが、水底に身体が沈み込んでいくだけの逃避であるのは分かっていた。
『やぁ秋君、奈津川だよ。あのさ、君にプレゼントがあるんだ。今から僕の家に来て』
相手はいつもと変わらぬ声で一方的に用件を告げると、通話を終えた。
「櫂……俺……」
「分かってる、秋。私も一緒に行く」
ためらう視線を真正面から受け取った彼女は力強い瞳でこちらを見返す。
その意思に応えるように、秋は相手の手を握り返した。




